う そ つ き
美加が振り向いたそこに立っていたのが瑛太だったからだ。
物音どころか気配すら感じさせず、薄暗い空間に獲物を待ち構えて大きく口を開けているような階段の入り口に瑛太は立っていた。
悲鳴をあげまいと咄嗟に抑えた口元の手を緩め、美加が震える声で瑛太に声をかけようとしたその時、瑛太は何かの気配を察したように微かに眉を動かすと、美加を抱き寄せ階段の壁の裏側に張り付くようにして身を潜めた。
「――瑛太く……」
何事が起こったのか理解出来ず肩越しに顔を覗かせてくる美加に、瑛太は人差し指を唇に当て声を出さないようにと合図を送った。
美加は無意識に瑛太のシャツを握り締めていた。
服越しに伝わる瑛太の体温に安堵し、子供のように無防備に泣き出してしまいそうになるのを抑えたのは、耳に届いた鋭く細いヒールの靴音――そして衣擦れの音だった。
何かがこちらに向かって近づいてくる。壁越しにエレベーターの前を凝視している瑛太の緊張感が美加にも痛いほどに伝わっていた。
そんな二人の視界に現れたのは、純白のウエディングドレスに身を包んだひとりの女性だった。
ヴェールで覆われているので、花嫁がどんな表情をしているのかさえもわからない。
白い胡蝶蘭のブーケを持ち、うつむき加減で歩いてきたその人はエレベーターの扉と向き合うようにして立ち止まる。――すると、止まっていた筈のエレベーターは身震いするような音を立てて動き出し、5階から規則正しい速度で1階に向かって降り始めた。
アップにした髪の後れ毛が細く白いうなじにかかっているのが、美加の目にその花嫁を幼く見せていた。
到着したエレベーターに花嫁が乗り込み、扉が閉まるのを確認すると、瑛太は弾かれたように上へ上がる階段へ向かって走り出した。
「屋上だ!急いで!」
そんな瑛太の声にも、美加の頭をよぎった一瞬の不安が彼女の足を踏みとどまらせてしまっていた。
瑛太はどうやって携帯の中から脱出できたんだろう?
この瑛太は本物の瑛太なんだろうか?
人の頭の中を覗き、記憶を具現化出来る王の能力で作り出された瑛太なのではないかと言う思いが美加の胸をよぎっていたのだ。
それでも、美加は前に進むことしか道はないと痛いほどに理解していた。
アタラクシアに迷い込んでから、選択肢のない1本の道を美加は歩き続けている。――まるで誰かによって出口へと導かれているかのように。
目の前に現れるすべての事柄が、アタラクシアの謎を解く鍵。その行き着く先が元の世界へ通じている……、そう信じて美加は瑛太を追って走り出した。
先に5階までの階段を上り終えていた瑛太は、屋上へと続くドアの横から外の様子を覗き込むようにしていた。息を切らしながら遅れて姿を見せた美加に気づくと、無言のままで手招きしてみせる。美加が近づくと、瑛太は場所を譲るように外を警戒しながら開いたドアの向こう側に移動した。
「――始まる」
瑛太のささやきに、美加は周りの空気が緊迫していくのを感じた。ドアの向こうで一体何が始まるというのだろう? ――美加は荒れた呼吸を必死に抑えながら慎重に外へと視線を移動させた。
美加の目に先ほどエレベーターに乗り込んだ花嫁と、彼女と対峙するように少し離れた場所に立つヤソの姿が映った。屋上を吹き抜けていく風が、花嫁のヴェールを揺らしている。
『――独りだから、寂しい。だから、ふたりでいよう……』
風に乗って花嫁の声が美加と瑛太の耳に届いた。
『何も、いらない。あなたがいてくれれば』
ゆっくりとした口調に合わせるように、ドレス姿の花嫁は一歩ずつヤソに向かって歩いていく。
ヤソは動かない。黙って自分の方へと距離を縮めてくる彼女の姿をみつめている。
その表情を美加は前にも見たことがあった。
――敵が強けりゃ強いほど、そいつの恨みもすさまじいものだと、俺ぁ、思ってる。
美姫の狩り場でのヤソの言葉と寂しげな顔を美加は思い出していた。
ここがヤソの狩り場だとしたら、あの花嫁はヤソに恨みを持つ相手?
