チェシャ猫の誤算
「お早いお帰りで」
柵に背中をもたれかけ空を見上げていたヤソは、瑛太が屋上に現れたのを見て敬礼のような仕草と一緒に軽口を叩く。
「あんまり無事じゃぁねーみたいだな」
瑛太の頭に巻かれた血で汚れた包帯を見て、ヤソは苦笑いする。
「アリスはデリートしたよ。言われた通りに」
ヤソは柵から体を離すと、アームウォーマーの鎖を鳴らしながら細身のパンツの両ポケットに手を突っ込みながら瑛太の傍までやってきた。
「――あいつが消えたからわかったよ。サンキューな、アリスとあいつを解放してくれて」
「その代わり、美加ちゃんがいなくなった」
携帯をヤソに手渡しながら言う瑛太の声は震えていた。瑛太の言葉に格別驚く様子も見せないヤソに、瑛太は脱兎の勢いで詰め寄り思い切り胸ぐらを掴んで締めあげた。
瑛太の剣幕にヤソはポケットから両手を取り出し、顔の横で降参のようなポーズを取ってから瑛太の肩に手を置き、ぐい、と自分から瑛太を引き離した。
「美加を連れ去ったのは、大雅だ。奴は和也の代わりに美加のパートナーになって元の世界に戻ろうとしている」
「和也は? 和也も一緒になってなのか? あの捨て札の部屋に和也の携帯が落ちていたんだ」
瑛太はポケットの中から携帯を取り出してヤソに見せたが、ヤソはちらりと一瞥しただけで、携帯が誰のものか確かめようともしなかった。
「和也の携帯は大雅が持っていた。――和也はあんた達がアタラクシアに着く前にとっくにに殺されてたんだよ、大雅にな」
予想もしていなかったヤソの言葉に、瑛太は声もなく立ち尽くすしか出来ずにいた。
「大雅ががむしゃらに狩場でポイント稼ぎを始めたのは和也がアタラクシアに来てからだった。美加をここへ呼ぶためには和也の携帯でポイントを貯めなけりゃあダメだ。だから俺も大雅の動きに用心しつつ泳がせてた。――美加と連絡を取らせた直後に殺すってぇのは俺の誤算だったが」
「最初から知っていたのか? 和也が殺されていたことを、あんたは最初から知っててなぜ黙ってたんだ?」
瑛太に問い詰められてヤソは少しだけ視線をそらせる。
「美加と王を会わせるためだ。クエストをクリアすれば王の元へ行ける。その時が唯一のチャンスってぇわけ。――アイツから俺を解放する……、このアタラクシアをぶち壊すための……」
ヤソの力強く握りしめた拳が、枷のようにつけたアームウォーマーの鎖をチリチリと鳴らしていた。
「ヤソ……、君は誰なんだ? チェシャ猫に携帯に閉じ込められた僕を助ける力を持っていたり……、アリスをデリートする方法を知っていたり……。まるで君がこのアタラクシアのすべてを知って……」「アイツにも誤算があった」
有無を言わせぬ口調でヤソは瑛太の話に切り込んでくる。
「アイツ……?」
「この狂った閉鎖空間を創った奴だよ。――あんたも薄々わかっているだろう?」
「……チェシャ猫……か?」
「王は……正人はただの媒体にすぎない。この世のすべてを恨み、憎しみ、絶望の中で死を待つしかなかった俺の心が呼び寄せた化物だ」
自分の問いに明確な意思表示を示さず話を続けることが答えと理解した瑛太は黙ってヤソの話に耳を傾けた。
「俺は親に捨てられて施設で育ったんだ。先天性の皮膚の病気があってな……、多分そのせいで親は俺をいらないって思ったんだろうな。友達なんてひとりもいなかったし、いつも汚らしいものを見るような目でみられてた。中学を卒業してからは、雇ってもらえるところでならどこでも働いた」
ヤソは瑛太に背を向けて話し続ける。
「携帯を持って、ゲームを始めるようになって俺は初めて普通に人と話しをすることが出来た。誰も俺の本当の姿を知る奴ぁいない。誰も俺を汚らしいといって変な目で見ない。――ゲームの中で俺のキャラが強くなればなるほど、みんなが俺をすごいと言ってくれた。俺と話をしたいってだけで、ずっとゲームの中で俺を待っていてくれる仲間も出来た」
うっすらと滲んだ涙を乾かすかのように、ヤソは空を見上げ眩しい太陽の光に眼を細めた。
「アリス……美奈子とはそのゲームで知り合った。俺たちが惹かれ合うのに時間はいらなかった。似たような境遇が俺たちを不思議と惹きつけていったのかもしれない。ゲームの中では、俺が王で美奈子は女王のような存在になっていった」
