ラストクエスト
「それじゃあ、次はいよいよラスト・クエストだね。クエストに進むのに必要な手筈は整えておいたよ」
そう言ったチェシャ猫の顔は、幼さの中に狡猾さを覗かせたようないつもの表情に戻っていた。
「待って! 聞きたいことが」
薄ら笑いを浮かべるチェシャ猫の体が空気に溶けるように消えていく様に、美加は苛立たしげに語尾を飲んだ。
「相当ひどいクエストだったようだな」
憔悴しきったような顔をした美加を見て、大雅は苦々しい笑みを浮かべていた。
「近くにあるコロニーで休憩するか? それともクエストを進めるか?」
大雅が差し出した手を取り、よろめきながら美加は考えを巡らせていた。
クエスト2で行動を共にしていない瑛太に、クエストの内容を説明しなければならない。
カイとアリスの存在。
カイが作ったと言う、この世界と同じ名前のチーム・アタラクシア。
大鎌を持った死神のようなアリスと瓜二つなアリス……滝口美奈子。
全身を炎で包まれたアリスの姿がよみがえり、吐き気を催した美加は空いた左手で口元を覆った。
「大丈夫か? 秋吉」
心配そうに自分を見ている大雅に、美加は涙目でうなずく。
「コロニーのことなら心配するな。普段はコロニーが消滅する前には建物から出るように警告するメールが届く。――さっきはヤソとやりあってたんでそれに気づかなかった」
美加が自分の問いかけに答えられないのは、コロニー消失に巻き込まれたときのショックからだと思ったらしく、大雅は申し訳なさそうにそう言ってきた。
「秋吉、携帯はどうした?」
怪訝そうな大雅の声に、美加は咄嗟に自分の胸元に手を当てる。
――携帯が、ない?
美加の頭の中は瞬間、真っ白になった。
瑛太の閉じ込められた携帯がなくなっている。
一体いつから?
クエストが始まる前に、確かにヤソから返してもらったはず……。
大雅に支えられながら、美加は周囲を見回した。
ヤソの姿はどこにもない。
「ヤソ……、ヤソはどこに?」
「俺が来たときには、あいつはもういなかったが?」
眉をひそめる大雅に美加は必死の形相で詰め寄った。
「ヤソのいるところへ連れていってください!」
「その願い、アタシが叶えてあーげるっ」
クスクスといたずらっぽい笑い声を交えた楽しげな声が不意に背後から聞こえ、美加は弾かれたように振り返る。
深紅のゴスロリファッションに身を包んだアリスの姿を美加が視界に捉えるのと、大雅がそのアリスから庇うように美加の前に立ちふさがったのは殆ど同時だった。――そして、アリスの手にした大鎌が大雅に向かって振り下ろされるのも。
目の前に立っていた大雅がゆっくりと膝をつき地面に倒れ付していく。
瞬間の出来事に呆然としていた美加が事の成り行きを理解したのは、大雅が倒れた地面が鮮血の色で染められ始めた頃だった。
パニックを起こしかけ悲鳴を上げる美加の腕をアリスは乱暴に引き寄せ、そして耳元で囁いた。
「ヤソの頼みじゃなかったら、アンタなんか放っとくのに」
甘くトゲのある口調に美加がアリスの顔を見た瞬間、美加の視界が灰色に翳った。
美加が警戒しながら周囲を見渡した今度の移動先は雑居ビルのような建物の中だった。
日の光の入り込む窓が少ない廊下は薄暗く、淀んだ空気が不快なほどに美加の肌にまとわりついてくる。
「ここ、ヤソの狩り場。ここでアンタを待ってるってさ」
そう言ってアリスは掴んでいた美加の腕を憎々しげに突き放した。
アリスの爪あとの残る腕を押さえた美加は、その時になって初めて狩り場へ移動したのが自分とアリスだけだということに気がついた。
「大雅はぁ、邪魔だから置いてきたの。大丈夫よぉ。手加減、したし。今頃チェシャ猫に傷を治してもらってるって」
まるで他人事のようにケラケラと笑いながら話すアリスに、美加は背筋が冷たくなるのを禁じえなかった。
「じゃ、アタシ、忙しいから」
アリスの細く白い指が中空でひらひらと舞うのと同時に、彼女の周りの空間はノイズが走ったようにゆがみ始める。
薄らぎ始めた深紅のドレスがバスの中で炎に包まれたアリスと重なり、美加は慌ててアリスを呼び止めていた。
「――あなたは滝口美奈子でしょう? なぜ死んだはずのあなたがここにいるの?」
美加の必死の問いかけに、アリスは微かに首を傾げながら抑揚の乏しい声でこう言った。
「アタシは、アリス。王の最強の持ち札、アタラクシアのハートの女王・アリス」
何の感情も持ちえていないようなアリスの目が、美加にクエストで出会った美奈子の表情を思い出させていた。言葉を繋げるようにアリスが唇を動かすのが見えたが、声が届く前にアリスの姿は完全に美加の目の前から消え去ってしまった。
一人きりになった途端、湿り気を帯びまとわりついてくる空気さえもが今にも襲い掛かってくるような恐怖に囚われてしまう。――美加は緊張に体を強張らせながら、ポケットの中から旧携帯を取り出すと、探索を開始するためのキーを押した。
八十秀典
秋吉美加
雑居ビルの概観を写したのであろう写真の下に『狩り場』の文字。そして、その更に下の部分に自分とヤソの名前があるのを確認し、美加は携帯を閉じると再びポケットの中に戻した。
携帯を――瑛太くんを取り戻さなきゃ。
美加は自分を奮い立たせるようにそう強く念じた後、ビルの奥へと続く廊下を恐る恐る歩き始めた。
不気味な程に静まり返った建物の中に、美加の足音だけが響き渡る。
この場所がヤソの狩り場という事が美加の歩みを、ひどく慎重なものにしていた。美姫の狩り場へ送られた時のあの惨状が美加の脳裏に生々しくよみがえっていたからだ。
廊下の突き当たりにはエレベーターがあった。4階までのフロアを現すパネルの数字は、どの階も灰色のままでエレベーターが動いていないことを物語っていた。
例えエレベーターが稼動していたとしても、この得体の知れない世界のエレベーターにひとりきりで乗り込むなどと言う無謀なことは避けたいことだっただけに、ほんの少しだけ安堵の気持ちが美加の中に生まれる。
廊下を挟んだ向かい側に地下と上に繋がる階段がある。それを使って2階へ行こうと振り返った瞬間、美加は息が止まるかと思う位の衝撃に襲われた。