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OFF  作者: 水縞こるり
第八章 アタラクシア
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ごめんね

 

「やぁ。やっとお姫さまが目覚めたようだね」


 邪気を含んだような笑い声が美加の頭上から降り注いでいた。うっすらと目を開いた美加は、自分のすぐ傍に倒れ伏している人の姿があるのに驚いて小さく悲鳴を上げて飛び起きた。


 見覚えのある風景に、美加は地面に座り込んだまま周囲を見渡す。

 そこは先程見た大阪の駅の構内だった。背後からナイフで刺され倒れている少年。その隣には頭から血を流しうつ伏せに地面に手足を投げ出している八十の姿。その二人を驚きの表情のまま遠巻きに見ている静止した人々。まるでクエスト1の箱庭のように切り取られた風景が美加の目の前にあった。


「やっと王と再会出来たね。十何年振り?」


 チェシャ猫が首を傾げながら両の手の指を折りながら数え始める。


「――やっぱり、私と王は……正人は前に会っているの? あの時の小さな子が正人なの?」

「正人のせいで、ミカのお父さんは死んじゃったんだもんね。ちっちゃいミカが頭の中からイヤな思い出を消しちゃうのは仕方ないことだと思うよ」


 そう言って神妙な顔つきで肩をすくめてみせるチェシャ猫は、すぐにニタリと表情を変えた。


「だけど困ったねぇ。せっかくミカがクエストをクリアしたって言うのに、パートナーの和也がいない。これじゃあ、帰れないよ?」


「和也は」言葉の途中で美加は大雅に強引に腕を捕まれ、まるで操り人形のように不自然な格好で立たされた。


「和也はいない。秋吉は俺をパートナーにした。俺と秋吉の二人を元の世界に帰してくれ」


 大雅の言葉に美加は反論しようと思ったが、キツく掴まれた腕を捻り上げられ悲鳴を上げることしか出来なかった。


「物足りねぇんだよ。頭ン中が作った偽物を何百……何千と殺したってよぉ! さっきまで生きてた人間が俺の手にかかって死ぬ瞬間……それを見届ける気持ち良さには全然かなわねぇ! チェシャ猫! 早く俺を戻せ!」

 

 鬼気迫る大雅の表情も物ともせずに、チェシャ猫は愉快そうに口の端を吊り上げ笑っている。


「いいね、それ。気に入ったよ、大雅」

「物分かりがいいな」


 チェシャ猫が機嫌良さ気にしているのを見て、大雅はほくそ笑みながら美加の耳元で言った。


「あっちに戻ったら、真っ先にお前を殺してやるよ」


 美加は声を上げることすら恐怖で忘れた口の中で、小さく歯がカチカチとなるのを聞いていた。


「でもさぁ、大雅。君、和也の携帯、持ってるの?」


「携帯?」

「そ、携帯。ミカはちゃんと自分の携帯、持ってるよね? 僕、携帯なくしたら帰れないよって教えておいたもんねー」


 ケラケラと笑うチェシャ猫に向かって、大雅は「畜生!」と言って自分の携帯を投げつけた。拘束されていた腕が自由になり、美加は正人の傍に倒れこんだ。


「だい……じょぶ……、おねぇちゃん…………心配、しない、で」


 静止している筈の正人の口から、かすれた声がしたのを聞いて美加は大雅に気付かれないように少しずつ正人の傍へ近寄っていった。腰に深く刺さったナイフを中心に正人の服がじわじわと血に染まっていく。クエストのような完全な静止した風景ではない。時間はゆっくりだが確実に動いているようだった。


「アタラクシアに呼んだ携帯と呼び出された携帯、それが揃わなければ元の世界には戻れないんだ。まぁ、往復切符みたいなもの? こればかりは僕にもどうしようもないよ」


 チェシャ猫の口調はますます楽しげなものに変わり、それと反比例して大雅の表情は険しくなっていった。チェシャ猫は大雅の携帯を拾うと、澄ました顔でゲーム画面を呼び出し、上目遣いに大雅を見るとニタリと笑う。


「あーぁ。この間、アリスにやられた傷を治すのに殆ど使っちゃった上に、ここに移動するのにもポイント使っちゃったから殆どゼロじゃないかぁー」


 大雅は大股でチェシャ猫に歩み寄ると、チェシャ猫が怯む間も与えずその細い首に両手をかけ、頭上に体ごと高く掲げて首を締めあげた。


「携帯なんざ、関係ねぇ。今すぐ俺を元の世界に戻せ」


 低く凄みを効かせた大雅の言葉にもチェシャ猫は吊り上げた口元の笑みを崩さなかった。


「――有罪――」

 

 チェシャ猫の口が大きく裂け、上顎と下顎がそれぞれ上下にめくれ上がる。口の中から深淵が覗き、蠢いて外に這い出そうとしているのを大雅は見た。大雅の目の前でチェシャ猫は体の内側と外側を入れ替えるように捲り上げられていく。


 大雅は悲鳴を上げ続けていた。チェシャ猫の足が最後に飲み込まれると、蠢く黒い塊は大雅の両手を包み、何本もの触手を伸ばすようにして大雅の体に広がろうとしているようだった。


