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ネイビージャイアント  作者: 水里勝雪
31/70

第三十一話 歩く人形

♪淡い光が照らす木々

 襲う奇怪な白い霧

 悲嘆の河が怒るとき

 敗れた夢が怒るとき

 自由を求める戦いに

 愛する誰かを守るため

 青い光を輝かせ

 ネイビー、ネイビー、ネイビー

 戦えネイビージャイアント

「では、よろしくお願いします」

 端正なスーツに身を包んだ堀田雪が取り巻くテレビクルーと共に防衛隊広報部の女性広報官に一斉に頭を下げる。夕刻の防衛隊基地の玄関ホールは昼勤の隊員と夜勤の隊員の交代が行われ、いつも以上の人の流れに満ちていた。


 広報官は人々の往来の妨げにならないよう玄関ホールの隅で、テレビクルーと来週の事項について話し合っている。

「こちらこそよろしくお願いいたします。来週の火曜日、午前九時に玄関ホールでお待ちしております。緊急の出撃がなければ、予定通り打ち合わせを行いましょう。万が一、緊急事態が発生すれば、お電話いたします」


「よろしくお願いします」

 再び雪が軽く頭を下げる。その佇まいは、四十代だろうか。清楚で美しく、細身ながらもどこか貫禄を感じさせた。彼女は明らかにこのテレビクルーたちの中心人物として振る舞っていた。

「では、また来週」

 そう言い残し、広報官は基地の内部へと消えていく。その入れ替わりに基地の奥から蒼真と吉野隊長が現れた。

 蒼真の視界に見慣れぬ一団が飛び込んでくる。グループの一人が吉野をじっと見つめる。そして輪の中心に立つ堀田雪へと声をかけた。


「雪さん、僕たち、先に戻りますね」

 クルーたちは一斉に玄関の外へ向かう。その場に一人残った雪はちらりと蒼真たちへと視線を向け、軽く会釈した。吉野隊長もまたそれに応じる。しかしその表情は変わらず硬いままだった。

 二人が雪を追い越し、玄関前へと歩みを進めたとき、蒼真は吉野隊長の様子をうかがいながら問いかけた。


「隊長、さっきの女性、ご存知なんですか?」

「あゝ」

 吉野隊長の声は微かに硬さを帯びている。

「テレビでコメンテーターをしている堀田雪さんだ」

「えっ、そんな有名人なんですか?」

「あゝ。今度、鈴鹿アキ隊員のインタビューが行われるらしい。今日はその事前の打ち合わせのために来ていたようだ」


「へぇ、鈴鹿さんがテレビに出るんですか」

「そうらしい。その日に怪獣が現れないことを祈るがな」

 その言葉に抑揚はなかった。蒼真は吉野隊長が何かを隠しているように感じる。

「でも、そんな有名人と隊長はお知り合いなんですか?」

「あゝ、ちょっとな」

「へぇ、すごいじゃないですか」


 蒼真が茶化すように言う。しかし吉野隊長はそれを無視するかのように、まっすぐ前を見据えたままだった。やはりさっきの女性と隊長の間には何かがあったのではないか、そんな予感がした。

 蒼真は気になって振り返る。そこにはスーツを着こなした端然たる女性の姿があった。肩から大きなカバンを下げている。その中に子供の頭のようなものが見え。蒼真は一瞬、息を呑んだ。しかし、よく見るとそれは人形だった。


「なんだ、人形か。それにしても妙だな。あんな人形を持ち歩くなんて」

 そのとき、ほんの一瞬、人形の胸に赤い光が揺らめいた。それは光の反射なのか、それとも……

「気のせいか?」

 蒼真は違和感を覚えながらも、そのことを吉野隊長には告げなかった。隊長の顔は、変わらず硬いままである。まるで、その内側に封じ込められた何かを決して漏らさぬようにしているかのように。


 ×   ×   × 


「えっ、堀田雪さんの旦那さんって、吉野隊長なの?」

 美波の目が驚きに大きく見開いた。

 秋晴れの空が広がる。どこまでも透き通る青の下、研究室の庭には色とりどりの花が咲き誇っている。観賞用であると同時に研究対象でもあるそれらは、日本では見られないような珍しい色彩を纏い、近所の人々さえ足を止めるほどの美しさを湛えていた。

