第三十四話 本当の気持ち
♪淡い光が照らす木々
襲う奇怪な白い霧
悲嘆の河が怒るとき
敗れた夢が怒るとき
自由を求める戦いに
愛する誰かを守るため
青い光を輝かせ
ネイビー、ネイビー、ネイビー
戦えネイビージャイアント
秋の終わり、陽は細く傾きながら街の屋根を撫でていた。くすんだ光が石畳に影を落とし、ガラスのショーウィンドウには橙の輪郭が浮かびあがっている。冷たい風が通りすぎるたびに、どこかで枝の擦れる音が微かに耳に届き、美波は襟元をそっと握りながら歩を進めた。
商店街には季節外れのセールを知らせるポスターが貼られていたが、彼女の目的は買い物そのものではなかった。ただ、しばらくぶりに呼吸を深くしてみたかったのだ。人のざわめきや並ぶ匂い、流れる時間の緩さ、そのすべてが仕事の合間にほんの少しだけ自分を解放してくれるような気がしていた。そのとき、
「美波じゃない?」
優しく降り積もる午後の光を切り裂くように、懐かしい声が風に乗って届いた。美波は足を止め、ゆっくりと振り返る。そこには、記憶のページに淡く残る笑顔、スーツに身を包んだ青年が立っていた。
「えっ、さとる君?」
「そう、俺だよ」
澄んだ空気の中で言葉は柔らかく届き、胸の奥に一筋の波を立てる。彼の笑顔はあの頃のまま、少し照れくさそうで、だけどどこか落ち着いていて。十一月の空は薄雲に覆われていたが、ふたりの間には懐かしい光が差し込んでいた。
「どうしてここに?」
「仕事先からの帰りなんだ」
ふと近づいてくる彼の足取りは軽やかで、美波も自然に頬がほころぶ。声が、風が、記憶を呼び戻す。その人懐っこい笑顔に、あの頃の姿が重なって見えた。しかしよく見るとその風貌は昔と変わっている気もした。たくましくなった? それとも大人になった?
「いつぶりかしら」
「大学生のときの同窓会以来だから、三年ぶりだね」
三年。言葉にすると短いようでいて、互いに過ごした時間の厚みがその隙間を埋めていた。高校時代の記憶が美波の胸に静かによみがえる。恋心というより、告白されたという事実が嬉しくて始まった付き合いだった。それでも、彼と過ごした日々は確かに存在していて、それは今も、霞んだ写真のように胸に残っている。
ふたりは自然と足を並べ、近くのカフェへと入った。街のざわめきから一歩逃れてたどり着いた店内は、木目調の家具が優しく空間を包み、窓から差し込む午後の光がテーブルに柔らかな陰影を描いていた。静かな音楽が流れる中、紅茶の蒸気がくるりと宙に舞い、記憶の匂いを呼び起こす。
窓辺に座ったさとるの顔は、逆光のせいで輪郭が淡く霞んで見えた。さっきの違和感、それはもしかして。
「仕事大変なの?」
「あゝ、こき使われてるよ。まだまだ下っ端だから」
「でも、さとる君なら優秀だから、すぐ出世するんじゃない?」
「どうかな。美波はまだ神山教授のところにいるの?」
「えゝ。秘書の仕事、もうすっかり板についてきたわ」
「そっか。がんばってるね」
微笑みとともに、美波はカップに口をつける。ほのかな紅茶の香りが鼻をくすぐり、一瞬、気持ちがほどける。
「で、美波は今、付き合ってる人いるの?」
その問いに指先がふと止まる。自然な流れに見せかけたその言葉の中に、過去への手触りが含まれていた。美波はさとるの表情を見つめながら、思考の奥で自分自身に問いかける。一瞬ある男の顔が思い浮かんだ。付き合っている人?
