第四十三話 沈黙が生む怪物
♪淡い光が照らす木々
襲う奇怪な白い霧
悲嘆の河が怒るとき
敗れた夢が怒るとき
自由を求める戦いに
愛する誰かを守るため
青い光を輝かせ
ネイビー、ネイビー、ネイビー
戦えネイビージャイアント
「今回の議案は決済されました」
議長の低く落ち着いた声が、東阪大学事務棟の会議室に静かに響いた。重厚な木製の扉で隔てられたその空間は、学生たちが日々通う教室とはまるで異なる。壁には大学創設期の写真が額装され、窓には厚手のカーテンが垂れ、外の喧騒を完全に遮断している。空気は張り詰めていたがどこか格式の高さと静謐さが漂っていた。
長机を囲むようにして座るのは、五名の初老の男性と一人の女性。いずれも大学の重鎮であり、言葉の一つ一つが制度と伝統を動かす力を持っている。中央の席に座る議長が言葉を発すると、神山さとみが静かに立ち上がり、周囲に一礼した。彼女の動きは無駄がなく、背筋はまっすぐに伸びていた。
「来期も神山研究室の教授を神山さとみさんに請け負って頂くことが決まったうえで、続いての議題に移りたいと思います」
議長は手元のメモに目を落としながら、淡々と話を続ける。その口調には感情の起伏はなく、ただ事務的な進行を優先するような冷静さがあった。彼の前では、教授たちが次の議題に関する資料を広げていた。紙をめくる音だけが、静かな室内にかすかに響いていた。
「神山研究室の阿久津蒼真君を准教授として来期、四月以降も継続する件ですが、ご意見ある方いらっしゃいますでしょうか」
議長の問いかけに対し教授たちは資料を見たまま沈黙を保っている。だれも顔を上げず、視線は紙面に落ちたまま。だがその沈黙は無関心ではない。慎重な判断のための沈黙だった。
「なにかご意見は……」
議長が再び促すと、ようやく一人の初老の男性がゆっくりと顔を上げ、口を開いた。彼の声は穏やかだったが、言葉の選び方には慎重さが滲んでいた。
「阿久津君の継続には反対はしませんが、彼はまだ若い。先を行く人を追い抜くことで問題が起こらないか、そこだけが心配です」
その言葉にさとみが即座に反応した。彼女の背筋がわずかに伸び、声には静かな熱がこもっている。
「確かに阿久津さんは若いです。しかしここ最近の怪獣研究における彼の成果は目覚ましいものがあります」
彼女の言葉はただの擁護ではなかった。現場での実績と研究室での知的貢献を知る者としての確信だった。
「確かに防衛隊での怪獣研究の最前線で実戦にも参加され、生きた研究がなされている。そういう意味で異論を挟む余地はないですが……」
初老の男性の声は次第に小さくなっていった。彼の言葉は反論ではなく、懸念の表明に過ぎなかった。さとみの言葉が静かにその懸念を包み込んでいた。
「では、御異議ございませんか」
議長が再び問いかける。室内は再び沈黙に包まれる。だが今度の沈黙は納得の証だった。
「御異議なしとして、阿久津蒼真君を准教授として来期も推薦することを決定いたします」
その言葉に一同は無言のまま静かに頷いた。だれも拍手はしない。だがその頷きには、確かな承認と、若き研究者への期待が込められていた。
さとみは静かに息を吐いた。彼女の視線は資料の紙面ではなく、遠くにいる蒼真の姿を思い描いていた。あの戦場で、あの研究室で、彼が積み重ねてきたものが、今ここで静かに認められたのだ。
そしてその静けさこそが、学問の世界における最大の祝福だった。
× × ×
「どうしてさとみさんが教授を続けるんです!」
東阪大学生物学部・毛利研究室に、秘書・木村穂乃美の強い声が響いた。重厚な書棚に囲まれた室内は、外の喧騒とは無縁の静けさに包まれていたが、彼女の一言で空気が揺れた。窓の外では夕暮れが始まり、淡い光がカーテン越しに差し込んでいる。
「まぁ、神谷研の学生たちも多くいるからね」
白髪の毛利教授は革張りの椅子に深く腰掛けたまま、葉巻をふかしていた。煙がゆっくりと立ち上がり、天井の照明に溶けていく。彼の声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているような響きがあった。
穂乃美は教授の机の前に立ち、眉をひそめて鋭く睨みつけている。彼女の背筋は伸びていたが、拳はわずかに震えていた。
「まぁ、さとみさんはいいとして、どうして阿久津さんが准教授なんですか?」
言葉の端に抑えきれない苛立ちが滲む。穂乃美は少し離れた場所で黙々と論文を読み続けている助手の林に目をやった。林は穂乃美の視線に気づいていないようだった。彼の指は静かにページをめくり、ペン先が資料に走っていた。
「阿久津君は今や怪獣研究の第一人者だからね」