「うわぁああああ!」


 大雅の脳裏には、アタラクシアに送られた時の恐怖が蘇っている。あの時のように取り込まれないと、大雅は無我夢中で両手を大きくスィングし、黒い塊を振り払った。


 黒い塊はべちょりと不快な音を立て、駅の構内の柱にへばりついた。指の間に残った塊の断片がざわざわと蠢き、ひとつに集まろうと大雅の手の甲を這い回っている。柱についた塊はどろりと溶けるように床に落ちて大雅の足元ににじり寄り始める。


 悲鳴を上げながら逃げようとした大雅の足が何かに驚いたようにピタリと止まった。「瑛太くん!」大雅の視線を追った美加は、その視線の先に瑛太と、瑛太の肩にぐったりとした体を支えられているヤソの姿を見た。


「美加ちゃん! 無事か?」


 瑛太の声に、美加は唇を噛み締め、うんうんと頷いてみせる。


「お前! 和也の携帯を持ってきたか!?」


 大雅の剣幕に瑛太が一瞬怯んだのを見て、大雅は更に畳み掛けるように大声を出した。


「今すぐ戻って携帯を取ってこい! でないと秋吉を殺す!」


 狂気の表情を浮かべた大雅が美加に向き直ると、ゆっくりとその差を縮めていく。


「なぁに……、元の世界に戻るまで息があればいいんだ。その細い首を折ってやろうか? それとも脊髄をへし折ってやろうか?」


 美加の傍に片膝をついて大雅がニヤリと笑うのと同時に、床を張っていた黒い塊がチェシャ猫の顔を形作ってニタリと笑うのを美加は見た。


「――!?」


 その時、瑛太に支えられていたヤソの姿が一瞬で掻き消えた。


 美加と大雅はすぐ近くで何かが動くのを感じ、同時にそちらを見た。正人の隣で倒れていた八十がむっくりと起き上がり、俯いたままで正人の体に刺さったナイフを引きぬいているのが二人の目に映る。

 

「和也……?」


 美加は思わず声を上げてしまっていた。ナイフを持った男の顔は八十ではなく和也だったのだ。想像もしていなかったことが目の前で起き、美加も大雅も凍ったように動けないで和也がナイフを振り上げるのを見ているしか出来なかった。


 眉間を狙って振り下ろされたナイフを、大雅は寸でのところでそれを躱した。しかし振り下ろされた勢いのままにナイフは深々と大雅の肩の下辺りに突き刺さった。悲鳴を上げて大雅は弾かれたように後ろに倒れこみ、足をバタバタさせて悶え苦しむ。


 ナイフを構えたままの和也は美加に見向きもせずに大雅に向かってゆっくりと歩いて行く。


「美加ちゃん、大丈夫か?」


 美加は自分の傍に駆けつけてくれた瑛太に思い切りしがみついた。ガタガタと体を震わせる美加を瑛太はしっかりと抱きしめる。


「悪かった! 殺すつもりはなかったんだ! まさか落ちるとは思わなかったんだ!」


 血が流れる肩を押さえながら、大雅は和也にじりじりと追い詰められていた。空を裂くように右に左にと振られるナイフの切っ先は一振りごとに大雅を切り刻んでいる。


 大雅は背中に何かが当たるのを感じ、行き止まりかと後ろを振り返る。


「――!」


 大雅の表情が一瞬で恐怖に凍りついた。大雅が壁だと思ったのは崖の下を見下ろすように枝を広げている松の木だったのだ。さっきまでの駅の構内の風景は一変して人気のない山道に姿を変えていた。半歩でも足を動かしたら崖の下に真っ逆さまに落ちるような場所に大雅は立っていた。


 大雅は逃げ場所を探そうと小忙しなく周囲を見渡す。その時、大雅の視線の端に映ったものが一瞬大雅の動きを止めた。崖の下の岩場に仰向けに倒れている人の姿。「ここは……」大雅の口から恐怖を含んだ声が発せられた時、和也はナイフを構えたまま大雅に突進していた。


 大雅の腹にナイフは深く突き刺さり、大雅と和也の体を宙に浮かせた。大雅の両手が何かに捕まろうともがくように空中に伸びるのを瑛太と美加は見た。――そして、それが大雅の姿を見た最後だった。



「――くっ……」


 正人の呻き声に、美加は瑛太の腕の中から離れると苦しそうに肩で息をする正人の体にそっと手を添えた。


「まぁくん……」自分の口から無意識に出た言葉に、美加は驚いた。美加にそう呼ばれ、正人の苦しげな表情に少しだけ笑みが浮かぶ。


 美加は思い出した。小さい頃、一緒に遊んでいた小さな男の子のことを。――父が亡くなったショックで、父の死のきっかけになっていた小さな男の子の存在をいつの間にか自分の中から追い出してしまっていたことを。


「おねぇちゃんの……お父さんを、事故に合わせちゃって、ごめん……なさい」


 正人の目に涙が浮かんでいた。美加は正人の手を取り、何度も頭を振ってみせる。


「まぁくんのせいじゃないよ。あれは事故だったの。――ごめんね、忘れちゃってて、ごめんね」


 美加の目からも涙がこぼれ落ちていた。


 

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