もう、ひとりじゃない……
瑛太の体越しに見た光景に、美加は流れる汗が一気に氷のように変わるのを感じた。
ベッドの足元の方からゆっくりと女の体ににじり寄っている何体かの子どもの姿があったからだ。一番大きくて3才位だろうか。酷く痩せた体に傷や痣を無数に作った男の子を先頭に、まだハイハイが出来るようになった頃と思える乳児は頭の右側をありえない程に凹ませている。新生児からまだ形を成していない胎児のようなものまでが恐怖の叫びを上げ続ける女の体に這い寄っていたのだ。
「これがこの女の罪だ。十代の頃からの堕胎。産んでみても育児放棄に虐待。――こいつの旦那も一緒にアタラクシアに来ていたが、こいつより先に捨て札になって処分された」
暴れまくる女を羽交い絞めにする手を緩めることなく大雅が言った。その口調がどことなく楽しげに聞こえて美加と瑛太は戦慄を禁じ得なかった。
「やめて! 許して! もうしないから! ごめんなさい! 私が悪かったから!」
許しを乞う女の口を、たくさんの小さな手が塞ぎ始める。抵抗する女が頭を振ろうとしても、それを許さないほどの力で子どもたちは女の顔中を覆い尽くしていた。
苦しみに体をのたうち回らせていた女の体が動かなるまで1分もかからなかっただろう。女は失禁の後、ぐったりと手足をベッドの上に投げ出したのを最後に動かなくなった。――それと同時に女にまとわりついていた子どもたちの姿は消え、炎天下の中に置いた車の中のような暑さもすっかりどこかへ消え去ってしまっていた。
「アリスが来るぞ」――まるでおもちゃに飽きた子どものように、大雅は女の体をベッドの上に放り投げると美加たちの方へ歩み寄りながら言った。
「――誰? アタシの楽しみ、取っちゃったヤツ。サイテー」
ベッドの上にアリスがふくれっ面をして立っていた。部屋の赤い壁紙にも溶けこむことのない存在感のある鮮やかな紅いゴスロリドレスに身を包み、手にした大鎌に猫のようにしなだれかかってみせていた。
「携帯、返しなさいよ」
広げた手を美加に向けたアリスは残忍そうな笑みを口元に浮かべる。
「それとも、アンタが次の捨て札になる?」
しかし、美加はそんなアリスの挑発に負けなかった。
「アリス――いえ、滝口美奈子。私はあなたに、王の……カイの最後のメッセージを届けに来たの」
カイの名前が美加の口から出た瞬間、アリスの細く美しい曲線を描いた眉がぴくりと動く。
「カイの名前を気安く呼ぶなぁあっ!!」
大鎌を振り上げたアリスの体が獲物を狩る鷹のような素早さで宙に舞った。美加を守ろうと咄嗟に動いた大雅と瑛太の頭上を大きく弧を描き、空中で猫のように身を捻ったアリスは美加の背後に着地の体制を取りながら大鎌を振り上げた。
「させるかっ!」
誰よりも先に動いたのは大雅だった。咄嗟に美加の手を引き、自分の方へ力任せに引き寄せる。鈍い音を立てて大鎌の切っ先は大雅と美加の体からほんの数センチ離れた場所に深々と突き刺さった。
瞬時に反撃の体制に映った大雅の腕を瑛太が押しとどめる。大雅は理解出来ないと言った風に目を見開いて瑛太をみたが、瑛太の目が自分ではなく床の上に落とされているのに気づき、その視線を追った。
床に刺さった大鎌の傍に、アリスは両手を床につけて屈みこんでいた。先ほどの様子とは打って変わって苦しそうに肩で息をしている。
「返してよ……携帯……。大雅! 早く捨て札、用意しなさいよっ!!」
顔面を蒼白にしたアリスの怒号が飛んだ。
「この世界の中でオールマイティなジョーカーの存在でいるには、ゲームの中のバトルで勝ち続けなければいけない。アリスを操作する捨て札がいなくなったことで、今、ゲームの中のアリスは無防備なままで一方的に敵に攻撃され続けている。――アリスが急激に弱ったのは、そのためなんだ」
大雅の目の中に攻撃の色が消えたことを見とった瑛太は静かに話し始めた。
「携帯を操作する手を休めれば、捨て札はさっきのように自分の罪に殺されてしまう。だけど、24時間寝ずに何日もゲームを続けるのは無理なことだ。――僕はこの世界を創った目的が、現実の世界で野放しになっている罪を罰するのが目的ではなくて、ただ殺戮を繰り返すことを楽しんでいるだけのように思えてならないんだ……」
苦痛の表情を浮かべながら自分を睨んでいるアリスを、瑛太は悲しそうな目で見つめることしか出来なかった。
「じゃあ、このまま放っておけばアリスはデリート出来るってことか? 簡単だな。――あとは秋吉の出番か?」
あまりの呆気なさに大雅は拍子抜けといった顔をアリスに向けた。
「――アタシが、消えれば、王も消えるわ。”アイツ”が王をこの世界に連れ込んで、アタシは”アイツ”に創られた。ふたりでひとつなのよ。アタシはアタラクシアのハートの女王・アリス。アタシが消えれば、この世界は存在する力を失ってしまう……。アンタたちはこの世界に閉じ込められたまま消えてしまうのよ」
アリスは高らかに笑う。体からほとんどの力が抜け、床の上にぐったりと体を横たえてもアリスは笑い続けた。