毛利教授の言葉はまるで既定の事実を述べるように淡々としていた。
「それは防衛隊に協力しているからでは? 本当の実力は……」
穂乃美の声が少しだけ震える。彼女の中で論文数や研究実績という“見える成果”が、評価の基準であるべきだという思いが強く根を張っていた。
「それは言い過ぎだと思うよ」
毛利教授が穂乃美を諭すように言う。彼の目は穂乃美を見ていたが、その奥には長年の学問の積み重ねが静かに揺れていた。
しかし穂乃美の表情には納得の色がなかった。唇を引き結び、視線は揺れずに教授を捉えていた。
「でも、阿久津さんが林さんより先に准教授になるのは納得できません。林さんと阿久津さんでは、発表した論文の数が違いすぎます」
その言葉に毛利教授は葉巻を静かに灰皿に置いた。穂乃美の声には、林への敬意と阿久津蒼真への疑念が混ざっている。
「いいんじゃないか」
穂乃美がハッとして横を向く。いつの間にか、論文を読んでいた林が彼女のすぐそばまで来ていた。彼の表情は穏やかで、声には揺らぎがなかった。
「彼は優秀だよ。今まで怪獣なんか研究した人間なんていなかった。彼はパイオニアだ。研究者にとって、前人未踏の地に足を踏み入れることは大事なことだからね」
林の言葉は静かだったが重みがあった。穂乃美は言葉を返そうとしたが、すぐには出てこない。
「でも、それにしては論文発表がなさすぎる」
ようやく絞り出した言葉はどこか弱々しかった。
「まぁ、防衛上、機密も多いからじゃないのかな」
林は穏やかに答える。
「でも……」
穂乃美が不満げに林を睨む。だが、その視線には揺らぎがあった。林の言葉が彼女の中の確信を静かに揺らしていた。
「最低でも僕よりは優秀だよ、阿久津君は」
その一言に穂乃美は息を飲んだ。林の言葉は自己評価ではなく蒼真に対する純粋な敬意だった。彼女はそれ以上の言葉が出てこない。胸の奥に何かが静かに沈んでいくのを感じた。
「まぁ、決まったことだからね」
毛利教授は葉巻の煙を天井に向かってゆっくりと吹き上げる。煙はゆらゆらと揺れながら空気に溶けていった。林は静かにその場を離れていく。その背中はどこか年齢に似合わず丸まっているように穂乃美には見えた。
残された穂乃美は唇をかみしめうつむいていた。彼女の胸の中には言葉にならない悔しさと、理解し始めた何かが、静かに混ざり合っていた。
× × ×
「准教授か……」
神山研究室の片隅で蒼真がぽつりとつぶやいた。蛍光灯の白い光が彼の机の上だけを照らしている。周囲はすでに夜の闇に沈み、窓の外には冷たい風が木々を揺らしていた。学生たちはすでに帰宅し、研究室には彼一人だけ。パソコンの画面はスリープ状態に入り、静寂が空間を満たしていた。
蒼真は椅子にもたれ、深くため息を吐いた。机の上には未完成の資料と、開きかけたままの論文が散らばっている。その資料たちに手を伸ばす気力もなく、ただ天井を見上げていた。
そのとき、背後の闇の中から白衣をまとった女性が静かに近づいてきた。足音はほとんど聞こえず、まるで夜の空気に溶け込むようだった。
「蒼真君、まだいたの?」
さとみの声は柔らかく、しかし不意に心の奥を突くような響きがあった。蒼真は驚いて顔を上げる。彼女の姿が蛍光灯の光の中に現れる。
蒼真はさとみの美しさにハッと息を飲み、思わず心の中でつぶやいていたことを口に出してしまった。
「さとみさん、僕って本当に准教授を続けていていいんでしょうか?」
言葉は静かだったが、そこには迷いと自責が滲んでいた。蒼真の目は揺れていた。自分の立場に対する不安が、言葉の端々に現れていた。
さとみは首を傾げた。彼女の表情には、驚きよりも、理解の色が濃かった。
「どうして? あなたは教授たちも認めた、れっきとした准教授よ」
「でも、ここ最近は論文も書いていないし、そもそも実験もできていない。ただ防衛隊で怪獣攻撃の案を考えているだけです」
蒼真の声は少しずつ熱を帯びていく。彼の中で研究者としての“正しさ”が揺らいでいた。
「それが大事なんじゃない」
「?」
さとみが蒼真の肩にそっと手を置く。その手の温もりが彼の背中に静かに広がる。蒼真の鼓動が早くなっていく。彼女の距離が近いことに、戸惑いと緊張が入り混じる。
「研究室で実験して、論文を書くことだけが研究? 実際に現場で試行錯誤している方が、本当の研究だと思うの」
「それは……」
蒼真は言葉に詰まった。さとみの笑顔が彼の胸に刺さる。優しさと確信が混ざったその表情に何も言い返せなかった。
「人の役に立ってこそ研究。形式にこだわっているようじゃ、本当の研究とは言えないわ」
その言葉は蒼真の中にあった“研究者としての劣等感を静かに溶かしていく。だが彼はまだ自分を許せていなかった。