 その花壇に水をやっていた美波に蒼真が話しかける。彼が神山研究所へ戻ったのは実に一週間ぶりだった。


「正しくは“元”旦那さん」

 蒼真は腰を屈め、咲き誇る花を一輪ずつ指先でなぞりながら言った。ふと顔を上げると、陽の光を浴びた水が七色に輝いていた。

「どっちにしてもすごいわ。今をときめくコメンテーターの堀田雪さんの旦那さんが、吉野隊長だったなんて」

 美波は放水ホースの先端に付いたボタンを押す。勢いよく流れていた水が途端に止まり、蒼真の視界から七色の輝きが消えた。


「だから、“元”旦那さん」

 蒼真は立ち上がり、美波の正面に立つと首をかしげた。

「で、美波。堀田雪さんって、どんな人?」

「えっ、知らないの?」

 驚きの表情を浮かべる美波に対し、蒼真は真顔で答える。

「知らない」

「えっ、あんな有名な人を?」

 美波はあきれた様子で蒼真の肩を軽く叩いた。


「ちょっとは世間を知っておいた方がいいよ」

「はぁ……」

 蒼真は眉をひそめる。

「女性の社会進出をテーマに、男性社会へ鋭い問いを投げかける。切れ味のある言葉選びと、それでいて女性らしい優しさも兼ね備えているから、男女問わず人気のあるコメンテーターなの。今やテレビに引っ張りだこだよ。なんで知らないの?」