「いないよ」
その言葉を口にした自分自身にわずかな違和感が走った。いない、その言葉に間違いはない。間違いはないけど……
「そうなんだ。なら、もう一度付き合わない?」
窓から差す陽が少しずつ色を変えてゆく。その変化を受け止めるように、美波の心にも揺らぎが生まれていた。彼との再会は偶然か、それとも何かの兆しなのか。
「そうね…… 考えておくわ」
「期待せずに待ってるよ」
さとるが笑う。かつての彼が戻ってきた気がした。本当に彼のもとに戻るかも、その言葉にも言いようのない違和感を覚える。何か切なさだけが美波の心に広がっていく。
窓の外では風が舞い、ひらりと落ち葉が一枚、通りすぎた時間のように静かに宙を漂っていた。
× × ×
東北の山あい。晩秋の里山は既に色を失いかけた枯れ葉に覆われ、静謐な林は季節の深まりを語っていた。木々は冷たい風に震え、その枝同士がかすかな音を立てて擦れ合う。その音は、まるで土地の記憶がささやき合うような、冬の扉を叩く予兆の調べである。
斜陽は雲の合間からかろうじて漏れ出し、樹間を縫うようにして落ちる光は柔らかくも弱々しい。地面に伸びた木々の影は濃く、空気には冷気だけでなく、何か得体の知れない気配が混じっていた。それは季節によるものか、それとも人知の及ばぬものなのか。
「県警から、この辺りで赤い光が放出されていたって連絡があったんですが……」
無言の森に声が落ち葉を揺らすように響く。鈴鹿アキと蒼真は通報を受けて林へ踏み込んだばかりだった。
二人は重厚の装備もなく、簡易な防護服姿で小枝をかき分けながら慎重に歩を進める。その足元には湿った腐葉土がひっそりと冷えた匂いを放ち、靴に静かにまとわりつく。
「なにかの見間違いじゃない?」
アキの声は霧の中に落ちた石のように控えめな響きを残しながら、森に飲まれていった。彼女は腰に手を添え、表情にはわずかな苛立ち。日常業務の疲れに加え、この「異常」の曖昧さが心をざわつかせていた。蒼真は黙って計測器を取り出し、土や樹皮にそれをあてて読み取ろうとする。
「フレロビウム反応もなさそうですね」
アキはため息まじりに肩をすくめる。
「ほら、やっぱり誤報なんじゃない」
そう言いながらも、その目は木々の奥に釘付けで、森に満ちる沈黙に抗うように何かを探していた。しかしそこには何もなさそうと悟ると、フッとため息を発した。
「このまま帰るわけにはいかないし、私は周辺の民家を回って、事情を聞いてくるわ。蒼真君はもう少し、この場所の調査をお願いね」
アキの声には命令のような響きよりも、責任への誠実さが込められていた。蒼真は頷き、それが言葉になる前にアキは既に木々の向こうへと姿を消していた。
残された静寂。蒼真は一人、枝葉の密な奥へと踏み出す。光は細く筋を描いて地面を撫で、その筋の向こうで暗い幹が規則正しく並んでいる。あたりはまるで、視界も音も、思考すら沈めるような濃密さを持っていた。
富士の樹海での記憶が、ふと頭をよぎった。あのときも、視界の閉ざされた空間で、自分が誰であるかさえ曖昧になりかけた。木々の囁きの中に、呼びかけがあったような気がした。
「そうだよな。俺たちが出会ったのも、こんな木々が生い茂った暗い場所だった」
心の奥がわずかに震え、何かが確かに動いた。背後の空気がぴたりと張り詰めた。次の瞬間、それは声にならぬ気配となって彼の背中を撫でた。
「健太?」
声にしてしまった自分に驚きながら、蒼真は振り返る。木々の隙間に、風を纏ったように一人の青年が立っていた。薄手のTシャツ、両手をポケットに突っ込んだ無防備な姿。そのくせ、寒さを微塵も感じていないような無垢さが、逆に不気味だった。
「よっ。久しぶり」
軽く右手を挙げる立花健太。その笑顔はあまりにも日常的でありながら、この森には馴染まない。蒼真の身体が条件反射のように緊張する。
「なにしに来た?」
返した言葉は冷たく短い。健太はただ笑みを浮かべながら、蒼真の周囲をゆっくりと円を描くように歩き出す。
「いい情報と悪い情報があるんだけど、どっち聞きたい?」
風が枝葉を揺らす音のなかに健太の言葉はするりと入り込む。そして、次第に景色が閉じるような錯覚を覚える。蒼真は言葉を返す。
「お前が現れると、ろくなことが起こらない。君は一体、なんなんだ」
相変わらず体を強張らせている蒼真に、柔らかい雰囲気の健太が蒼真の周りを歩き出す。
「まぁ、どっちでもいいと言うなら、良い情報から、と言うよりお前にとって有益な情報だ。防衛隊の上層部は新たな破壊兵器の開発を行っている。それにお前が持っているネイビエクスニュームの石を使いたがってる」
「あの赤い石を?」
蒼真はここ最近起こるネイビエクスニュームの赤い石が狙われていることを思い出した。
「しかしあれは宇宙人が」