「でも、僕より優秀な人はたくさんいます」
「例えば?」
「毛利研究室の助手の林さんとか」
さとみが顎に手を当て小首を傾げる。
「そうね、林君ね。確かに彼は優秀だわ」
「彼の方が准教授になるべきかと」
蒼真の声はどこか自分を引き下げるような響きだった。さとみの視線が右上に逸れる。何かを思い出すように、静かに言葉を選ぶ。
「時の運ね。彼は確かに論文発表が多いわ。でも、評価する人は少ない」
「それは、彼が研究している爬虫類が冬眠するメカニズムの研究が、興味を引く人が少ないから」
「そうかしら?」
さとみの言葉に蒼真の目が丸くなる。彼女の言葉は意外だった。
「違いますか?」
「冬眠の研究は、将来人類が宇宙へ旅立つときに必要になるコールドスリープ技術に関わる。だから、各国の研究者が競って取り組んでいるテーマよ。でも彼の論文を読んでいると、それとは関係ない、そう、なにか自分の興味だけで研究しているように見えるわ。だから読み手の興味を引かないの」
「それは……」
蒼真は思い返す。一年前の自分も同じだった。好きな藻類を何時間でも見続けていられた。人の役に立つかどうかなんて、関係なかった。自分は、変わったのだろうか。
「林君よりも、蒼真君の方が准教授には適任よ。それに、なにより――」
さとみが言葉を止める。彼女の瞳はまっすぐに蒼真を捉えていた。
「蒼真君には私を支えてほしいの。この研究室を維持するためにはあなたの協力が必要なの」
その言葉はただのお願いではなかった。信頼と、少しの感情が混ざっていた。蒼真は思わず視線を逸らす。胸の奥が熱くなる。
「分かりました。准教授として、さとみさんを支えます」
蒼真の声は静かだったが、確かな決意が込められている。彼の鼓動はさらに早くなっていた。冬の夜、その静けさの中で二人の距離は少しだけ縮まっていた。
× × ×
「どうして、神山さとみや阿久津蒼真が持ち上げられるの?」
東阪大学の書庫。その静寂の中に穂乃美の苛立ち混じりの声がぽつりと響いた。だれもいないはずの空間に、彼女の言葉だけが反響する。棚の間を歩く足音が、冷たい床に吸い込まれていく。
書庫は薄暗く、天井の蛍光灯はところどころしか点いていない。棚に遮られて光が届かない場所が多く、資料の背表紙を読むにも一苦労だった。空気は乾いていて、紙の匂いと古い木材の香りが混ざっている。穂乃美は目的の論文を探しながら、ぶつぶつと愚痴をこぼしていた。
「教授も教授なら、林君も林君よ」
彼女の声には怒りと失望が混ざっていた。さとみがどれほど優秀な科学者かは知らない。東阪大学で出した論文はたった一件。それなのに、なぜ教授に? 神山教授の妻だったから? この間の宇宙人のミサイル破壊作戦に参加していたから? そんなことで評価されるなら、学問の価値なんてどこにあるのか。
そのうえ助手の阿久津蒼真が准教授? それもこれも防衛隊に協力しているからだ。国家の謀略? そんなことが許されるなら、学会も大学も終わりだ。
書棚は年代別に分けられているが、十年単位でざっくりまとめられており、論文の種類もバラバラ。背表紙だけで探そうにも数が多すぎる。中身なんて暗くて読めたものではない。穂乃美の苛立ちは限界に近づいていた。
「ないなぁ…… もう、林君も准教授になるつもりがないんだったら、自分で探せばいいのに」
だれにも見られていないこともあり、穂乃美は遠慮なく嫌な顔をしていた。眉間には深い皺が刻まれ、唇は不満げに歪んでいた。
「?」
ふと、手にした一通の論文に彼女の目が留まった。英文がびっしりと並んでいる。いや、そこではない。編者の欄に「Satomi Hojyo」と記されていた。
「これって、さとみ教授の旧姓?」
思わず声が漏れる。ここでは暗くて読めない。棚と棚の間にある小さな蛍光灯の下まで穂乃美は急ぎ足で移動する。光の下に立ち、ページを開く。ここなら中の文字が読める。
穂乃美の目が論文の文字を追い始める。最初は何気なく、しかしすぐに息を飲む。慌てて他の論文を近くの棚に置き、さとみの論文を読み進めていく。
「なにこれ?」
眉間にさらに深い皺が刻まれる。目は真剣にページを追っていた。
「これって、生物を作る?」
さらに読み進める。今度は眉間の皺が伸び、目が丸く見開かれる。
「どういうこと、これって…… これって人体実験したってこと?」
彼女は論文を握りしめた。心臓の鼓動が早くなる。もしかしたら、見てはいけないものを見てしまったのかもしれない。背筋に冷たいものが走る。彼女は周囲を見回した。当然、だれもいない。
見なかったふりをして論文を棚に戻そうとする。そのとき、穂乃美の手が止まった。