「――あの日、美奈子が俺に会いに大阪に向かってるとメールをよこした時……、俺は自分の本当の姿を知られることが怖くて拒絶した。やっと掴んだ幸せな世界が壊れるのが嫌だった。――でも、美奈子が俺の傍からいなくなるのは……もっと嫌だったんだ」
「俺がやってた仕事ってぇのが、すっげぇヤバイ仕事でさ。表向きは合法ドラッグやハーブ売ってることになってたけど、裏じゃあ何でも有りだった。店員なんて柄の悪いチンピラみたいなのばかりでさ。――急用が出来たんで仕事上がらせて欲しいって言っても聞いてくれる奴なんざいねーし。そん時、一緒に店番してたのがこの八十秀典って奴」
ヤソは瑛太の方を振り向いて肩をすくめながら両手を広げてみせる。
「こいつがひでぇ奴でさ。よく仕事中、俺の携帯ぶんどって俺に成り済ましてゲームしたりしてやがった。それだけじゃあ足りずに自分の携帯でも同じゲーム登録して、そっちでも俺に成り済ましてたりな。そのせいでウザい噂もつきまとったが、おかげでヤソの姿を借りてだがこうしてアタラクシアに入れたことだし、ちったぁ役には立ったわけだ」
「――ヤソがアタラクシアにいることが、チェシャ猫の誤算……?」
瑛太の言葉にヤソは唇の端を上げて笑うと手を叩いて「ご名答」と言った。
「仕事抜け出したいなら携帯置いていけ、って奴は言った。俺の使ってた携帯は仕事の取引で使うようにってヤソから渡されたものだからな。断っても、いつもと同じく袋叩きにあって取り上げられちまった。――奴は俺が奴を殺してでも携帯を取り返そうなんて思ってもみなかったんだろうな。俺が奴の頭にブロンズ像振り下ろすのに全然気が付かなかった位だかんな」
最後をおどけたような口調で言うと、ヤソは自分の後頭部を指で指し示すような仕草をしてみせた。
「そうか……。だから美加ちゃんが探索したときに、君ではなくヤソの名前が出ていたんだ……」
瑛太がそう言うのを聞いて、ヤソは頷きもせずに小さく笑うだけだった。
「俺は自分の携帯と八十の携帯を持って事務所を飛び出した。仕事の注文は携帯に入ってくる。電話に出なけりゃ、即、ボスにクレームが飛ぶ。そうすれば、すぐに八十が店ん中で転がってるのが見つかっちまう」
「――駅に着いた時、俺の目に飛び込んできたのは高速で起こった事故のニュースだった。炎を上げているバスの映像と一緒に、美奈子の名前がテロップで映しだされていた。その事故の唯一の犠牲者としてな……」
ヤソの言葉を聞いて、瑛太はハッと息を飲む。ここでヤソが美奈子と一緒に炎に包まれる罪を繰り返していたこと。――その訳を瑛太は痛い程に理解した。
その瞬間、ヤソは崩れ落ちるようにコンクリートの床に崩れるように両膝をついた。
「ヤソ!?」
慌てて駆け寄り今にも倒れそうなヤソの体を支えようとした瑛太は、ヤソの後頭部からおびただしい量の出血があるのに気がついた。
「ど……どうしたんだ? さっきまでこんな……」
「……アリスが消えたことで……崩れたバランスが……止まっていた時間を、動かし、始めた。……王のところへ急ごう。美加とお前は……何としてでも、元の世界へ、返す」
ヤソはふらつく足で立ち上がって瑛太を見据えた。急激に引いていく血の気で蒼白な表情の中、唯一ヤソの目の輝きだけは元のままだった。
「行こう。美加ちゃんと……君を助けに」
瑛太はヤソに肩を貸すと最後の戦いの場へ向かう一歩を力強く踏みしめた。
――美加は深い深い意識の中に沈んで夢を見ていた。
いや、それは夢というよりも誰かの記憶を映像として見せられているようなものだった。
その映像の中で、美加は生まれ故郷の仙台にいた。少し離れたところに洗車をしている父の姿があった。
――あのクエストの中の景色だ、と美加は思う。
その父の元に慌てた様子で顔見知りの中年の女性が走り寄ってきた。ジャージ姿のその人は、家の近くにある児童院の職員だった。その後に続いて小さな少年を抱きかかえ、もうひとりの職員がやってくる。
