ありがとう
「俺……八十に刺されて、もう死ぬんだなぁって思ったとき……、親に捨てられたこととか、虐められてたこと……思い出して……、俺の人生……滅茶苦茶にしやがってって……恨んだんだ。俺のそんな気持ちがアイツを呼んじまったんだ……」
正人の顔が苦痛に歪む。傷口からは血が溢れ、通路を赤く染めていた。
「ごめんなさい……、俺がおねえちゃんを……ここに呼んじまったんだ……。死ぬ前に……どうしても、言いたくて」
正人はそう言うと、震える手でズボンのポケットからハンカチを取り出した。
「これ……」
そのハンカチは、美加がクエストで小さな正人の顔についた砂を払ってやったものだった。
――違うよ。と美加の頭の中で小さな頃の自分が叫んでいた。あれが私が正人の初めての出会いだったんだ。公園で虐められて泣いていた正人を私が助けて、ハンカチで顔をきれいにしてあげたんだ。
「ボクの目って、赤いんだね。うさぎちゃんみたい」
小さな自分が正人の頭を撫でながら言う。
「ぼくの名前は、正人だよ?」
小さな正人が、そう答える。
美加の頭の中に、封印していた小さい頃の二人の出会いが蘇っていた。
「学校で虐められたときも……、周りのみんなに陰口たたかれたり、笑われたり……、どんなときも、これが俺のお守りでした。……おねえちゃんにやさしくしてもら……たのが、俺の、生きる、支えでした。…………あり、が、と……」
正人は幸せそうに微笑み、そして二度と動くことはなかった。
「――まぁくん! まぁくん!」
握っていた正人の手を両手で抱くようにして泣く美加の肩を瑛太は黙ったままそっと抱いた。
「あーぁ。せっかくクエスト終わらせたのに、バッドエンディングとはね」
チェシャ猫の声に美加と瑛太は弾かれたように声のする方を向いた。
黒い塊は再びチェシャ猫の姿に戻っていた。猫が獲物を狙うときのように、しなやかに鞭をふるうように尻尾を動かしながら二人から少し離れたところに背筋をピンと伸ばして立っている。
「でも、まぁまぁ楽しませてもらったよ。新しいおもちゃもみつけたしね。――だから、約束通り、ミカは帰してあげる。君もね。和也の携帯は持ってるだろ?」
チェシャ猫に言われ、瑛太はポケットの中から和也の携帯を取り出した。
「よろしい」
勿体ぶった口調でチェシャ猫はそう言うと、初めて会った時のような礼をしてみせる。
「アデュー、ミカ。また会えるかもね」
チェシャ猫がニヤリと笑った途端、美加と瑛太は足元がぐにゃりと波打つのを感じた。
咄嗟に瑛太は美加を抱き寄せた。空間がねじ曲がるゆらぎに離れ離れにならぬよう、力いっぱいお互いの体を抱きしめあった。
周りの景色がマーブル状に融け合い始めた頃、美加と瑛太は遠くに人の姿を見た。
正人と美奈子の姿だった。ふたりで手を繋いで微笑みながら美加と瑛太に手を振っていた。
――ありがとう
幸せそうな二人がそう言うのを、薄れいく意識の中で美加と瑛太は確かに聞いた。
美加が目を覚ますと、懐かしい匂いが鼻孔をくすぐった。
真っ先に目に飛び込んできたのは、日に焼けた畳の目。美加は上体を跳ね起こし辺りを見た。――間違いなく、自分の部屋だった。
美加の背後で、同じく意識を取り戻した瑛太が頭の傷を押さえながら体を起こしているところだった。ふたりは互いに視線を合わせた後、どちらからともなく抱きあった。
アタラクシアとは違う柔らかな日差しが、そんなふたりをやさしく包み込んでいた。