「これ、使える」
彼女の心に、何かどす黒いものが広がっていく。怒りでも嫉妬でもない。もっと冷たく、計算された感情だった。
「これで、これで神山さとみと阿久津蒼真を潰せる。そう、彼らは終わりよ」
穂乃美は薄笑いを浮かべる。目は冷たく光り、口元には確信が宿っていた。そして、その論文を手に、駆け足で書庫を後にした。
書庫の扉が静かに閉まり、再び静寂が戻る。だがその空間には、穂乃美が残していった不穏な気配がまだかすかに漂っていた。
× × ×
「で、それがどうしたって言うんだい」
林が冷静な口調で穂乃美に語りかけた。彼の声はいつも通り穏やかだったが、今はその静けさが逆に穂乃美の胸をざわつかせた。
「どうしたって…… だって、人体実験よ。いくら科学者だからって許されるわけ、ないじゃない!」
穂乃美がキッとした鋭い目で林を睨む。彼女の瞳には怒りと、何よりも正義感が宿っていた。
書庫から毛利研究室に戻った穂乃美は真っ先に林に詰め寄った。彼はちょうど毛利教授と話している最中だったが、穂乃美はその場を遮り、林を廊下へと連れ出した。幸い、廊下には人の気配がない。冷たい蛍光灯の光が、二人の影を床に落としていた。
穂乃美は震える手でさっき見つけた論文を林に手渡した。紙の端がわずかに折れているのは彼女がそれを握りしめていた証だった。
「だれがなにをしようと、僕には関係ない。たとえ人体実験でも」
林はそう言って振り返り、研究室に戻ろうとする。彼の背中はまるで何も感じていないかのように静かだった。
「でも、こんな研究をする人が処遇されて、そうでない人が冷遇されるって、おかしいよ。ね、そう思わない?」
穂乃美の声には懇願にも似た響きがあった。彼女は林に同意してほしかった。自分の怒りがただの感情ではなく、正当なものだと証明してほしかった。
「思わないね。学会って、そういうところだから」
林が部屋に入っていく。扉が静かに閉まる音が穂乃美の胸に重く響いた。
彼女は落胆し、肩を落とす。だが林の姿が部屋に消えた瞬間、彼女の拳が強く握りしめられた。ハッと顔を上げ、研究室の扉を開ける。そして林を追い抜き、そのまま毛利教授の前へと進み出た。
机の上にさとみの論文を勢いよく叩きつける。
「毛利教授、ぜひ大学の倫理委員会でこの論文を取り上げてください」
教授は黙って穂乃美を見上げ、論文を手に取って中身を確認する。彼の目が一瞬だけ細められた。
「これは、どこで見つけた?」
「書庫で見つけました。過去の神山さとみ教授の論文です」
毛利教授は論文を机の上に投げるように置いた。紙が机の端で跳ね、静かに落ち着いた。
「そうか、あんなところにこの論文が」
毛利教授が深く息を吐く。その吐息には長年の重みが込められていた。
「このことはオフレコだ」
「えっ」
穂乃美は耳を疑った。目を見開き、言葉を失う。
「どうして、どうしてですか?」
「この論文は我が大学で書かれたものではない。よって、我が大学の倫理委員会にかける議題ではない」
毛利教授が苦虫をかみつぶしたような表情で穂乃美を見返す。
「それは…… でも、我が大学の教授の論文です」
「それ以上は言うな」
毛利教授が穂乃美を鋭く睨みつける。その眼差しは議論を許さない壁のようだった。
「この件は、神山さとみを教授にするかどうかを審議した際に、すでに結論が出ている」
「!?」
毛利教授はこの件を知っている! 穂乃美の心に何故の疑問符が。
「当時の結論は、この件は不問に処す。そして、この件は他言無用と」
「どうして、どうしてですか?」
穂乃美が前のめりになって教授に問いただす。声は震え、目には涙が滲み始めていた。
「それは…… これは、かなり高度な政治的意思が働いている」
「高度? 政治的意思?」
穂乃美は毛利教授の言葉の意味をすぐには理解できなかった。だが、胸の奥で何かが冷たく沈んでいくのを感じていた。
「いいかい。ここだけの話だが、先の地球攻撃ミサイルの迎撃で、防衛隊は神山さとみ先生のこの論文を利用したらしい。成功のぜひは聞いていないが、政府機関がこの非人道的研究を利用したことは間違いない」
穂乃美も毛利教授の言いたいことがうっすらと分かってきた。論文はすでに“使われた”のだ。それも国家の手によって。
「この論文は極秘事項だ。君もこの大学に勤め続けたいなら、黙っていた方がいい」
「……」
穂乃美は黙ってうつむく。涙が頬を伝い、胸の奥が締めつけられる。
「まぁ、触らぬ神に祟りなしだ」
横から林が彼女の肩に手を置く。その手を彼女は振り払った。
「あなたは、それで悔しくないの?」
「?」
林の表情が少しだけ強張った。
