炎
タクシーは煌びやかな夜景と賑やかな雑踏の中にアリスを降ろし去っていった。
新宿西口のスバルビル、高速バス乗り場まで。――アリスがタクシーの中で発した言葉はそれだけだった。
美加も地元に帰る時には高速バスを使っていたので、馴染みの場所である。
赤いエプロンをつけたバス会社の係員を見つけたアリスは、バッグの中に手を突っ込みコンビニで支払った運賃の領収書をまさぐりながら近づいていった。
「滝口美奈子さまですね。本日はご利用ありがとうございます。バスの到着まであと5分程ですので、この近くでお待ち下さい」
係員が領収書のチェックを済ませ、少し早口気味にそう言うのを聞くまで、アリスの心臓はドキドキと緊張した音をたてていた。
(未成年の自分が夜行バスに乗って一人で大阪まで行く理由を問い詰められたらどうしよう……)
そんな不安がアリスの心を占めていたが、それは徒労に終わったようだった。
「おっ願いしまぁーす」
まだ係員の前に立っていたアリスの肩口から、わざと調子を外したような若い女の声と共に紙片をひらひらさせた腕が、にゅっと伸びてきた。
驚いたアリスがバッグの肩紐を両手で握り締めながら横へ移動すると、大学生と思われる5人の女性が次々に自分の領収書を係員に差し出し始めていた。
予約が混んでいて忙しいのか、このグループの一員と思われたのか……、いずれにせよ、これでカイのいる大阪まで行く事が出来るとアリスは安堵しているようだった。
きゃあきゃあと騒がしいグループから離れ、アリスはバスの乗車口になる停留所へと歩いていく。
バスが到着するまでの間、アリスは何度待ち受け画面の中に新着メール到着のメッセージを探したことだろう。
カイからのメールが届かないのは、密告のメールが言うように自分の事を放置して、カイがゲームの中で他の女の子とやりとりをしているんじゃないか……、そんな思いがアリスの中でどんどんと膨らんでいくのを美加は感じ取っていた。
(――私はカイを信じてるもん。高校卒業したら、お嫁さんにしてくれるって約束してくれたんだもん。一緒に暮らすんだもん)
自分自身を励ますように、バッグの肩紐を握るアリスの指の力が更に強まった。
――結婚?
遠く離れて暮らす二人が、そんな約束を交し合っている事に美加は驚いた。
しかし、合点のいく事もある。 ――アリスがタンスの中に溜め込んでいたお金。あれは、カイとの生活のための貯金ではないのかと。
留守がちな親が置いていく食費を、わずかなビスケットと水を買うのみに使っている事……、すべては少しでも『その日』のためにお金をためたい一心からではないのだろうかと。
カイ:
こっち向かってるって、マジ?
待ち焦がれていたカイからのメールに、アリスは間髪入れずに返事を送る。
――うん。もうバスに乗ったよ。
あと5時間くらいで大阪に着くかな?
カイ:
来んなって
俺、会う気ねぇから
アリスの動きが固まってしまった。
キーの上でいつも軽快に動いていた指は、携帯を支えるだけのものになってしまっている。
予想していなかったカイの言葉に、美加もまた戸惑いを隠せなかった。
――ほら、だから言ったでしょ?
お馬鹿で可愛そうなアリスたんw
カイはあんたのことなんて、ただの働きアリにしか思ってないんだってぇ
バスの後部座席を陣取った女子大生たちのケラケラと笑う声が、サイトへメールを送ってきた女と重なってアリスの頭の中をぐるぐると回り始める。
――どうして?
わからないよ。なんでそんなこと言うの?
聞きたいことが山ほどあるアリスだったが、指の震えがそれだけの文章を打つので精一杯になっていた。
カイ:
馬っ鹿じゃねーの?
会ったこともねー奴と好きだの愛してるだの
遊びだってこと、気付けよ
お前、本当の俺、知らねーだろ?
そんなんで、よく結婚とか言えたよな
――毎日話してるもん
カイのこと、よくわかるよ
ひとりぼっちだってこと、寂しいってこと
私たち、似てるねって……
一緒に暮らせば、もうひとりきりじゃないねって話してたじゃない
真っ白になってしまったアリスの心の中に、次第に冷静な部分が生まれ始めてきているのを美加は感じていた。
悲しみより驚きの方が大きかったことが、カイの言葉に隠された本当の気持ちを聞きだしたいという願望になっていたからだった。
今のアリスの気持ちが、和也に突然の別れを切り出された時とシンクロするようで、美加の心の中は無数の針を飲み込んだようにチクチクと痛み出す。
カイ:
全部嘘だったら、どーすんだ?
