おかあさん……
アリスがベッドから他の場所へと移動したのは、携帯のデジタル時計が7時を過ぎた頃だった。
それまでの間、アリスの指は休むことなく携帯のキーを打ち続け、他のユーザーとの通信のやり取りやモンスターのバトルを繰り返していた。
モンスターを退治した時にもらえるゲーム内の通貨が目標金額に達したのだろうか? ――アリスは嬉しそうに鼻歌混じりで廊下を歩き台所へ向っている。右手にはサイトにアクセスしたままの携帯を持って。
携帯をテーブルの上に置き、冷蔵庫のドアを開ける。――美加の目に飛び込んできたのは、ミネラル・ウォーターのペットボトルだけで埋め尽くされた冷蔵庫の中身だった。
透明な水に庫内の光が通過して無機質な輝きさえ放っているのが、美加には少女が生きることにたいして無関心であることを物語っているように見えていた。
冷えたペットボトルを2本取り出し扉を閉め、アリスはテーブルにつく。
テーブルの上にあるのは、携帯とペットボトルと、ビスケットの入った箱だけ。
ベッドの上にいた時と同じように、膝を抱えるようにして椅子に座ったアリスはビスケットの詰まった銀色の個包装を開き、黙々と食べ始めた。
砕かれ、荒い粉状になったビスケットがアリスの口の中の唾液を吸い取り、熱を発している。――アリスは自分自身に、それがエネルギーに変わった証拠だと信じ込ませていた。
数枚のビスケットが、育ち盛りの子供にとって必要な栄養素を満たしていないこと位、よくわかっている。――しかし、アリスは頑なにビスケットとミネラル・ウォーターだけの食事にこだわっていた。
アリスの目は、ビスケットのパッケージに印刷された可愛らしい幼児の写真に吸いついてしまったように離れない。ビスケットを食べ、それをミネラル・ウォーターで流し込む。――その繰り返しで少女の食事は終わった。
――おかあさん
アリスが空になったビスケットの箱をつぶした時、美加はそんなかすれた囁きに似た声を聞いたような気がした。
簡素な食事を終え、部屋へ戻る間も、アリスがずっと携帯を操作し続けていることが美加にとっては何よりの驚きだった。クエストが始まってから数時間経っているが、アリスはずっと同じ携帯のオンラインゲームにアクセスし続けている。
一定の時間操作がないと自動的にログアウトしてしまうのを防ぐために、食事中は更新ボタンを押すだけのアリスだったが、さっきと同じようにベッドの上に座ると、バトルでモンスターが落とすアイテムを店で売りさばいたりして着実に所持金を増やし続けていた。
所持金を示す数字が大きくなっていっても、アリスの感情に何の変化も起こっていないことを美加は感じ取っている。まるで終わりのない流れ作業を黙々と続けているようだ、と美加は思った。
何の苦を感じることもなく携帯を操作し続けるアリスと違って、美加の疲労は溜まる一方だった。
元々、携帯でゲームをすることなどほとんどない上に、アリスの目を通して物を見ている今の状況では、見たくないと思っても目をそらすことすら出来ない。
もう、沢山! ――そんな風に美加が弱音を吐きそうになった時、アリスの感情に変化が起こった。
先ほどカイからメールが来た時と同じように、明るく弾んだものになっている。期待で胸をふくらませるアリスの心情は、疲労困憊になっていた美加にとって例えようもない位の救いになっていた。
アリスを生き生きとさせた原因は、携帯画面の右上に表示された新着メールの到着を告げるアイコンだったようだ。
携帯のキーを操作するのももどかしいといった様子で、アリスは届いたメールが展開されるのを待っている。
しかし、メールの差出人を見た途端、アリスの心は急激にしぼんだ風船のようになってしまっていた。
落胆ぶりをあらわすような大きなため息をついた後で、アリスは背中を丸め、苛立たしげに髪をかき上げてからメールの本文にあったURLをクリックする。
どうやらアリスが管理している携帯サイトの私書箱にメールが届いたらしい。本文を読むにはサイトへログインしないといけないようだった。
サイトに接続中の画面が切り替わり、アリスのサイトが表示された瞬間、美加は目に飛び込んできた大量のハートやリボンや星の画像に圧倒されてしまった。
文字は所々でスクロールし、背景のきらめく星はチカチカと点滅し、サイトのTOP画像の不思議の国のアリスの画像は小首を傾げてウィンクしてみせている。
どこがサイトの入り口になっているか見つけられぬうちに、アリスはサイトの編集画面に慣れた手つきでログインを済ませていた。
チーム・アタラクシア
メンバー専用
画面が切り替わる前に、そんな文字を美加は見取ることが出来た。カイとの話題の中にあったサイトがここのことなのだろう、と美加は考える。
サイトの管理画面に入ったアリスは、私書箱のリンクをクリックし、届いたメールを確かめていた。
「――!」
メールを読んだアリスの心が激しく乱れたのを、美加は痛いほどに感じ取っていた。――駅であれだけの好奇な目で見られても動じることがなかったアリスを揺るがせたもの……。そして、アリスと同じものを見ている美加も心の乱れを隠せなかった。
お馬鹿さんのアリスたんへ^^
ゲームの中でも、ほむぺでも、カイと夫婦気どりでいるけどぉ、
知ってる?
カイは携帯何台も使ってキャラ使いまくりの浮気しまくり♪
じ・つ・ゎ、ワタシもそのひとりでぇーすw
アリスたんは、チムのためにいっぱぃいっぱぃ金稼いでてねw
その間に、ワタシとカイはらぶらぶできるしぃ
あ、
ほむぺのカウンター、いっぱーい上がってるのは別のサイト
で晒されてるからだからぁ
自分、人気があるなんて思っちゃダメだよぉ(笑)
携帯を持つアリスの手が、ぶるぶると震えている。
メールの最後に書かれてあったURLをコピペし、新しく開いた窓で検索サイトにアクセスした。――アリスのそんな様子を見ている美加の心はひどく痛んでいた。
いつもなら造作ない操作を何度もミスを繰り返してしまっていることが、アリスの心の動揺がどれ程なのかを物語っている。
美加にはアリスの気持ちが泣きそうになる位にわかっていた。
美加は和也と付き合っていた頃のことを思い出してしまっていたのだ。
初めて会った時のコンパで、友人達に『こいつ、女癖悪ぃーから』と言われていた和也だったが、付き合い始めると和也の優しさを知ることばかりで、幸せな気持ちにしかなれなかった美加だった。
しかし、その幸せな時間も長くは続かず、メールや電話の回数が減り、デートの間隔も長くなっていった頃に、美加は一緒にコンパに行った短大の友人から、和也が女の子と一緒に歩いていたという話を何度も聞くようになってしまっていた。
――今、アリスもあの時の自分と同じ気持ちになっているのだと思うと、美加は身につまされるような思いにかられてしまう。