「あなたはどうして冷遇されていると思わないの? それでも男なの?」
林が穂乃美を睨み返す。目には怒りではなく、深い諦めが宿っていた。
「悔しい? そんな感情、とっくに忘れたよ」
穂乃美は絶句した。言葉が出ない。彼の言葉はあまりにも静かで、あまりにも重かった。
「世の中、そういうもんだから」
そう言うと林は毛利教授の前にあった論文を手に取った。
「教授、この論文、破棄しておきます」
「そうしてくれ」
林はそのまま研究室を出て行った。扉が閉まる音が穂乃美の胸に響いた。
「まぁ、彼の気持ちを思いやってくれ」
研究室から彼が消えたとき、毛利教授がぽつりとつぶやいた。
「彼は、有名な私学の編入生だ。優秀だが、阿久津蒼真のようにこの大学で学士、修士と上がってきたわけではない“よそ者”だ。彼はそのことを理解している」
「だから昇進しなくてもいいって思っている?」
「そうだな。彼は自分の分相応をわきまえている」
「優秀なのに?」
「あゝ」
穂乃美の手に力が入る。拳が震え、目には怒りと悔しさが混ざっていた。
「それって間違ってませんか。生え抜きだからとか、そうでないとか関係ないじゃないですか。優秀な人がその地位を与えられるべきじゃないんですか? 学問の世界って、そうあるべきじゃないんですか?」
「正論だね」
毛利教授が一息つく。彼の目はどこか遠くを見ていた。
「でも、世の中はそんなもんではできていないんだよ。政治とか、人情とか。この大学には、亡くなった神谷教授に世話になった人が大勢いる。それは神山教授の人徳だ。だから、奥さんのさとみさんや、愛弟子の阿久津君に同情が向く。それが世の中だよ」
穂乃美の目に涙が浮かぶ。視界が滲み、毛利教授の顔がぼやけて見えた。彼女は言葉を飲み込み、ただその場に立ち尽くす。
「すまんが、このことは内密に頼む。君だけじゃない、林君や私まで悪影響がないとは言えないんでね」
毛利教授の声は静かだったが重く響いた。穂乃美の胸に、冷たい石が落ちるような感覚が広がる。正しさを信じていたはずの世界が、目の前で静かに崩れていく。
穂乃美の頬に涙が流れる。熱い一筋が、頬を伝って顎へと落ちる。それを彼女は震える手でブラウスの袖でぬぐった。袖口が濡れ、彼女の呼吸が浅くなる。
「分かりました」
その言葉は絞り出すように小さかった。声に力はなかったが確かに届いた。穂乃美は目を伏せ、拳を握りしめたまま、静かにその場を後にした。
× × ×
穂乃美は大学構内をひとり歩いていた。毛利教授の言葉が心に引っかかり、もやもやとした感情が彼女の胸を埋めている。正しさとは何か、正義とは何か、その答えを探すように、彼女の足は自然と校舎の裏手へと向かっていた。
二月の弱い光が校内の木々を淡く照らしている。葉の落ちた枝が冷たい風にあおられ、かすかに揺れていた。空は薄曇りで、夕暮れの気配がじわじわと広がっている。言いようのない虚しさだけが、穂乃美の目の前に広がっていた。
ふと、校舎の影に人影が見えた。
「? 林さん?」
林がだれかと話している。見たことのない黒衣の男が林の前に立っていた。男の姿は風景に溶け込むように不自然で、穂乃美の胸に不安が走る。足早に近づくと、その気配に気づいたのか、黒衣の男は林から離れていった。まるで煙のように、静かに姿を消す。
林も気づいたようで、振り返って穂乃美を確認する。
「ねぇ、だれ? 今の人?」
「あゝ、なんか道に迷ったみたいで、道を教えてたんだよ」
「え、そんな雰囲気じゃなかったような……」
穂乃美が首を傾げる。男の立ち姿には道を尋ねる者の気配はなかった。
「いいよ、信じてもらえないんだったら」
林の言葉はそっけなく、穂乃美の胸に再び怒りが込み上げる。
「そんなことないけど……」
穂乃美は少し狼狽する。林の態度が彼女の感情を揺さぶる。
「それより、なにか用?」
林の冷たい口調に穂乃美は一瞬言葉を失う。だが、すぐに気持ちを立て直す。
「特に用はないけど、ちょっと林さんの気持ちが知りたくて」
「気持ち?」
「そう。本当は神山研究室に対して怒ってないのかって」
「あゝ、さっきの話か」
林は校舎の壁にもたれかかる。風が彼の白衣を揺らす。
「君の言う通りだよ。彼らがどれほどのものかは知らないが、僕が冷遇されているのは事実だ。それは編入生だから。分かってるんだよ」
その言葉は静かだったが、確かな痛みが込められていた。
「じゃあ、なぜ上の人たちになにも言わないの?」
「言ったって何も起こらない。彼らからすれば、この大学で仕事できるだけありがたいと思え、そう言い返されて終わりさ」
「そんな……」
穂乃美の目に涙が浮かぶ。彼女の胸には林の諦めが重くのしかかっていた。