俺の生い立ちも、今の境遇も、
お前に送った写メも、みんな嘘だったらどーすんだよ
帰れ
こっち来ても、俺は会わねーかんな
――嘘じゃないよ
私、わかるもん。電話で話したカイの声、
嘘ついてるように聞こえなかった
いつも、やさしかった
大好きだよ、カイ
カイが、どんな人でも、
カイが好きだよ
不意に美加の胸の奥が熱くなる。
アリスが泣いている。――美加は頬を伝う涙を感じていた。
その時だった。
「ねぇ、なんか焦げくさくない?」
お喋りを続けていた女子大生たちに不安げなざわめきが走った。
「きゃあっ!! 火、火が出てるっ! バス、燃えてるって!」
窓際に座っていたの茶髪の女の甲高い声に、バス内の乗客の視線は一斉に後部座席に集まる。
「落ち着いて! バスが止まるまで立ち上がらないで下さい!」
運転席の近くに待機していた乗務員がそう叫ぶのと同時に、バスの中に阿鼻叫喚が走った。
突然起こった出来事に、アリスは目を見開き、不安気にバッグと携帯を胸元に抱きしめた。
バスは減速し、路側帯に緊急停止する。
乗車口が開くよりも早く、乗客たちはバスの先頭へと我先に急いだ。
「早く! 早く進んでよぉっ!」
狭い通路に出来た乗客の列の最後尾にいる女子大生たちが口々に泣き叫ぶ中、アリスは手に握り締めた携帯がメールの着信を告げるランプが点滅させていることに気付いた。
「きゃあっ!!」
窓の外に勢い良く火の手が上がるのを見た女子大生たちはパニックに陥り、前を歩いていたアリスを思い切り突き飛ばした。
「あっ!」
その拍子に、アリスの携帯は手の中から投げ出され座席の下へ転がり落ちてしまった。
アリスが列を外れ通路側に避けると、化粧の崩れた女達は泣きわめきながら人波を掻き分けるようにして乗車口を目指し始める。
座席の下に潜り込むようにして、アリスはやっとの思いで携帯を探り当てた。
――アリス、早く! あなたも早く避難しなくちゃ!
迫り来る火に、美加は気が気ではなかった。バスの中に残っているのはアリスひとりになっていた。
「残っている方、いませんか?」
緊迫した乗務員の声が乗車口の方から聞こえてきた。
アリスが床から立ち上がったのと、アリスの近くの座席が燃え上がったのはほぼ同時だった。
逃げる間もなく、アリスの全身が炎に包まれる。
――きゃあああああっ!!
その悲鳴が自分のものだったのか、アリスのものだったのか、美加には考えることさえ出来なかった。
目の前の世界は紅蓮に染まり、激しい波のようにうねりまくる。
アリス! アリス!!
美加は叫び続けた。
いつの間にか、美加の心はアリスの肉体から離れていた。
まるでそのアリスの体が炎に包まれたまま通路に崩れ去っていく一部始終を見届けるためでもあるかのように。
「いやぁああああああっ!!」
美加は通路にへたり込み、絶望の悲鳴をあげるしか出来なかった。
「おかえり、ミカ」
不意に周囲は昼の明るさを取り戻し、地面についた手からは草と土の感触が伝わってくる。
「クエスト2、終了だね。――アリスは白うさぎをつかまえられた?」
美加の目の前に、両手を後ろに組んだチェシャ猫が立っていた。
「――アリスは」
目から涙をボロボロとこぼして美加はチェシャ猫を睨みつける。
「アリスは死んだわ。目の前で死んでいった」
「正解」
唇の端を歪めてチェシャ猫が笑う。
「――この世界にいるアリスは何者なの?」
静かな声で美加は聞いた。
「アリスはジョーカーさ」
チェシャ猫よりも先に、美加の問いに答えるものがあった。
美加が驚いて振り返ると、眩しい日差しを遮るように大雅がそこに立っていた。