「美奈子……」
美加はアリスの傍らに膝をつき、優しくなだめるように話し始める。
「あのバスの事故の時、最後にメールが来ていたのを覚えてる?」
アリスは笑うのを止め、目だけを動かして美加を見た。瑛太がアリスの上体を抱き起こし、美加が示した携帯の画面を見やすいようにしてやると、アリスは画面の右上にあるメールの受信中を告げるアイコンのある辺りに視線を泳がせた。
「――見たくない……」
アリスがぽつりと呟くように言った。
「――見たくないよ。カイが私をいらないなんて言うの、見たくないよ。――お願い、このままでいさせて。アリスのままで、ずっとカイと一緒にいたい」
アリスの顔から雨の雫が流れ落ちるように、狂気の色が消え去っていた。美加の脳裏に、ひとりぼっちの台所で膝を抱えてビスケットを食べていた小さな少女の姿が蘇る。
「あなたの携帯はカイからのメールを受信する前に炎に包まれてしまったの。だから、カイの本当の気持ちが伝わらなかった」
「ほんと……の、気持ち?」
美加はヤソの携帯を取り出し、メールの送信ポックスを開いた。
「これはカイの携帯。わかる? 一番上のメールの日付と時間。あなたに宛てた最後のメールよ」
美加はメールの本文を開くと、携帯をアリスの顔の前に持って行きアリスの目の動きに合わせてスクロールしていった。
カイ:
――馬鹿だよ、お前って本当に馬鹿だ。
俺の方がお前にずっと救われてた。
小さい頃から病気のことでずっといじめられて、
友達もいなかった俺を好きっていってくれたの、お前だけだった。
お前に嫌われたくなくて、偽の写メ送ったりした。
毎日、嘘がバレるんじゃないかって怖かった。
だけど、嘘がバレてお前が俺の傍からいなくなるのが怖くて
ずっと嘘つき通してた。
愛してるっていった気持ちに嘘はないよ。
アリスとずっと一緒にいることが俺の生き甲斐になってた。
俺の本当の写メを送ります。
俺はこんなヤツです。
アリスがずっと思ってた俺の姿と全然違うヤツです。
もし、許してもらえるなら、
こんな俺でも、アリスの傍にいてもいいなら、
大阪駅で待っていてください。
迎えに行きます。
甲斐正人
メールを読み終わったアリスの目からボロボロと涙がこぼれ落ちていた。アリスが必死に動かなくなった体を動かそうとしているのを見て、彼女が何をしたいのか察した美加は、カイの携帯を持たせるようにして胸の上で手を組ませてあげた。
アリスは満ち足りた笑顔で大きくひとつ息をついた。
「私、カイの……正人のところに行きたい……。お願い……アリスを、デリートして」
儚く、今にも消えてしまいそうなか細いアリスの願いに美加の目にも涙が溢れてきた。
「このまま……私が消えるのを待って……たら、また、”あの人”がアリス、を創り上げる……。ゲームそのものを、削除、して……」
美加は躊躇していた。アリスをデリートするためにこの部屋へ来た美加だったが、実際に目の前に息も絶え絶えになっている少女を見て、その気持ちは揺らいでしまっていた。――第二のアリスが創られないようにゲームを削除するのが最善の方法なのだろう。アリスの携帯でゲームアプリを立ちあげて見たものの、その先の動作に美加は進めないでいた。
「美加ちゃん……、僕が変わろうか?」
見かねた瑛太がそう声をかけてくる。美加は涙を拭い、鼻をすすると小さく頭を振って言った。
「これは、和也を助けにきた私の仕事。――美奈子、王の傍にいてあげてね……」
美加の言葉に、アリスはにっこりと微笑んで目を閉じた。
「うれしい……。もう、ひとりじゃ……な……い」
【アプリの利用を停止する】携帯画面の中のリンクにカーソルを動かし、美加は静かに決定ボタンを押した。
瑛太に支えられていたアリスの体は小さな光の粒に分裂し、外側から徐々に崩壊と共に消滅していく。――すべてが消え、アリスが持っていたヤソの携帯が床の上に落ちるまで、ほんの数秒の出来事だった。
「美加ちゃん、よく頑張ったね。一旦、ヤソのところへ戻ろう。王の謁見の間がどこにあるか教えてもらわないと」
次の瞬間、美加の目の前で信じられないことが起こった。床に落ちた携帯を拾おうと上体を屈めた瑛太が鈍い音の後、声も発しないまま崩れ落ちてピクリとも動かなくなってしまったのだ。
倒れた瑛太の傍には、電気スタンドを握りしめた大雅が鬼のような形相で立っていた。
美加の手の中から美奈子の携帯が床にこぼれ落ちた。その音が一瞬真っ白になってしまった美加を現実に引き戻した。
「瑛太くん! 瑛太くん!? しっかりして」
瑛太の体を揺さぶる美加を見て、瑛太を見下ろすようにして立っていた大雅は、担いでいた電気スタンドを乱暴に放り投げると美加の腕を掴み力任せに自分の傍に引き寄せた。
「今からあんたのパートナーは、俺だ」
ニヤリと笑う大雅を見て、美加の胸に不安がよぎった。
「私のパートナーは和也よ。和也に呼ばれてここへ来たんだから」
精一杯の抵抗も、大雅の次の一言で絶望へと突き落とされる。
「和也は、俺が殺したよ」