「ありがとう。こんな僕のために泣いてくれて」
林の声は少しだけ優しくなった。穂乃美は腕で涙をぬぐう。
「私…… 私は林さんの実力を知ってるわ。だから、だから……」
言葉が詰まり、声が震える。林はそっと穂乃美を抱きしめた。彼女の肩に腕を回すその動きは、静かで、どこか切なかった。
「君は、僕みたいな将来のない人間より、もっと未来を嘱望された人を探した方がいい。それが君の幸せだよ」
そう言うと、林は穂乃美から離れた。彼の背中が夕暮れの光に溶けていく。そして、ぽつりと吐き出すように言った。
「あゝ、神山研究所が破壊されたとき、さとみさんも、阿久津君も死んでいれば…… いや、そんなこと考えるなんて人間のクズだな。こんなクズのこと、早く忘れていい人見つけなよ」
その言葉は穂乃美の胸を突き刺した。林は振り返らず、静かにその場を離れていった。
穂乃美の目から涙が止まらない。風が頬を撫でても、その熱は冷めなかった。そして、林が言った「さとみさんも、阿久津君も死んでいてくれれば」という言葉だけが、彼女の脳裏に焼きついていた。
それは林の絶望の深さを示す言葉だった。だが同時に、穂乃美の中に、何かが静かに崩れていく音がした。
× × ×
「穂乃美さん、どこ?」
さとみの声が冷えた空気の中に静かに響いた。
彼女がやって来たのは、工事中の東阪大学の新キャンパスだった。建設資材が無造作に積まれた現場はすでに夜の闇に包まれている。外灯もなく、風が吹き抜けるたびに鉄骨が軋む音が響く。まだ内装も整っていない建物の中へ、さとみは慎重に足を踏み入れていった。
この暗闇に紛れない白いコートを着たさとみが彼女を呼び出した女性を探している。きっと呼び出した相手はさとみと違い闇に紛れている、その中をさとみは目を凝らし相手を探す。
足元には砕けたコンクリート片、壁には未塗装の断熱材。不完全な空間が、まるでこの対話の行方を暗示しているかのようだった。
「穂乃美さん、約束どおり一人で来たわ」
さとみの歩みが止まる。目の前には、闇の中に浮かび上がるように穂乃美が立っていた。彼女の顔は半分影に沈み、手には何かを握っている。
「さとみさん、本当にひとり?」
「えゝ、ひとりよ」
「やっぱり、あの論文、公表してほしくないのね」
穂乃美がほくそ笑む。口元には冷たい笑みが浮かび、目には勝者の光が宿っていた。彼女はあの論文の件を理由に、さとみをこの場所へ呼び出したのだった。
「そうじゃないの。あの研究は確かに人道に外れている。でもね、人類の進歩には犠牲がつきものよ」
さとみは冷静だった。声は揺れず、目は穂乃美をまっすぐに見ていた。
「そう。じゃあ、この論文を世間に発表してもいいのね? そうなれば、あなたや阿久津さんたちは終わりよ」
穂乃美は手に持っていた論文をさとみに見せつけるように掲げる。念のためと思い、コピーを取ってあった。その紙の端は折れ、彼女の指先には力がこもっていた。それでもさとみは微動だにしない。
「いいわよ。穂乃美さんの好きにすれば」
「うっ……」
穂乃美の表情が曇る。勝者のはずの自分がなぜか追い詰められているような感覚に襲われる。
「そういうあなたの狡猾さが嫌いなのよ!」
穂乃美が論文とは反対の手に持っていた紐を引く。瞬間、さとみの近くに積まれていた工事用資材が崩れ落ちる。鉄骨が軋み、コンクリート片が宙を舞う。
「キャッ!」
その瞬間、さとみを突き飛ばし、資材の落下から彼女を救った男がいた。
「阿久津蒼真!」
蒼真は倒れ込んださとみに駆け寄る。彼の顔にはさとみが無事なことに対する安堵と穂乃美に対する怒りが入り混じっていた。
「さとみさん、大丈夫ですか」
「蒼真君、ありがとう」
さとみの声は震えていたが、彼の顔を見て安堵の色が広がる。その様子を見て、穂乃美が吐き捨てるように言う。
「阿久津蒼真、どうして、どうしていつも私たちを邪魔するの」
「邪魔する?」
蒼真が眉をひそめる。
「そうよ。あなたたちだけが良い思いをして、私たちはいつも置いていかれる」
「そんな、僕たちだって、僕たちだって、どんなにつらい思いをしていることか」
蒼真が穂乃美を睨みつける。穂乃美も負けじと睨み返す。二人の視線がぶつかり、空気が張り詰める。
「もういい!」
穂乃美が駆け出す。足音が資材の間に響き、彼女の姿が闇に溶けていく。
「待て!」
蒼真が穂乃美を追いかける。暗い工事現場の資材の間をすり抜けながら、彼女は逃げていく。追う蒼真、そのとき、彼の前に男が立ちはだかった。
「逃げろ、穂乃美!」
「林さん!」
穂乃美が振り返る。彼女の目に驚きと安堵が浮かぶ。
「いいから早く行け!」
林を目の前に蒼真は立ちすくむ。彼の表情には理解できないものを前にした戸惑いがあった。
