どぉして?
心地良い風が美加の頬を撫でていく。
そしてそれとは裏腹に、反対側の頬には冷たくて固いザラザラとした不快な感触がある。
自分がコンクリートの床の上にうつぶせになって倒れているということに気付くまで、美加は目を覚ました後でも僅かな時間を要した。
「邪魔なんだけど」
不意に頭上から降ってきた不機嫌そうな少女のものらしき声に、美加は驚いて上体を起こす。
ブレザーの制服を着た少女は高校生くらいの年頃に見えた。ショートカットにハッキリとした目鼻立ちをしたその少女は、あからさまな程の不快な表情で美加を見下ろしている。
辺りを見渡した美加は、低い鉄柵に囲まれたここがどこかの建物の屋上だということを悟った。
少女がだらりと下げた右手に掃除用具のモップを持っているのを見ると学校かもしれない、と美加は考える。
「どいて」
少女は尚も低く抑揚のない声で美加に声をかけてきた。――広い屋上の中で、少女がなぜこの場所を空けろと言っているのか美加には理解出来なかったが、少女の雰囲気に気押され尻もちをついたような格好のまま後ずさった。
少女の手から離れたモップがコンクリートの床に落ちるのと、少女が身軽な動作で柵を乗り越えるのと――ほとんど同時だった。柵の外側の僅かな足場に、少女は美加がいるこちら側を向いて立っている。
「――終わらせてよ」
何もない空間に向かってそう言った後、少女はゆっくりと体の重心を後ろへと移動させた。
美加が立ちあがった時には、少女の姿は美加の視界から消え去ってしまっていた。
「――嘘……」
柵越しに階下を見下ろした美加の目に映ったのは、コンクリートに叩きつけられあらぬ方向に手足が曲がったままで横たわる少女の姿だった。
あまりの突然すぎる一連の出来事に、美加はふらつきながら後ずさると、ここから外へと出る場所を探して辺りを見渡した。
屋上の端に給水塔が乗った小さな建物があり、重そうな鉄の扉が開いたままになっているのを見つけると美加は無我夢中で駆けだしていた。
三階建ての建物のようだった。フロアを降りる度に廊下の突き当たりに『音楽室』や『図書室』の看板が目に入ったので学校であることには間違いないらしい。
一階まで降り立った美加は、まっすぐに伸びた廊下を走った。――保健室、事務室、校長室、職員室の前を次々に駆け抜けると、前方にグレーの下駄箱が見えてきた。
出口だ、と安堵したのも束の間、下駄箱の間からゆらりとした動きで現れた人物の姿を見た美加は、驚きのあまり校舎中に響き渡るような悲鳴を上げてしまっていた。
飛び降り自殺をした筈の少女が、両手をぶらりと下げ、ぼんやりとした目をして廊下の真ん中に立ってる。
つい先刻、屋上から見た時には折れ曲がってた手足は何事もなかったようにスラリと伸びているし、少女のどこを見ても出血すらしていなかった。
自分がさっき見たのは幻だったのだろうか?と美加が思ったその時、少女の形相が一変した。
少女は脱兎の勢いで下駄箱の横にあるロッカーの扉を開けると、中からモップを取り出し両手で柄を握りしめると廊下の真ん中で仁王立ちになる。
「……ウザい……ウザい……ウザいんだよぉお!てめぇらはっ!!」
目を見開き、何かにとり憑かれてでもいるかのような表情の少女がモップを振りかざし美加に向かって突進してきた。
悲鳴を上げる余裕すらなかった美加は、少女が勢いのままにモップの先についた金具を振り落とす瞬間を待つしかないと観念する。
「うぁああああああっ!!」
しかし、鬼のような形相で叫び声を上げる少女は、目を固く閉じ咄嗟に両手で頭を覆った美加の横を突風のように通り過ぎていってしまった。
何が起こったのか理解出来ず、後ろを振り向いた美加は「ひっ!!」とひきつるような悲鳴を上げてしまう。
少女が突進していく先……、ついさっき美加が走り抜けてきた廊下に数えきれないほどの子供の姿があったからだ。
小学校の低学年と思われる小さな子供から、少女と同じ年頃の者まで。――それぞれに手にしたナイフやハサミ、鉄パイプなどの武器をかざして次々に少女に襲い掛かっていく。
「え……瑛太くん、これって何なの……?」
目の前で繰り広げられる殺戮のシーンに、美加は震えながら首から下げた携帯を握りしめる。
瑛太:
――わからない
あの子は間違いなく、さっき屋上から飛び降りた子だし……
一体どうなっているんだ?