「そう言われても……」

 蒼真は唇を尖らせる。


「女性の活躍か、だから鈴鹿さんのところにインタビューに来るんだ」

「へぇ、アキさんが取材されるのね」

 美波はホースを片付けながら、羨ましそうに呟く。そして、ふと首をかしげた。

「でも、どうして“元”旦那さんなの? 離婚したってこと?」

「科学班きっての情報通、鈴木君の話によると、どうも子供さんが原因で別れたらしい」

「子供? 堀田雪さんに子供がいたの?」

 蒼真の顔が一瞬歪んだ。


「それが…… 今はいないらしい」

「いない?」

 美波は不審そうに蒼真の表情をうかがった。

「五年前に亡くなったんだって。聞いたことのない病にかかり、看病の甲斐なく亡くなったらしい」

「えっ、そうなの。それで、いくつで?」

「五歳。男の子だったらしい」

「そう。それはお気の毒ね」

 美波は眉間にしわを寄せる。


「それ以来、隊長の奥さんは自暴自棄になり寝込んでしまった。隊長も仕事に追われ、次第にすれ違いが大きくなっていった」

「それで、別れたってこと?」

「中島君の話では、そうらしい」

 美波は束ねたホースを持ち上げると、じっと蒼真を見つめる。その視線にハッとして、蒼真は慌ててホースを受け取った。

「女性にとって、子供を守れなかったことは身を切られるような痛みなのよ。そういうときは、男性が女性を支えないと」

 蒼真はホースの束を重そうに運ぶ。


「そうかもしれないけど、隊長もつらかったと思うよ」

「でも、男ってそういうとき仕事を理由に逃げるでしょう? ずるいわ」

「ずるいって……」

「仕事を理由にされたら、何も言い返せないじゃない。そういえば蒼真君、この前温室の掃除サボったでしょう?」

「あれは、防衛隊で大事な用があって……」


「ほら、そうやって仕事を言い訳にする」

「いやいや、話がずれてきてるよ」

「そんなことないわ。根本的には同じことよ。そもそも男は……」

 美波の語りはその後も滔々と続いた。蒼真は、もしかしてこれも堀田雪の影響なのではないか、と思わずにはいられなかった。


 ×   ×   × 


「ディストラクションCを完成させるための人材を、幾人か選び出しました」

 簡素なR計画作戦室。長机を挟み、向かい合う安田参謀と三上の間に、資料が置かれている。

「うむ」

 安田参謀は机上の資料を手に取り、無造作にページをめくる。履歴書のような詳細な記述と顔写真が並んでいた。

「計四名。このメンバーを防衛隊の新兵器開発研究所へ招く必要がある」

「新兵器開発研究所?」

 三上は眉をひそめた。MECの科学班とは明らかに異なる施設である。


「新たな研究所を設立するのですか?」

「あゝ、防衛隊基地の外れに作った」

「それは……」

「皆まで言うな。この計画についてMEC科学班には知らせていない。極秘事項だ」

 三上は長いため息を吐いた。


「どうしても、阿久津蒼真をこの計画に加えたくないようですね」

「君の想像に任せる」

 安田参謀は資料をぽんと長机に放る。

「とにかく、協力者を基地へ招かねばならない」

 三上は怪訝な表情を浮かべながら安田参謀を睨んだ。

「彼らにはすでに打診したのですか?」

「いや」

「……?」

 三上はその言葉の意味を測りかねていた。しかしふとある考えが脳裏をよぎる。険しい顔つきで問いかけた。


「まさか、誘拐するつもりですか?」

 安田参謀は薄く笑みを浮かべる。

「人聞きが悪いな。単に了承を得ずに計画へ参加してもらうだけだ」

「それを誘拐というのでは?」

「まあ、言葉の定義などどうでもいい。心配するな。君に彼らをここへ連れてこいと言っているわけではない」

「では、だれが?」

「防衛隊の機密部隊が動いている」

 機密部隊、政治的なテロへの暗殺も辞さない特殊部隊。そんな組織を動かしてまで、この計画を遂行するのか。三上の背筋が冷たくなった。


「説明すれば彼らも協力してくれるさ。人類を救う計画なのだから」

「それなら、正式なオファーを出せばいいのでは?」

「情報が漏れるかもしれない。市民に不安やパニックを与えぬためにも、この計画は極秘でなければならない」

 安田参謀は自らを納得させるように二度頷いた。

「では、私になにをせよと?」

「三上隊員。君には、招いた協力者の監視をお願いしたい」

「監視?」

 三上は怪訝な表情をさらに強めた。


「彼らには研究所から出てもらっては困る」

「つまり、監禁の見張り役ということですか?」

 三上は鋭い眼差しで安田参謀を捉えた。しかし、安田は視線をそらし、答えない。

「ゆえに、しばらく研究所に常駐してもらう」

「それではMECの任務に支障をきたします」


「やむを得ん。吉野隊長には君が機密業務に従事する旨を伝えておく」

 三上はなおも安田参謀を睨み続けた。しかし、参謀は決して視線を合わせようとしない。彼の意見を封じ、孤立させる、その意図を三上は感じ取った。

 ふっと息を吐く。これ以上何を言っても、この場で覆ることはないだろう。その無力感が、ため息ににじんでいた。仕方なく、机上の資料に手を伸ばす。そこには協力者の履歴が記されていた。


 一枚目、北海国際大学・鉱物学研究室、多田教授。

 二枚目、南西大学・ミサイル工学研究室、矢名教授。

 三枚目、○○会社・ロボット工学専攻、倉田博士。

 そして四枚目——。そのページをめくった瞬間、三上の目が見開かれた。


「神山さとみ……」

 元東阪大学・生物物理学専攻、神山さとみ。そう、蒼真の研究室の教授、神山教授の妻、その名がそこに刻まれていた。


 ×   ×   × 


 MECの作戦室。淡いモニターの光が隊長席を照らし、静寂の中に吉野の思考だけが浮かび上がる。

 昨日の出来事が脳裏をよぎる。雪と久しぶりに言葉を交わした。それがどれほどの時間ぶりか。三年前、離婚が決まったとき、彼女が別れを切り出した、あの最後の会話以来。

 それは鈴鹿アキ隊員がテレビスタッフと打ち合わせる直前、応接室の前で偶然、雪と出くわした。互いに目が合い、どちらともなく足を止める。


「お久しぶりです」

 最初に声をかけたのは雪だった。思いがけないことだった。彼女はもう、自分とは話すつもりすらないと吉野は思っていた。

「久しぶり」

 平静を装うように応じる。

「この度は取材に応じていただいて、ありがとうございます」

「いや、防衛隊としてもMECとしても広報は必要だから」

 無難な返答だった。言葉を選びかねる吉野の心の裏返しでもあった。雪はそんな彼を見て、くすっと笑う。


「相変わらず、固いわね」

「えっ」

 思わず口元が緩む。

「元気そうで何よりだよ」

「ありがとう」

 雪の笑顔は、あの頃と変わらない。けれども、その笑顔の裏に、吉野はかつての痛みを感じずにはいられなかった。


 五年前——息子の蓮が病に倒れたあの日。雪は半狂乱になっていた。

「私のせいだ」

 泣き叫ぶ彼女の姿は、今も記憶に焼き付いている。

 雪は仕事を辞めた。夢見ていた職業、努力を重ねて築いてきたキャリアを捨て、病の蓮にすべてを捧げようと決意した。彼女の完璧主義な性格は、時に吉野には危うく映った。あまりに強く、折れることがないように思えた。しかし根っからの子供好きな彼女の覚悟は、吉野の想像を超えていた。