「いや、違う。確かに宇宙人と名乗る黒衣のおっさんが盗もうとしたことは確かだが、おっさんの言葉を借りれば、ネイビエクスニュームを地球人が武器に使えばそれこそ自らで地球を破壊しかねない」
「それは……」
蒼真はあながち否定できないと思った。人類の歴史は強力な武器によって進化し、そして今やその力で人類自体を滅ぼすことができてしまう。これ以上強力な武器を作っても、しかし。
「で、どうしろと」
「防衛隊のお偉いさんたちにネイビエクスニュームを渡さないで欲しい」
「確約できない」
「そうか、まぁ、これから先はお前次第だ」
「じゃぁ、悪い方の情報」
健太がポケットからスマートフォンを取り出す。
「お前の彼女、浮気してるぞ」
「彼女?」
蒼真は首を傾げた。健太がスマートフォンの画面を蒼真の方に向ける。画面に映されたのは、カフェで穏やかに会話する男女。言葉が空気を切り裂き、蒼真の胸の中にいくつもの小さな問いが騒ぎ立つ。なぜ自分は動揺するのか。何がそんなに心を揺らすのか。健太の冷笑に、心が読まれているようで息苦しくなる。
「これは美波、向かい側にいるのはだれだ?」
「昔の彼氏らしい、よりが戻ったのかな」
「彼氏?」
美波からそんな話、聞いたことはない。蒼真の胸がざわついた。
「そうなんだ、よかった、美波に彼氏ができて。心配してたんだよ、いつまで一人なんだって」
「強がるなよ」
健太が笑う。蒼真はまた心の中が読まれたかと思った。ただ、なんでこんなに気持ちがざわつくんだろう。
「まぁ、これもお前次第だな」
そして現実が彼を再び引き戻す。
「蒼真君!」
アキの声が林の向こうから届いた瞬間、健太は肩をすくめた。
「邪魔が入ったようだな。じゃぁ、またな」
健太が霧に溶けるように木陰へと姿を消す。蒼真が追いかけたとき、そこには既に何もなかった。ただ木々のざわめきの合間に風が残り、健太という影の輪郭を冷たい空気がそっとなぞっていた。
× × ×
都市の夜は人工の光にすっかり飲み込まれていた。高層ビルの輪郭が闇を裂くように天へ伸び、その窓はまるで星の反転、人間が空に打ち込んだ昼の残像のようだった。その煌めきの谷間、巨大な構造体に挟まれた空隙に、ぽつんと忘れられたような小さな公園が息を潜めていた。
風はなく、葉の擦れる音すら聞こえない。街の喧騒が遠く滲んで届いてくる中、その場にひとり立っているさとるの姿は、まるで世界から切り離された一点の影のように沈黙していた。
彼の前には黒の深さをさらに黒く染めるような男が立っている。顔は光に遮られて判然とせず、漆黒の衣は夜そのものと見紛うほどの存在感を放っていた。
「これを彼女に渡せばいいんだな」
さとるの掌には小さく赤く灯る石が乗っていた。それは静かに呼吸するように輝き、内側から温度を宿しているかのようだった。
指先に広がる熱が脈打つように腕を這い、胸の奥にまでじわじわと染み込んでくる。不快ではない。むしろその温かさに抗えない何かが芽生えようとしていた。
「そうです。その赤い石を美波さんに渡して下さい」
その言葉は、夜の静寂を裂くことなく、ふと降りてくる雪のように耳へ届く。さとるの目に映る石は、ただの鉱物ではなく、心の奥に眠る不満や怒りを、長いあいだ蓋をされてきた衝動を呼び起こす導火線のように思えた。
電機メーカーへ就職して三年。そこは、技術と呼ばれる名の下に凝り固まった旧態依然の空間だった。老いた技術者たちは過去の勲章に縋り、若者の発想に眉を潜める。さとるの企画書も、夢を形にした設計も、ことごとく「経験不足」の一言で否定された。彼の中で叫び続ける声
「過去じゃなくて、今を見ろ」
「俺は、もっとできる」
それはだれにも聞こえなかった。否、聞こうとする者さえいなかった。
「あと阿久津蒼真が持っているノートを手に入れていただきたいのです」
その名前が出た瞬間、さとるの視線がほんのわずか揺れた。嫉妬ではない、けれどあの男の影が、自分より鮮明にだれかの心に刻まれているという事実が、胸の奥で燻っていた。
「ノート? 彼女を使って盗めってことか?」
「盗むだなんて。借りるだけです、少しだけ」
男の口調は優しく、どこか礼儀を装っていた。だがその柔らかさの奥に、曖昧で冷たい企みの匂いがした。それでも美波の顔がふと脳裏に浮かぶ。あの笑顔、素直で、あどけなくて、心をまっすぐ射抜くような眼差し。もう一度彼女と並び歩けたら。そんな想いに嘘はなかった。
どうして終わったのか、理由は山ほど挙げられる。時間がなかった、仕事が忙しかった、言い訳はいくらでもある。けれどどれだけ並べてもそれは過去の覆いでしかない。彼女はもう、自分の傍にはいない。
「これが成功すれば、あなたの望む未来が叶います。新しい製品企画には、我々の技術を提供しましょう」