瑛太も信じられないといった表情で、少女が傷を負い、血まみれになりながらも次々と子供たちを倒していく有様を茫然と見ていた。彼女が廊下の奥へと進んでいくにつれ、廊下には累々とした子供たちの屍が積まれ続ける。
瑛太:
美加ちゃん、あの子がこっちを襲ってくるかもしれない
今のうちにここから脱出しよう
瑛太の指示にうなずいた美加が、踵を返した瞬間――
「美加ちゃん、みーっけ」
美加の両肩を、ジャラジャラと音をたてる鎖をつけた腕が押しとどめた。
「ヤソッ……!」
美加の目の前に立っていたのは、コロニーの移動で離ればなれになってしまったはずのヤソだった。
唇の端をゆがめたヤソは、美加が握りしめている携帯の液晶画面を覗きこんでニヤリと笑う。
「やーっぱり、その携帯、訳アリ?」
携帯の中の瑛太とヤソが睨みあっているのを、美加はオロオロと見守ることしか出来ずにいた。
「――っと、まぁ、それは後で聞くわ。俺は美姫ちゃんに用アリできたんでね」
美加の肩を軽く叩いた後にヤソはその場にしゃがみ、右ひじを膝の上に乗せて頬杖をつくと少女の死闘の様子をTVの番組でも見るかのように平然と見物し始める。
「あの子を知ってるんですか?」
ヤソから少し距離を取った場所に移動して美加は恐る恐る尋ねてみた。
「あー、美姫ちゃんねー。つい最近アタラクシアに来たんだわ。そんで、俺、チームに入んねー? って勧誘してるわけ。女子高生とお近づきになれるチャンスじゃーん?」
後ろを少し振り返るようにしたヤソが笑ってそう言うのを聞いてから美加は廊下の奥に視線を戻す。
モップの柄で体を支え痛々しい位に肩で息をしている美姫と呼ばれた少女は、彼女を襲ってきた最後の敵と対峙している所だった。
長い黒髪の所々が不格好なほどに不揃いに切られているその少女は美姫と同じブレザーの制服を着ている。
俯き加減の横顔を髪が隠しているので、その少女がどんな表情をしているのか美加にはわからなかったが、美姫の青ざめた顔を見ればそれは容易に想像が出来た。
「――どぉして、私の、カバン……、川に投げたの?」
不意にすぐ近くで見知らぬ少女の声がしたので、美加は驚いて辺りを見回す。
そんな美加の様子を見て、ヤソが「あっち」というように左手で美姫と向き合っている少女を指さしていた。
「――どぉして、私の、教科書……、全部破いたの?」
ひとつ問いかける度に少女は右手に握ったハサミを上げながら美姫ににじり寄っていく。
「うるさい、うるさい、うるさいっっ! なんでやられたのかわかんないの? そんなんだから虐められんのよっ!」
美姫がそう怒鳴った時、美加は少女の横顔がニヤリと笑ったような気がした。
「虐めていたの、あなただよ? あなたがみんなに指図して、私のこと虐めて楽しんでたんじゃない。――ほら、髪もこんなにされたし」
少女が断ち切られた自分の髪をみようとしてか頭を少し傾げた時、少女の頭からピンク色をした塊がずるりと抜けおち、嫌な音を立てて床の上へ落ちた。それが少女の脳漿だと気付き、美加はこみあげてきた吐き気を押さえるために両手で強く口を覆う。
「ねぇ、なんで? なんで、私、虐められてたのかなぁ?」
ハサミを持った少女の右手が高く掲げられる。
「――ねぇ、私が飛び降り自殺して、死んだって聞いて、なんで、笑ったのかなぁ?」
「さつきっ! あんた、死んでもウザいんだよっ!!」
血まみれの美姫はバットを振るように思い切りモップをスイングさせ、襲ってくる少女の頭に叩きつけた。
鈍い音がして、少女の頭はだらりと横にぶら下がったようになる。――それでも少女はハサミを振りかざしたまま美姫に少しずつ近づいていった。