子どもが急病で病院に連れていきたいのだが、院の車がすべて出払っていて連れていくことが出来ない。タクシーも時間がかかるそうなので病院まで連れていってもらえないか。――そんなやり取りが美加の頭の中で響いている。
近所のよしみと言うことで、美加の一家は児童院の職員や子供たちと懇意にしていた。父は家の中にいた私に「ちょっと出掛けてくる。すぐ戻るから」と玄関口から声をかける。その声を聞きつけて道路に出てきたのは小学生の頃の私だった。動き出した父の車に向かって手を降っている。
すぐに戻ると言っていた父は、病院へ向かう交差点で居眠り運転の車に追突され帰らぬ人となってしまった。同乗していた二人の職員も亡くなり、唯一、子供だけが大怪我をしながらも命は取り留めたらしい。
顔を隠すように深く帽子を被った男の子を連れて、児童院の院長が家に訪れて深々と頭を下げていた。玄関口で対応した母の後ろに隠れるようにして、不安そうな顔をして見ている自分の姿。――これは父が死んで半年位経った頃だったろうか?美加はぼんやりとした夢の中で記憶を手繰り寄せていた。
「大阪の遠い親戚に引き取られることになりました」「あちらに行っても元気でね」そんな短いやり取りが交わされた後、二人は去っていった。
そして、場面は一転する。
少年は成長していた。ランドセルを背負っている姿。中学の制服を着ている姿。美加の目の前でめくるめくような速さで成長していく。――そして、それらの流れの中で、常に少年は好奇の目や気味の悪い生き物でも見るような目に晒されていた。学校では毎日のように虐められていた。
美加は少年の容姿に見覚えがあった。ひどく乾燥したように見える肌。顔に無数に広がる鱗のようなかさぶた。――クエスト1で見つけた正人と名乗った小さな男の子と少年の姿が重なった。
――私は、あの子と本当に会っている……? 小さい頃の出来事で覚えていなかったのだろうか? 美加の頭の中は混乱し始めていた。
場面は次々と切り替わる。
窓のすぐ外を線路が走る狭いアパートの一室。日当たりも悪く電車が通過する度にガラスがビリビリと振動している。そんな部屋の中で少年は壁にもたれて携帯を操作していた。学校では見られないような笑顔がそこにあった。美加の目に少年の幸せそうな顔とカイと通信をしている時の美奈子の笑顔が重なって見えた。
「化けモンのくせに色気づいてんじゃねーよ!」
殴り倒され床に転がった少年の腹に細身の背の高い男が蹴りを入れる。美加はその顔を見て驚いた。少年に暴力を振るい侮蔑の言葉を投げつけたのは、アタラクシアで何度も美加を助けてくれたヤソだったからだ。
「おとなしく渡せばいいもんを。馬っ鹿じゃねーの」
笑いながら床に落ちた少年の携帯を拾うと、床の上で呻いている少年に背を向けて椅子に座り机の上に足を投げ出す。
「お? 美奈子、お前に会いに来るって? 俺が代わりに会ってやるかー。美奈子、美人だしなー。化けモンのお前に会ったら、美奈子、ガッカリするだけだろ?」
野卑た八十の笑い声は、彼の頭に振り下ろされたブロンズ像の一撃にかき消された。
椅子からだらりと垂れ下がった八十の手から携帯が落ちるのと、少年の手から血に濡れた凶器が床に落ちるのと殆ど同時だった。
少年は駅に設置されたTVの前に呆然と立ち尽くしていた。事故の様子を伝えるニュースの中では、以前写メを交換していた見覚えのある顔が映し出されていた。
「アリスが……死んだ……?」
高速バス乗り場の付近では、乗客を出迎えに来ていた人々とバス会社の職員と思われる人物が小競り合いをしている。TVが次のニュースを伝えだしても、少年の目は画面に釘付けになっていた。
その時、少年は背後から誰かに体当たりをされよろめいた。腰の辺りに熱く鋭い痛みが走る。
「化け……モンが……」
ゆっくりと絞りだすような声が少年の耳元から崩れ去っていく。どさり、と音を立てて八十の体が駅の構内に倒れ落ちているのを少年は見た。
少年の周囲で悲鳴が沸き起こる。八十が倒れたからだけではない。少年の背に深々とナイフが刺されているのを見たからだった。
少年も床に崩れ落ちる。震える手で携帯を操作し、メールを打ち始めた。
ずっと待ってるから
少年の手から携帯がこぼれ落ちる。――そこで美加は意識を取り戻した。