男の言葉と同時に石に走る電流。その表面が生き物のように反応し、小さく震えた。テクノロジーの粋か、あるいは魔術のような仕掛けか。さとるは目を細め、静かに息を呑んだ。
その瞬間、欲望が形を取り始める。
「だれよりも先に出世してやる、あいつらを見返してやる、彼女を取り戻してやる」
闇の中に灯る赤い光は、まるでそれらを肯定するかのように濃く、熱く脈打った。
「分かりました。やってみましょう」
短く放たれた言葉は、未来の扉に鍵を差す音のようだった。さとるは、石をそっとスーツの内ポケットへ滑り込ませた。その瞬間、胸元に新たな鼓動が生まれた。それは彼自身のものとは少し違っている。意志のような、あるいは呪いのような熱が、内側から彼の心を焦がし始めていた。
夜は、何事もなかったかのように静かに続いていた。だが公園の片隅では確かに、ひとつの決断が光を帯びて脈動している。都市の夜の深さに、だれもそれを知らずに。
× × ×
午後四時。研究棟の窓辺から差し込む陽射しは、季節の傾きを知らせるように斜めに床を染めていた。光は柔らかであると同時に冷たく、部屋の隅に静かな影を落とし、空気にある種の凪をもたらしているようだった。リビングは静まりかえっていた。実験室では研究員たちがそれぞれの装置と格闘し、神山教授はいつものように背を曲げながら指導中。秘書という名の時間に縛られた彼女だけが、今、この空間を独り占めしていた。
にもかかわらず、美波の心は居場所を見失ったように落ち着かず、目の前の空気でさえどこか借り物のように感じられた。ソファの端に腰を下ろし、彼女はそっと掌を持ち上げる。そこに乗るのは、深紅の輝きを宿した指輪。大ぶりな石は、部屋の光を吸い込みながら小さく、しかし確かに存在感を示していた。
「どうして、こんなものを自分に?」
昨日、さとるから突然連絡があった。あの日と同じカフェ。あの頃の面影は笑顔の奥にそのまま潜んでいて、彼は以前より饒舌になっていた。そして彼は唐突にその指輪を差し出した。
「これは大事なものなんだ。だから預かっていてほしい」
戸惑う美波に彼は
「母の形見だ」
と静かに告げた。その口調は穏やかだったが、どこか揺らぎが混じっていた。
「そんな大切なもの、私なんかに?」
「大切なものだからこそ、美波に預けるんだよ」
その言葉には真心と不安定が同居していた。
「このことはだれにも話さないでね。それとこの指輪、だれにも見せないでね」
そう言われても、胸の内に灯った戸惑いは消えなかった。
これはプロポーズのつもり? でも彼はそんな回りくどいことをするタイプじゃない。再会して間もない自分に、一体何を託そうとしているのか。指の上の石を見つめながら、美波は答えのない問いを繰り返す。
艶やかな表面の奥に宿る色が、静かに彼女の胸を撫でるように揺らす。その瞬間、心の深い場所からざわりとした感情が浮かびあがった。それは戸惑いでも懐かしさでもなく、遠くでうずく不満のようなもの。
蒼真。彼ならどう思うだろう?
かつては、何もできない研究助手だった。無口で、子供っぽくて、だけどいつも自分の傍にいてくれた。その優しさは、言葉にしなくても伝わってきた。彼と話すだけで、心がほぐれていくような感覚があった。さとると話していたときには感じられなかったものだ。
今の蒼真はMECという最前線で動く隊員になった。命を賭して、平和の維持に臨む姿は尊敬に値する。けれど、遠くなった。どこか別世界へと足を踏み入れてしまったようで、彼女の手の届かないところへ行ってしまった気がした。
寂しい。けれど……
美波は再び指輪を見つめた。すると、蒼真への想いは、じわりと怒りに似た感情へ形を変えていく。
あの眼差し。蒼真がさとみを見つめるときの、艶めかしい視線。あれは自分には向けられたことがない。一度も。
胸の奥で何かが軋んだ。指先に乗る赤い石が、不思議なほどその苛立ちを拾い上げ増幅していくように思えた。その熱に似たざわめきが彼女を不穏に染めていく。
「なにしてるの?」
不意に聞こえた声に、反射的に身体が跳ねる。玄関に立っていたのは――そこにいるはずのなかった蒼真だった。
「なんでいるの?」
「なんでって? ここ、自分の家みたいなもんだから」
いつも通りに首を傾げるその仕草が、逆に美波の怒りを煽る。無防備な態度。気付かない鈍さ。
「じゃなくって、なんでこんな早い時間に?」
「東北から帰ってきたんだ。でも時間が中途半端だったから、直帰しただけ」
鞄がソファへ放られた音が部屋に響いた。そこへまた感情が波打つ。
「そう。それはお疲れさま」
声に棘が混じる。冷ややかで、乾いた言葉。
「昨日、だれかに会ってた?」
その質問に、胸が跳ねる。バレてる? さとるとの再会が。
「なに? なにか気になることでもあった?」
言葉の温度が上がる。
「いや、その……」