 それでも病は一向に快方へ向かわなかった。医師の診断は非情だった。先天性の病、どんな治療も効果はない。

 雪は「頑張る」を通り越し、「必死」という言葉そのままに、昼も夜もなく蓮の看病を続けた。

 しかし神はその願いを聞き届けることはなかった。蓮は、五歳の誕生日を迎えることなく、天へと旅立った。


「あんなに頑張ったんだ。悔いはないだろう。蓮だって天国からママに感謝してるよ、きっと」

 吉野は蓮の亡骸を前に、震える声でそう言った。しかし雪は鋭い視線を向ける。

「蓮は、私の命だったの。蓮を失って、私はなにを希望に生きればいいの? 教えて。なにがあるというの?」

 その問いに吉野は言葉を失った。蓮は吉野にとってもかけがえのない存在だった。生まれたばかりの小さな体を腕に抱いたとき。彼を見つめると笑いながらハイハイで寄ってきたあの日。外で遊び、仕事の疲れが癒された瞬間。愛おしい寝顔に、すべてを忘れた夜。


 どの記憶を辿っても、今ここに蓮がいないという事実が心を締め付けた。

 その後、雪は部屋に閉じこもるようになった。仕事も家事も手に付かず、部屋の扉の向こうではすすり泣く声が聞こえ続けた。たまに姿を見せても、その顔には魂の光が失われていた。

 吉野は雪を気遣いながらも、昇進したばかりの職務が忙しく、家へ戻る時間が限られていた。それでも、彼女のそばにいようと努力を重ねた。しかしその思いは雪には届かなかった。


 そして、あの日——。

「別れましょう。それがお互いのためだと思うの」

 雪はそう言った。彼女の顔には、どこか安堵したような表情が宿っていた。

「俺では君を支えられない——そういうことか?」

「違うの」

 雪は視線をそらす。


「あなたと一緒にいると、自分を責めてしまう。あなたを愛してる。でも、蓮を死なせた罪の意識が拭えないの」

「俺のせい? 俺は少しも雪を責めちゃいないのに」

「そう……あなたは私を責めない。でも、それが逆につらいの」

「どういう意味だ?」

「生きがいだった蓮を失って、私は生きる意味を失った。でも、あなたはそんな私を支えてくれた。でも私はあなたを支えられない。あなたが支えてくれているのに」

 雪の瞳から、一粒の涙がこぼれた。その瞬間、吉野は絶句する。守るべきはずの雪を、俺は苦しめていたのだろうか?


「これ以上、あなたに甘えられない。だからお願い。私を助けると思って」

 それが最後の言葉だった。そして二人は離婚届に署名し、それぞれの生活へと歩み出した。

 目の前の雪はあの頃の雪とは違っていた。蓮の死を受け入れたのだろうか。どれほど酷な過程を経て、彼女はここまで辿り着いたのか。そう思うと、吉野の胸に再び痛みが走る。


「来週のインタビュー、見に来てくださいね」

 雪が笑顔で語る。吉野は安堵と痛みの交錯する中、微かに微笑んだ。

「ああ。元気になった君を、見に行くよ」

 もし本当に彼女が、自分と別れて元気になったのなら、後悔はない。隊長席で静かに目を閉じる。後悔はない、悔いは……


 ×   ×   × 


「蓮くん、おうちに着いたよ」

 雪は玄関の扉を閉める前に、廊下の明かりを灯した。柔らかな光が空間を包み、彼女の前に影を落とす。それはまるでだれかがそこに佇んでいるような気配を帯びていた。

 ハイヒールを脱ぎ、部屋へと向かう。そして手に持ったかばんの中にいる小さな人形へそっと声をかけた。


「蓮くん、疲れたでしょ。ゆっくりしたら、ご飯にしましょうね」

 部屋の照明を点けると、隅にはベビーベッドが静かに置かれている。そこにはクマやイヌのぬいぐるみが並び、寄り添うように横たわっていた。雪は人形をそっとそのベッドへ寝かせる。

「おとなしく待っててね」

 ベッドから離れ、服を着替え、化粧を落とす。そしてエプロンを身に着け台所へと向かう。冷蔵庫から取り出したハンバーグの具を手際よくフライパンで焼き始める。ジュゥッと跳ねる油の音が広がり、香ばしい匂いが部屋中を満たした。