「彼女をかばうのか?」
「お前には分からない。俺たちの、冷えきった心の底が」
林の体は強張っている。その硬さは後ろにいる穂乃美を守る鉄骨の門のようだった。
「君もなのか? 君も僕たちを妬む気持ちがあるのか? 君は昔の僕と同じ、研究だけしていればいい、妬みや恨みとは無縁の人だと思っていたのに。今の僕からすれば、君の方が羨ましいのに」
「そうだよ。研究ができていればそれでいいと思ってた。出世なんて気にしないと思ってた。でもな、でも、やっぱり心のどこかで阻害されている、そう思うことが多かった。そして挙句の果てに、愛する女に人殺しを思い立たせるほど体たらくな自分に気づいたんだ。そうだ、俺は、俺は怒ってる。そう、怒りで狂いそうなんだ」
林の声は震えていた。抑えていた感情が、今まさに溢れ出していた。そのとき、赤く光る霧状のものが林を包み込む。空気が震え、資材がかすかに揺れる。
「フレロビウム!」
蒼真は林から距離を取る。霧が林の体を包み込み、彼の輪郭が歪んでいく。赤黒く光る粒子が彼の肌に吸い込まれ、筋肉が膨張し、骨格が変形していく。林の体は巨大化し、赤黒く光る一匹の怪獣へと姿を変えた。
その目には、かつての林の知性も、穏やかさもなかった。ただ、怒りと絶望だけが、燃えるように宿っていた。
「ギャオー!」
夜の工事現場に怪獣コルテウスの咆哮が響き渡る。背中には大きな二つの背鰭、鋭く湾曲した嘴が月光を反射している。その巨体が、地響きを立てながら蒼真に一歩ずつ近づいてくる。空気が震え、瓦礫がわずかに跳ねる。
蒼真は腰のホルダーに手を伸ばす。指先が冷たく汗ばんでいた。先日開発したばかりの小型電子銃を抜き取り、振り返りざまにコルテウスへ向けて発射する。
「ギャオー!」
電子銃の光線が命中する。しかしコルテウスはビクともしない。その瞳には、怒りと憎悪が燃えていた。
「どうして……」
蒼真は立ち止まる。心臓が高鳴り、呼吸が浅くなる。
「そうか、人間の怒りを身にまとって、より強化されたのか」
彼の声は震えていたが理解の色が混じっていた。コルテウスはただの怪獣ではない。人間の感情、怒りの力によってそれが彼を強化している。
蒼真は一瞬怯んだ。このままでは勝てないかもしれない。しかし、ここで戦わなければ、蒼真がゆっくりと左手を挙げる。指先がわずかに震えていた。
ネイビーが闇を裂いてコルテウスの眼前に躍り出た。コルテウスが咆哮をあげる。その声は獣のものではなく、怒りに満ちた人間の叫びに近かった。
次の瞬間、両者が激突する。がっぷり四つに組み合い、鉄骨のような腕がぶつかり合うたびに、空気が爆ぜ、衝撃波が周囲の資材を吹き飛ばす。コンテナが宙を舞い、鉄板がねじれ、地面が軋む。
力ではコルテウスが上回っていた。ネイビーは徐々に押され、足元のアスファルトが割れ、後退を余儀なくされる。その背後には、さとみが避難しているはずの工事中の建物がある。
ネイビーは歯を食いしばり、全身の筋肉を震わせて踏ん張る。地面に深く足を食い込ませ、コルテウスの巨体を押し返す。だが、コルテウスはその力を逆手に取り、瞬時に身をかわした。
ネイビーの体が前のめりに崩れ落ちる。その背後から、コルテウスが獣のような速さで跳びかかり、馬乗りになる。硬質な拳がネイビーの後頭部に振り下ろされる。
「ガンッ! ガンッ! ガンッ!」
金属が砕けるような音が響きで地面が震える。ネイビーの頭部が地面にめり込み、彼の意識が薄れていく。目が虚ろになり、ついに動かなくなった。
「ギャオー!」
勝利の雄叫びをあげるコルテウスが、振り返ってさとみのいる建物へと向かう。その顔は怒りに満ち、嘴が開くと、赤黒い光が喉奥から漏れ始める。
その瞬間、ネイビーの指がわずかに動いた。
意識を取り戻した彼はふらふらと立ち上がった。視界が揺れる中、眼前でコルテウスが建物に向かって咆哮を放つ。
さとみがいるはずの建物の鉄骨が折れ、コンクリートが砕け、粉塵が空に舞う。
「あっ、さとみさん!」
ネイビーが叫び、よろめきながらコルテウスに向かって走る。だがすでに建物は崩れ落ちていた。瓦礫の山がさとみの姿を覆い隠している。
コルテウスが再び雄叫びをあげる。その声は勝利の咆哮だった。
「くそ! さとみさんを、お前は、さとみさんを殺した!」
その瞬間、ネイビーの体が赤い炎に包まれる。それは、彼の怒りの炎だった。感情が臨界点を超え、彼の体は光の粒子へと変貌する。赤い輝きが空気を震わせ、地面に亀裂が走る。
コルテウスが身構える。その瞳に、わずかな恐れが宿る。ネイビーは赤い光の玉となって、音速を超える勢いでコルテウスに突進する。空気が裂け、雷鳴のような音が轟く。両者が衝突した瞬間、爆風が周囲を飲み込む。