曖昧な言い方。確信はなさそう。なのに、苛立ちは静かに爆発の予兆を見せ始めていた。
「会ってたわよ。元カレと」
「えっ、あっ、あゝ、そう」
蒼真が俯き、言葉を探す。
「美波が、カフェで男の人と楽しそうに話してたのを見た人がいて」
「見た人がいる、って?」
語気が跳ね上がる。怒りが胸を染める。
「私がだれと会おうと勝手でしょ?」
「それは、そうだけど……」
沈黙。俯く蒼真。
「元カレって……また付き合うの?」
「どうしようかな。そうしようかな」
その言葉に、空気が張り詰める。
「なにそれ?」
「だって私がだれを好きになろうと、勝手じゃない!」
「それはそうだけど……」
「蒼真君には関係ない話でしょ!」
感情が剥き出しになる。睨み返す視線がぶつかり合い、静かだったリビングに軋みが走る。
「なんで、そんな言い方するんだよ」
声に棘が混じった。
「なんで私が蒼真君に、そんな話しなきゃいけないのよ! どうせ私なんかに興味ないくせに!」
声が震える。目に涙が浮かぶ。
「そんなこと……」
蒼真の言葉は続かず、語気だけが膨れ上がる。
「ごめん、変なこと聞いて!」
怒気が弾けた。ふたりの心が、剥き出しのまま擦れ合う。
「蒼真君なんか嫌いよ。もういい!」
美波は叫ぶように言い残して、ドアへ向かう。泣き顔を見せまいと、背筋を強く伸ばして。
蒼真もまた、沈黙の中で背を向ける。
残されたリビングには、赤く差し込む夕光だけが残っていた。だれにも触れられることのないその光が、ふたりのすれ違いを静かに、そして痛ましく照らしていた。
× × ×
部屋の静けさが逆に胸のざわめきを際立たせていた。外の光は夕刻の色に沈みはじめ、窓枠の向こうの空がじりじりと青から灰へ変わっていく。まるで時間が重力を帯びたように、空気がどこか重くなっていた。
蒼真は机に肘を突き、両手で顎を支えたまま、深く長いため息をひとつこぼす。音は小さくとも、内側から零れ落ちた疲労が壁に反響しているように思えた。
「はぁ…… 美波になにか、悪いこと言ったかなぁ」
ぽつり、と呟いた声は、まるで自分自身に問いかけているようで、部屋の空気にゆるやかに染み込み、静けさをさらに深くした。だが答えはない。問いだけが幾重にも胸の奥で反響し、形にならずただ回り続けていた。
「でも、あの言い方はないよな。“嫌い”って……」
一瞬だけ、怒りが胸の奥に燃えた。けれどその炎は言葉にする前に、すぐに深い憂鬱の色をした感情に包まれてしまう。残ったのはやり場のない、くすぶったモヤのような重たさだった。
「やっぱり元カレと付き合うのかなぁ。美波の奴」
胸がきゅっと締め付けられる。その理由は分からなかった。いや、分かりたくなかったのかもしれない。
「美波って、僕にとって、一体なんなんだろう」
記憶の糸を辿るように、蒼真はそっと目を閉じた。大学一年の春。初めて出会った彼女は、素朴で、まっすぐで、そして何より眩しかった。
「なんとなく気が合って、研究室でもよくしゃべってたよな」
その言葉を胸の中で繰り返しながら、思い出は波紋のように広がってゆく。実験がうまくいかなかった夜も、将来の選択に迷っていた日々も、いつも彼女は傍にいた。
目を開けると、壁にかけられたMECのユニフォームが視界に入った。
「あのとき、“いつでも帰ってきていい”って、美波が言ってくれた。あれ、本当に嬉しかったな」
その一言にどれだけ救われたか。今の自分がここにいるのは、間違いなく彼女の存在があったからだ。
引き出しを開け、父が遺したノートを取り出す。あの重たい記憶の束は彼にとって“自分とは何か”を突きつける鏡のような存在だった。
「自分が何者か分からなくなったときも、美波は一緒に実験室まで来てくれた。もしあのとき彼女がいなければ、僕の心は壊れてたかもしれない」
ノートを机に置き、蒼真は表紙をじっと見つめた。普通の人間じゃない自分。その事実が、どれほど苦しく、孤独だったか。けれど美波は、いつも笑顔でその孤独を包んでくれた。
「彼女の笑顔が、何度も僕を救ってくれた」
それが真実だった。心では既に答えが出ている。けれど彼の脳はそれを受け入れる準備がまだできていない。それが胸の痛みに繋がっていた。
「もし美波が元カレとよりを戻して、僕の前からいなくなったら、そんなことになったら…… 僕は……」
言葉が続かなかった。喉元まで来た叫びは、形になる前に引き裂かれ、胸に残ったのはただ苛立ちと哀しみ。
思わず机を両手で叩く。乾いた音が部屋中に広がる。
「なにを、そんなに恐れているんだよ。彼女がいなくなること? それとも……」
以前、彼女が宇宙人に連れ去られかけたとき自分は傍にいなかった。でも、そこにいなかった自分はどうすることもできなかった。そのことを美波は怒っていた。それはどういう意味だ? そばにいつもいて欲しい、そう言うこと?