「蓮くん、今日はハンバーグよ。蓮くん、ハンバーグ好きでしょう?」

 台所から雪はベビーベッドへと語りかける。当然、返答はない。

 ポテトとニンジンの盛り合わせも準備し、丁寧に皿へと盛り付ける。そして二枚の皿にハンバーグを添え、食卓へ並べた。

 雪はベビーベッドに向かい、人形を優しく抱き上げる。そして子供用の椅子へと座らせた。


「いただきます」

 微笑みながら、箸を手に取る。

「いただきましゅ」

 そう、人形が応えた気がした。

「おいしいね」

「うん、おいしい」

 穏やかな母と子の会話が続く。第三者から見れば、ただの独り言。しかし雪の目には蓮が確かにそこにいた。彼は生きている。だれが何と言おうとそこにいるのだ。

 食事を終え、雪は人形の前の食事を片付ける。そしてそれをゴミ箱へと捨てた。食器を洗い終えると、再び人形のもとへ向かう。


「蓮くん、今日は疲れたでしょう?」

 そっと抱きかかえた雪が優しく囁く。

「さぁ、ねんねしましょうね」

 ベビーベッドへと運び、そっと寝かせる。毛布をかけ、軽く撫でた。

「おやすみ、蓮くん」

「おやすみなさい、ママ」


 そう、人形が応えた気がした。雪は微笑みながら、ソファへと身を沈める。そして目を閉じた。

 この生活がいつ始まったのか。思い返せば、吉野と別れた直後だった。

 蓮を死なせたのは私のせい、その痛みを抱えたまま、ただ彷徨うように歩いていたある日、ふとデパートのおもちゃ売り場の前を通りかかった。


「ママ、ママ、僕、ここにいるよ」

 どこからかそんな声が聞こえた気がした。思わず声のする方向へ目を向ける。そこには、腕に抱くのにちょうどいい大きさの人形が並んでいた。雪は足を止め、人形に近づく。

 それは小さな男の子の人形だった。どこか泣きそうな瞳が、雪の心を捕らえて離さない。

「蓮?」

 雪はそっとその顔を覗き込む。

「僕だよ」

 蓮! 思わず雪は人形を抱き上げた。胸の奥が震える。

 この子は息子だ。死んでしまったはずの蓮。その魂が私を呼んでいる。そうとしか思えなかった。

 その日のうちに雪は人形を家へ連れ帰った。それまで彼女は蓮の写真を見ては、ただ泣くだけの日々を送っていた。


 蓮と歩いた道。一緒に遊んだ公園。どこを見ても、何を思い出しても、胸の奥から込み上げてくる悲しみ。しかしこの人形を手にした瞬間から彼女は変わった。蓮の思い出に蓋をすることができた。彼女は目の前の蓮を見つめることで、生きていけるようになった。

 蓮はそばにいる。そう思うだけで涙は流れなくなった。心の痛みは消えた。


 それがいつのことだったか。ある夜、仕事から帰ってきた雪は、ふと人形の胸に輝く赤い石があることに気づく。それは、微かに、いや、確かに光を放っていた。

「蓮くん、どうしたの、その石?」

 雪が問いかけたその瞬間、人形が答えた。

「ママ…… お家にいるの、寂しい」

 それは心の中に響く声ではなかった。確かに耳に届く声だった。

 雪は息を呑んだ。これまでの会話は雪自身の頭の中にある独り言だと、薄々気づいていた。だが、今は違う。目の前の蓮が雪に語りかけている。


「ママのそばにいつもいたい。お家にいるのイヤ!」

「蓮くん、我がまま言わないの。ママが仕事のときは、お家でお留守番して」

「イヤ! ママのそばがいい」

 雪の瞳に熱いものが滲む。心が疼く。自分も本当は蓮と離れたくない。

「分かったわ、蓮くん。ママのお仕事現場に付いて来る?」

「うん!」

 人形が元気よく応えた。それからだった。雪が仕事場に人形を持ち込むようになったのは。人形がそばにいることで彼女は以前よりもずっと仕事に集中できるようになった。


 近頃、レギュラー番組が増えたのも——そのせいかもしれない。防衛隊の取材、

 以前なら、決して受ける気に離れなかった。なぜなら、そこには元夫、吉野がいるから。彼に会えば、またあの痛みが蘇る。だがそれを払拭できるのはこの人形がそばにいるから。この人形が彼女に勇気をくれるから。