ネイビーの炎は、コルテウスの硬い皮膚を貫いた。
「ギャオー!」
赤い光が体内に侵入し、臓腑を焼き尽くす。断末魔の叫びをあげるコルテウス。その声は、怒りでも憎悪でもなく、ただ純粋な苦痛だった。
次の瞬間、彼の体が大爆発を起こす。赤黒い炎が夜空を染め、衝撃波が周囲の建材を吹き飛ばす。爆煙の中、ネイビーの姿は見えなかった。
そして静寂が訪れた。瓦礫の隙間から、かすかに風が吹き抜ける。
蒼真はその場に立ち尽くし、拳を握りしめたまま、崩れた建物の方へと歩き出した。さとみの名を心の中で呼びながら。
× × ×
壊れた建物。大きなコンクリートの破片がいたるところに散乱していた。鉄骨は折れ曲がり、壁は崩れ、床にはガラス片がきらめいている。小さな炎が、あちこちでチロチロと燃えていた。風が吹くたびに、炎は揺れ、煙が空へと細く立ち昇る。
蒼真はその中を走った。瓦礫を踏み越え、炎の間をすり抜けながら、ただ一人の名を呼ぶ。
さとみが無事であるように、そう願いながら。
「さとみさん!」
彼の声が闇に響く。焦りと祈りが混ざったその叫びは夜の静寂を切り裂いた。瓦礫は周りの景色を隠し、そもそもそこに何があったかも分からないほど粉々に散らばっていた。
蒼真は落胆した。こんな状態なら、さとみは、さとみが無事なはずがない。
落胆しその場に膝から崩れ落ちる蒼真。悲しみが彼の心を覆い始めたそのときだった。涙でかすむ彼の目に白いものが見える。やがて白いコートをまとった女性の姿が見えた。炎の赤と煙の灰に包まれながらも、彼女は静かに立っていた。その姿はまるでこの混沌の中にあって唯一、時間が止まっているようだった。
「さとみさん!」
彼は駆け寄る。瓦礫に足を取られながらも、彼女のもとへと急ぐ。
「さとみさん、無事だったんですね」
息を切らしながら彼は言った。だが、さとみは何も言わなかった。彼女の視線は蒼真ではなく、その先に向けられていた。
そこには泣き崩れる穂乃美と、その前に横たわる林の屍があった。
さとみはゆっくり二人に近づいていく。蒼真もさとみの後を追った。
「林君は怒りで怪獣化してしまったのね」
さとみの声は静かだった。感情を押し殺したような、深い沈黙を湛えた声だった。
彼女はゆっくりと穂乃美に近づく。足音はほとんど聞こえない。その気配に気づいた穂乃美が涙に濡れた顔を上げ、キッと彼女を睨みつける。
「あなたのせい、あなたのせいよ!」
穂乃美は泣きじゃくりながら、さとみを睨みつける。声は震え、怒りと悲しみが混ざっていた。
さとみはその姿を見ながらゆっくりと首を横に振った。
「林君を殺したのは穂乃美さん、あなたよ」
「えっ……」
穂乃美の目が見開かれる。涙が止まり、呼吸が浅くなる。
「彼の嫉妬心を呼び起こしたのはあなた。もしあなたが彼の心を揺さぶらなければ、彼は死ぬことはなかったわ」
「私が…… 私が彼を殺した……」
穂乃美の声はかすれていた。言葉が喉に引っかかり、震える唇から漏れ出る。
「彼の沈黙をあなたは破ったの。沈黙することで押さえていた怒りが面に出て怪物になった。酷かもしれないけど、それが事実」
さとみの言葉は冷たくはなかった。ただ、真実を告げる者の静かな覚悟があった。
穂乃美は倒れ込むように林の亡骸を抱きしめ、慟哭する。声にならない叫びが、夜の空気を震わせる。
「ごめんなさい…… あゝ、私、私、ごめんなさい!」
その姿をさとみはじっと見つめていた。目には涙はなかった、が、深い哀しみが宿っていた。
脇でその表情を見ていた蒼真に気づいたのか、さとみは彼の方へ向き直る。さとみの顔には先ほどの厳しさはもうなかった。代わりに、静かな微笑が浮かんでいた。
「ごめんね、心配かけたわね」
「あゝ、いや、その……」
蒼真は言葉に詰まりながらも、彼女の無事に安堵していた。
「さぁ、行きましょう」
さとみはひとり、工事現場を離れていく。背筋はまっすぐで、歩みはゆっくりだったが、確かな意志が感じられた。
「あっ、ちょっと、待ってください!」
蒼真は穂乃美たちのことが気になりながらも、その場を離れた。さとみの背中を追いながら、彼の胸には複雑な感情が渦巻いていた。
背後では、穂乃美の慟哭が夜の闇に響いていた。風が吹き抜け、炎が揺れ、瓦礫の影が長く伸びていた。
その夜、だれもが何かを失い、何かを背負っていた。
《予告》
怪獣被害で愛犬を失った明子。周りからの犬だから仕方がないと言う言葉に傷いていた。蒼真は現場で被災者を目の当たりにして心を痛める。そんな彼の足元に飼い主を失った仔犬が。次回ネイビージャイアント「円らな瞳」お楽しみに。