「美波は、僕をどう思ってるんだろう。ただの同僚? それとも……?」
瞼の裏に浮かぶのは笑顔ばかりだ。遊園地で見せた無邪気な笑顔。結婚式で腕を組んで歩いたときの、照れた笑顔。
「彼女の笑顔が、それが……」
ずっとそばにいてほしい。それだけなのに。いつまでも、なんて言えないのに。それでも、いつまでも、と願ってしまう。
蒼真が天井を見上げた瞬間、ドアの向こうからノックの音が響いた。その音は、重たく閉ざされた心をそっと叩くように静かに鳴った。扉を開けると、そこには俯いた美波の姿があった。彼女の唇は真一文字に結ばれ、その瞳にはまだ語られていない想いの色が宿っていた。
蒼真は、彼女の佇まいにふと気付く。その沈黙の中に確かに意志があると。
× × ×
秋の夕陽は静かに部屋の奥へと差し込み、橙色から紅へ、さらに鈍い紫が混ざるようにして床を染めていた。その光はまるでときの記憶を撫でるようで、壁に映る影が長く、ゆっくりと呼吸しているかのようだった。男の一人暮らしにしては整った室内。少しばかり高価なテーブルと、洒落た意匠のソファが品良く置かれ、寒さとぬくもりの境目を静かに演出している。
テーブルの上で、美波はそっと三冊の古びたノートを広げた。紙の端は年月を吸い、角がわずかに丸みを帯びている。それは物語の断片のように、言葉の気配を漂わせていた。
「これ、さとる君の言ってたノート」
「ありがとう」
さとるがノートを手に取る。その目は感情を隠すように伏せられ、指先だけがわずかな緊張を見せていた。
この訪問は偶然ではなく意図を伴っていた。美波の手の中には、もうひとつの問いが灯っている。あの赤い石。昨日の再会、再びの微笑、突然差し出されたルビーの指輪。そして、その真意。
「ここに美波が来てくれるとは思わなかったよ」
「どうして?」
「だって、男の一人暮らしの部屋に、普通、来ないだろ?」
「さとる君が悪い人じゃないって、信じてるから」
さとるは照れたように笑みを浮かべた。それは高校時代の面影をかすかに残した柔らかな表情だったが、今その笑みにあるのは、少しだけ翳ったものだった。
「美波は昔からそういうところ、変わらないね。優しい」
「ありがとう」
美波もかすかに笑う。その笑顔は波のように一瞬の温度を持っていたが、やがてゆっくりと真剣な光を帯びていく。
「聞いてもいい?」
「なんだい?」
「このノート、どうするの?」
沈黙が降りた。時計の音も息を潜めたように空気が静まり、秋の夕陽が天井に長い尾を引く。さとるは言葉を探すように、目の奥で何かを整理している気配を見せた。
「今は言えない。でも美波が……」
「私が?」
「美波が、また俺と付き合ってくれたら、教えてあげてもいいよ」
その言葉はガラスの水面に石が落ちるように彼女の内側で波紋を広げた。驚きと混乱、そしてどこか予感していたものが絡み合い、返事を飲み込むしかなかった。
「考えないわけじゃない。でも……」
声がかすかに揺れた。
「私、さとる君が何か良くないことに関わってるんじゃないかって…… そんな気がしてるの」
沈黙が再び訪れる。今度はもっと重たく、息苦しい沈黙だった。さとるは目を逸らし、口元に一瞬笑みを浮かべたが、それは答えではなかった。
「それに、この指輪のこと」
美波はゆっくりとコートのポケットに手を入れ、深紅の石を掲げた。夕陽を浴びるそれは、ルビーではない。もっと濃く、もっと冷たい輝き。その赤は感情ではなく、意志の色だった。
「この石、ルビーじゃないわよね。ネイビエクスニューム、じゃない?」
さとるの表情が凍ったように固まる。
「これを私に渡して、どうしようというの? これはとても危険なものよ。どこで手に入れたの?」
その問いは鋭く、警告のように響く。さとるはふと笑みを浮かべる。その笑みには迷いとともに、歪んだ自己肯定の色がにじんでいた。
「君はやっぱり、僕のことを疑っていたんだね」
次の瞬間、彼の眼差しが鋭くなり、美波をまっすぐに捉える。言葉よりも強いものがそこに宿っていた。
「私だってさとるのことを信じたい。でも、これを持っているってことは、それを母の形見って嘘つくのは、信じたい気持ちを越えてしまうの」
さとるが俯きながら静かに嗤いだす。その声はだんだん大きくなっていく。
「僕はまだ君のこと、愛しているというのに。けど君は、やっぱり阿久津蒼真の方が好きなんだね」
嫉妬。悲しみ。怒り。それらすべてが、言葉の奥に澱のように沈んでいた。
「それは……」
美波は言葉にできずにいた。問いが胸で渦巻き、混乱を起こし、そのことで沈黙が答えの代わりになっていた。
「どうせ俺なんて、どうでもいいんだろ」
さとるの声が急に鋭さを帯びる。目の奥には燃え残る怨念が灯っていた。
「仕事でも、君にも幻滅させられたよ」
彼は立ち上がる。言葉は濁流のように流れ出す。
「このノートも、あの石も、黒衣の男から託されたものだ。目的なんて知らない。ただ俺の願いを叶えてくれると言った。仕事の成功と君を手に入れることを」