 雪はそっと、ベビーベッドを覗き込む。人形は、静かに目を閉じていた。ただ胸につけた赤い石だけが、暗闇の中で微かに光を放っていた。


 ×   ×   × 


「で、基本的には男性中心の職場で、どのようにお仕事をされているんですか?」

 雪が静かに問いかけた。

 防衛隊応接室は、いつもとは異なる雰囲気を帯びている。強い照明が空間を白々と染め、大きなマイクがテーブル脇に並ぶ。数台のカメラ、ストップウォッチを見つめる女性、台本を握るスタッフ、限られた広さの室内に人が密集し、その視線のすべてが一点へと向かっていた。


 その焦点、いつもの応接室のテーブルとフカフカの来客用椅子が取り払われた空間の中央、向かい合って座る二人の人物。

 鈴鹿アキと堀田雪。二人の周囲には適度なスペースが確保されていたが、スタッフの立つエリアは窮屈なほど密集し、さらにその外、廊下へと続く位置に蒼真と吉野隊長が佇んでいる。

 二人の視界からは、アキと雪の姿はほとんど見えない。ただ彼女たちの声だけが、遠く響いていた。


「この仕事に、性別の境界はないと思っています。必要なのは、市民を守る強い意志、それだけです」

「なるほど」

 雪は大きく頷いた。

 アキの言葉は、迷いなく一直線だった。蒼真はスタッフの前に置かれたモニターへと視線を向ける。小さな画面にはアキと雪の姿が映っていた。そこにあるアキの表情に笑みはない。瞳は鋭く、映像越しでも、その揺るぎない信念が伝わってくる。

 この姿を見た者は彼女をひたむきな戦士として受け取るだろう、そう感じた。

 幾つかの仕事に関する質問が続く。アキは変わらぬ眼光で雪の問いに冷静に応じていた。


 そのとき、雪の声色がわずかに変わる。

「鈴鹿さんには、男の子のお子さんがいらっしゃると聞きましたが」

「はい、五歳になります」

「普段はお仕事との両立を、どのようになさっていますか?」

「母に面倒を見てもらっています」

「男の子は、やんちゃで大変でしょう?」

 その瞬間、アキの表情がわずかに緩んだ。

 そして——雪もまた、同じように表情を緩めた。

 その微かな笑みを見たとき、不意に蒼真の胸に違和感が湧き起こる。

 蒼真の心に何かが引っかかる。雪の亡くなった子供のことを考えれば、この柔らかな微笑は? 結びつかない。


「そうですね。でも比較的、私の前ではいい子なんです。きっと、私に心配をかけないよう気を遣っているのでしょう」

「そうですか。いい子ですね」

 その言葉のあと、雪の視線がスタッフの背後へと向けられる。その先には彼女のかばん。蒼真も反射的にその方向へと目をやった。それは以前見たものと同じあの人形の顔が覗いていたかばん。

 だが今日は違う。人形の姿が、ない。

 蒼真の胸の奥で嫌な予感が脈打つ。それが何に起因するのか、はっきりとは分からない。しかし理屈ではなく、直感が告げている。この違和感は何か、よからぬ兆しなのではないか。


 ×   ×   × 


 防衛隊の長い廊下。そこに小さな影がゆっくりと動いていた。今日はテレビ取材があるため、普段なら人の往来が絶えないはずだった。しかし今、この瞬間だけは、不気味なほどの静寂が広がっている。