美加の頭の中で、いくつかのキーワードが符合していく様が浮かび上がってくる。
結婚の約束、か細い身体の幼い花嫁……、そして何より美加には花嫁の声に聞き覚えがあった。
「――アリス……」
ヤソの敵がアリス――滝口美奈子とわかった途端、美加は力が抜けたようにその場に膝をついてしまった。
花嫁姿の美奈子はヤソの目の前で立ち止まり、ゆっくりと顔を上げる。
「――だめ、ヤソ、離れて……」
壁の縁に手をかけ身体を支えるようにして美加が身を乗り出したその時、美奈子の唇が
「う そ つ き」
と動いた。
次の瞬間、ウェディング・ドレスは紅蓮の炎に包まれ美奈子は炎の柱と化していた。
立ち上る熱気にヴェールが舞い上がり、恐怖に目を見開き悲鳴を上げ続ける美奈子の顔があらわになっている。美加は全身を震わせながら美奈子の悲鳴から逃れるように両手で耳を塞いだ。
ヤソは劫火に逃げることもせず、悲しげな表情を浮かべたままで美奈子を抱きしめた。
炎はあっという間にヤソの全身もなめ尽くし、美加と瑛太の目の前で二人はひとつの火柱となって天をも焦がす勢いで燃えあがっていた。
耳を塞いだ美加の耳に、オペラのアリアが聴こえてくる。
クエスト2でアリスの身体の中に入り込んだ時に最初に聴こえてきたあの音楽だった。――人間の声とは思えぬソプラノの歌声が美奈子の悲鳴と重なる。
強く耳を塞いでも、音楽を振り払おうとしても美加の耳から歌声と悲鳴が途切れることはなかった。
「美加ちゃん! 大丈夫か?」
瑛太が心配そうに美加の肩に手をのせ、声をかけてきた。
耐え切れなくなった美加は、泣きながら瑛太の胸に飛び込んだ。
「お願い! もうやめさせて! アリスもヤソも可哀想だよっ」
震えながら泣きじゃくる美加の身体を瑛太はそっと抱きしめ、そして言った。
「これがヤソの罪と罰なんだ。何度も繰り返される悪夢のようなループ……。それを断ち切れるのは、美加ちゃん、君しかいないんだ」
瑛太の言葉に美加は泣き顔のまま顔を上げ、眉を顰めて頭を振る。
「……どうして?どうして、私?」
瑛太は美加の両腕を掴み、彼女をまっすぐに見据えて言った。
「君は、ヤソのジョーカーだ」
理解しがたい言葉の連続に美加の思考は麻痺してしまう。
口を開いても言葉を発することが出来ず、もどかしい思いで宙を掻いた手が握り締められたその時、アリスの悲鳴が天に伸びる炎と共に空を焦がすように一際高く響き渡った。
美加と瑛太が屋外に視線を移した時、花嫁の姿は空中に吸い込まれるように瞬時に消え、ヤソだけがひとりその場に取り残されていた。
「行こう」
瑛太に腕を引かれるまま、美加はヤソの元へと連れて行かれた。あれだけの炎に包まれていたのに、その形跡を微塵も残していないヤソの姿に、美加は驚きの余り彼を凝視してしまう。
「――よぉ」
そんな美加の心の内を見通したのか、ヤソは自嘲するように唇の端を上げるとズボンのポケットから伸びていた携帯ストラップを手繰り寄せた。
「これ、返すぜ」
ヤソが美加に手渡したのは、美加の携帯だった。携帯を受け取るや否や、美加は勢いのままに乱暴に携帯を開くと待受け画面を確認した。
自分が設定した壁紙が待受け画面に表示されているのを見て、美加は改めて隣に立っている瑛太を見直す。瑛太もまた、美加の聞きたいことを見透かしたように静かに言った。
「ヤソに出してもらったんだ」
「最後のクエストは、もう始まっている。与えられたヒントを元に王の部屋まで辿り着くことだ」
美加が瑛太に問いかけるのを遮るようにヤソが口を挟んできた。
「――あなたが、王ではないの?」
美加は自分でも驚くくらいの冷静な口調で、ヤソにそう尋ねていた。
「今の段階では答えはNOだ」
今の段階では?
釈然としないヤソの返事に美加が再び口を開こうとした時、背後でエレベータの到着を告げる乾いたチャイムの音が鳴り響いた。
――まさか?
弾かれたように振り向いた美加がそこに見たものは、一点の汚れさえない輝くばかりの純白のウェディング・ドレスに身を包んだ美奈子の姿だった。
美姫の時と同じように、狩り場にいる限り続く罪と罰を繰り返すループ。
ヤソは自分の携帯を瑛太に向かって放り投げ、ひとことこう言った。
「頼んだぞ」
携帯を受け取った瑛太は、ヤソと視線を合わせた後に頷くと美加の手を取って矢庭に走り出した。
ヤソの元へとまっすぐに歩いていく美奈子の横を通り過ぎ、瑛太は美加を連れて階段を駆け下り始めた。
「瑛太くん、待って。一体どこに行くの?」
「アリスをデリートする」
足を止めることもなく背中越しに聞こえてきた瑛太の声に美加は愕然とした。
あのアリスを消す?
一刀で大雅を倒したアリスを消すことが出来るというのだろうか?
ヤソが美奈子の恋人のカイなら、なぜアリスを消そうとしているのだろうか?
そして、自分がヤソのジョーカーという意味は?
美加には何ひとつとして答えを見出すことが出来なかった。
ただひとつわかっていること。――それは、自分の携帯を瑛太に渡したことで移動の手段を失ったヤソが、あの悲しくも恐ろしいループを繰り返さなければいけないということだった。
自分にあのループを断ち切る力があるのだろうか?
アタラクシアという閉ざされた世界が自分に何をさせようというのだろうか?
今の美加に出来るのは、後ろから追ってくるように聞こえてきた美奈子の悲鳴を振り切って走ることだけしかないと言うのに。