その瞬間、空気が変わった。部屋に冷気が走り、美波の両手足に何かが触れた。床の奥から蔦のようなものが伸び、椅子の脚を這い、彼女の身体を絡め取ってゆく。
「なに?」
声は驚きよりも震えに近かった。身動きができず、さとるがゆっくりと近づいてくる。
「黙って俺のものになっていればよかったんだ。俺は心からお前と一緒に歩きたかったんだ。お前を気付点けたくはなかった」
その手が、彼女の頬に触れる。冷たく、そしてどこか哀れな優しさ。
「だが終わりだ。お前が、俺を裏切ったから」
次の瞬間、腕が首を締め付けてくる。
「うっ…… く、苦しい……」
言葉が空気に溶けず、息が音にならない。美波の顔が苦悶に歪む。さとるの表情には狂気が混ざっていた。
「俺に逆らう奴は死ねばいい。俺を愛せない奴は地獄へ堕ちろ」
言葉は重く、鋭く。部屋の光が沈み、影だけが壁に浮かび上がる。
そのときだった。
「美波!」
扉が跳ねるように開き、蒼真が濁った空気を切り裂いて部屋へ駆け込んだ。その姿は静寂の中に走る雷光のようで、場の空気が一気に震えた。
「なにっ!」
さとるが反応するよりも早く、蒼真の瞳には怒りが燃え広がっていく。言葉にするより先に彼の身が動いた。刃のような意志が空間を貫いた。
「そうか…… 美波。お前、こいつに連絡してたな」
声には裏切りに似た怒気が滲み、美波の胸がひとつ跳ねた。けれど、苦しさの中で見たその顔に、ふと安心がにじむ。
「蒼真君、来てくれたのね」
彼が来た。それだけで世界の重力が少し変わる。彼の腕が動き、ナイフが蔦に走る。断ち切るたび、空間のねじれがほどけてゆく。
「美波がメモを残してくれたから、このノートを渡したとき、君が助けを求めているって、気付いてた。僕はそれに応えないといけないって、そう思ったんだ」
言葉は力であり、赦しでもあった。自由になった美波が彼の胸に飛び込むようにしがみつく。
「私、ずっと信じてた。蒼真君が来てくれるって」
そのぬくもりを感じた瞬間、部屋の中央で白い霧が突如、うねりを持って立ち上がる。さとるの身体を軸に、世界が歪み始める。
「ふざけやがって! お前らだけは許せない!!」
地面が震えた。壁が、床が、空気までもが波打つ。蒼真が叫ぶ。
「フレロビウム!」
その名とともに、霧が咆哮のように空間を包み込み、建物全体が軋み、崩れ始めた。瓦礫が落ち、影が裂け、重力の向こうに奈落が顔を覗かせた。
「キャーッ!」
美波の足元が抜ける。その身体が重力に引かれて沈んでいく。蒼真は腕を伸ばした。反射でも義務でもない。ただ本能、それは心からの意志だった。
「美波、掴まって!」
「逃げて! 私のことはいいから!」
「なにをバカなことを言うんだ! 君を置いて逃げられるわけがない!」
床が崩れかけ、蒼真の足元まで割れ始める。二人の命が裂かれようとしているその瞬間にも、彼の手は離れなかった。
「このままじゃ、蒼真君も落ちちゃう……」
「ダメだ!」
怒号が空間を裂く。
「美波は僕にとって、一番大事な人なんだ。なにがあっても、どんなことがあっても、絶対に離さない!」
腕に込めた力が彼のすべてだった。美波はその力に応えて、震える手で彼の腕を這うように登っていく。
「絶対に守る、美波を!」
彼の足が滑る。だが、その瞬間に彼女を強く引き寄せ、二人は床へ転がり込むように倒れ込んだ。美波が彼の胸に抱きつき、涙の音が静かな瓦礫の中に降りる。
「蒼真君……」
「ごめん、僕は…… 君のことを好きだって。今までは自分の気持ちに気付いていなかった。けど今は分かる。僕は君のことが好きだ。離れたくない。ずっと一緒にいたい」
「私も…… 私も、好き。蒼真君が。離れない、絶対に」
抱擁の中で二人が震えながらも、確かめ合うようにその想いを重ねた。だが、安堵の間隙を裂くように外から地鳴りが響く。
窓の外に現れたのは、一本角と翼を携えた怪獣、ペロビリス。その咆哮が夜を切り裂く。巨大な爪が建物に振り下ろされ、天井が崩れ、二人に土煙が降り注いだ。
「キャーッ!」
だがその瞬間、空間を裂いて奔る蒼い閃光。砕けた壁の向こう、夜に溶け込むような影がゆっくりと形を現した。
ネイビージャイアント。巨人は瓦礫の煙を背負いながら、仁王のごとく立ち現れる。そのボディは戦いのあとを宿し、背面装甲の幾筋かが裂けていたが、その姿は揺るがない威厳を放っていた。足元が振動し、周囲の粉塵が舞い上がる。沈黙のまま、ネイビーの視線はまっすぐ怪獣ペロビリスに注がれていた。
ペロビリスが唸る。地面が震え、ビルの残骸がわずかに軋む。一対の翼を広げ、一本角を低く構えたその姿は、夜の災厄そのもの。闇に胎動する憤怒と破壊の具象だった。怪獣が猛進を開始する。踏み鳴らすたびにアスファルトがひび割れ、空気が唸るように鳴った。
ネイビーは一歩踏み出し、瞬時に重心を下げて身を沈める。膝に向けて放たれたタックルは、鋼の塊が衝突したような音を轟かせ、ペロビリスの巨体がぐらついた。咆哮が空を裂き、都市の闇が振動する。
倒れかけた怪獣に跳ね上がるように取りついたネイビーは、背へ馬乗りになり、両拳を叩きつける。頸椎への連打は装甲を砕き、黒煙が吹き出し、空間を歪ませた。だが次の瞬間、ペロビリスが翼を激しく打ちつけた。暴風のような羽ばたきが周囲の破片と土煙を巻き上げ、視界が一気に閉ざされる。
ネイビーの姿が灰の濁流に包まれ、続けざまに怪獣の尾が一閃。ネイビーは宙を舞い、背から瓦礫へ叩きつけられる。床面が陥没し、石屑が天井から雨のように降った。壁が割れ、衝撃音が夜空に轟く。
ペロビリスは咆哮しながら大地を踏み鳴らし、口元にエネルギーを集める。喉奥に光が脈動し、次の瞬間、業火のような火炎が吐き出された。火柱は都市の残骸を舐め、焼け焦げた空気を唸らせる。
一瞬の沈黙、そしてネイビーは身を翻し、炎の舌をギリギリで躱しながら高く跳躍する。空中で軸足を回転させ、渾身の飛び蹴りがペロビリスの胸部へと突き刺さる。衝撃で装甲が砕け、赤い石が、その鼓動とともに露わになった。
ペロビリスが咆哮しながらも体勢を立て直そうとしたその瞬間、ネイビーは再び加速した。地面を蹴って横に流れながら接近し、両腕を交差させて素早く回転、連続の打撃が怪獣の側頭部を裂く。
倒れた怪獣の翼の陰で赤い石が震えるように鼓動を続けていた。ネイビーは一歩前に踏み出す。左手を突き出す。空気が青い光に飲まれた。
光が一本の線となり空間を貫いて迸る。閃光が赤い石へ正確に、無慈悲に突き刺さる。ペロビリスの動きが止まる。両翼が落ち、その巨体が膝から崩れるように沈む。羽ばたきも、呻きも、息遣いも消え、巨影は塵のように、静かに、ゆっくりと空へと還っていった。
× × ×
崩れ落ちた瓦礫の静寂の中、蒼真は身動きもせず、美波のぬくもりをその腕にしっかりと抱きしめていた。焦げた匂いが残る空気と、舞い落ちた破片の影が重なる空間は、傷のように静かだった。遠くで風が落ち葉を運び、その音さえ、彼の胸の内の不安に似ていた。
「美波、大丈夫か」
その声は祈りに似ていた。心から引きずり出したその想いは、言葉以上に震えていた。蒼真の指が美波の髪に触れたとき、瞼がかすかに動く。そして彼女はゆっくりと目を開いた。
見えたのは蒼真だった。ひとりだけ。自分のために傷ついたその瞳に、美波は瞬時にすべてを悟った。
「ん…… ううん…… 私、どうしてここに?」
記憶は霞んでいたが、彼がそばにいることだけは明確だった。それがなぜか、痛みを越えて胸に灯りをともした。
「怪獣が襲ってきて、建物が崩れて、でもたぶんネイビーが来てくれて」
言いながらも、蒼真は自分がどれほど彼女を守ろうとしたかを語らなかった。それが彼の照れであり、彼の誠実だった。
だが、美波は静かに首を振る。
「違う。私を守ってくれたのは、ネイビーじゃない。蒼真君…… あなたよ」
その声には、未来が誓われていた。
「もし蒼真君が来てくれなかったら…… 私、もう何もかも終わってた」
蒼真は言葉を失いながらも彼女の視線を受け止めた。そのまっすぐさが胸を貫く。
「ごめん…… 美波が元カレに会ったって聞いて、怖くて、動揺して…… でもそのとき、はっきり分かった。僕にとってなにが大切なのか。だれがかけがえのない存在なのか」
美波は、涙を一筋、目尻に浮かべる。
「私も強がってた。蒼真君に“好き”って言ってもらいたかった。でも怖くて、信じる勇気がなくて……」
ふたりは互いの非をなじるのではなく、抱きしめ合うように語った。瓦礫の隙間で交わされたその言葉はどんな傷も赦し、どんな恐れも越えていた。
「ごめん、僕のせいだ」
「違う。私も悪かったの。だから、私のすべてを託す。心も、命も、未来も」
その瞬間、蒼真は彼女のすべてを受け取る覚悟を決めた。どんな敵が現れても、どんな闇に落ちても、美波だけは自分が守る。それが彼のすべてで彼の力の源だった。
美波はそっと彼の胸に顔を埋める。その鼓動はもう自分の鼓動だった。蒼真は、彼女の体温が逃げていかないように、世界が崩れても解けないように、彼女をしっかりと抱きしめた。
「美波、僕は君を命より大事に思ってる。だれにも渡さない。なにがあっても、絶対に守る」
「蒼真君、私も。あなたのそばで、生きていたい。それ以外はなにも望まない」
雲間から差し込む夕陽が、ふたりの姿に深紅の絆を描いていく。瓦礫の影が溶けるように揺れ、風が焦げた匂いとともに穏やかさを運んだ。赤い光は、ふたりの誓いをそっと染めながら、未来への道筋を照らしていた。
ふたりはもう言葉を必要としなかった。
《予告》
一流研究者の失踪事件を追う堀田雪。彼女のもとにある女性からの情報が入る。マスコミがかぎつけたことを気に掛ける安田参謀。雪の紹介で咲奈と会う蒼真。そこで驚きの証言を聞く。次回ネイビージャイアント「声が届かない街」お楽しみに。