 影はゆっくりと科学班の実験室へと向かう。その胸元で赤い光が異様なまでに輝き、黒い影との対比を際立たせている。


 廊下の反対側から、一人の一般隊員が歩いてきた。ふと、その隊員の視界に小さな影が映る。瞬間、足が止まる。目を凝らし、そして、彼は青ざめた。人形が、歩いている。

「なんで、人形が歩く!?」

 隊員は震える手を抑えながら一歩踏み出した。人形が顔を上げる。そして笑った。

「うわぁ!」

 ぞっとした隊員が、身を翻そうとする。その瞬間、闇に閃光が走る。

「ぎゃ……!」

 悲鳴をあげる間もなく、隊員はその場に崩れ落ちた。


 人形は何事もなかったかのように歩を進め、やがて実験室の扉の前に立つ。

 その瞳が、再び光を放った。次の瞬間、扉がひとりでに開いた。静寂の実験室へと、人形はゆっくりと足を踏み入れる。

 向かう先、そこにはネイビエクスニウムを保管した金庫がある。

 人形が室内の中央まで進んだ、そのとき、複数の科学班のメンバーが部屋へと入ってきた。

「……なんだ、この人形?」

 目の前の異形に、だれかが呟く。人形が振り返る。再び人形が顔を上げ、そして笑った。

 次の瞬間、その瞳が閃いた。怪光線が炸裂し、鋼鉄の試験設備が爆発する。衝撃が走る。部屋のガラスが粉々に砕け、薬品が飛び散る。実験室に炎が燃え上がった。


「うわっ!」

 ひとりの隊員が蹲る。

「吉野隊長と蒼真隊員に連絡を! 早く!」

 後方の隊員が叫ぶ。その声が、基地内に鳴り響く火災警報と混じり合う。炎と煙が渦巻き、実験室の内部への道を阻む。

 その中、金庫の扉がゆっくりと開いた。中から赤い石が浮かび上がる。ゆらりと宙に漂いながら、人形の方へと吸い寄せられる。そしてするりと、人形のポケットへと消えた。


 複数の隊員が消火器を手にし、燃え上がる炎へと向ける。白煙が立ち昇る。火災の黒煙と絡み合いながら、視界を覆っていく。

 やがて、炎は静まった。そして煙が徐々に薄らいでいく。実験室の中を見渡す。しかしそこに、人形の姿はなかった。


 ×   ×   × 


「避難してください!」

 鋭い声が応接室に響いた。

 テレビ取材が続く中、一人の隊員が駆け込んでくる。その切迫した叫びが空気を一変させ、騒然とするスタッフたち。その中で、雪は慌てて自分のかばんへと駆け寄り、震える手で抱え込む。そして中を覗き込んだ。


「いない。蓮くんがいない!」

 その瞬間、雪の目の色が変わる。

「蓮くん…… 蓮くんはどこ!? 探して! 蓮くんを探して!!」

 彼女の叫びがスタッフたちのざわめきをかき消し、廊下へまで響き渡る。

 蒼真はその声に違和感を超えた殺気を感じた。それは隣に立つ吉野も同じだっただろう。彼の表情は曇り、恐怖に似た硬直が見て取れた。

 雪は半狂乱となり、近くのスタッフにしがみつく。スタッフも困惑しながら、必死に彼女を抑え込もうとする。


「雪さん、早く逃げましょう!」

「いや、蓮くん、蓮くんにもしものことがあったら……」

 雪は力尽きるように、その場に崩れ落ちた。吉野が彼女のもとへ向かおうとした、そのとき。MECシーバーがけたたましく鳴り響く。

「こちら吉野」

 返答すると、通信の向こうから聞こえたのは三上の声だった。


「隊長、科学班の実験室が爆破されました。被害は大きくありませんが、ネイビエクスニウムが盗まれました」

「なに!?」

「犯人は人形です。男の子の姿をした、四十センチほどの……」

 吉野の動きが止まる。蒼真は雪へと視線を向ける。

 雪のかばんには以前、確かに人形が入っていた。だが、今ここにはない。それらの事実を繋ぎ合わせると、まさか……


「隊長! 科学班の方は僕が向かいます。隊長は雪さんのところへ」

「いや、この非常事態、私が指揮を取らねば」

 そのときアキが二人のもとへ駆け寄ってきた。

「隊長、大丈夫です。私と蒼真君でネイビエクスニウムを取り戻します」

「さあ、隊長、雪さんのところへ!」

 蒼真が吉野の背を押し、アキと目を合わせ、同時に頷く。二人はそのまま応接室を飛び出していった。

 吉野は一瞬、迷いの色を滲ませたが、すぐに振り返り雪のもとへと歩み寄る。


「雪……しっかりしろ」

 だれもいなくなった応接室の中、吉野は雪を抱きかかえた。

「蓮くん…… 私の、蓮くん……」

 彼は思った。雪はまだ完全には戻っていない。蓮を失った喪失感をいまだ払拭できずにいるのだ、と。

「しっかりしろ。蓮は、死んだんだ!」

「違う! 蓮は死んでない。生きてる!」

 雪は這うようにして、部屋の外へ向かおうとする。吉野は彼女をしっかりと抱き止めた。そのとき。部屋の隅で、小さな影が動いた。そして、静かに雪へと近づいてくる。


「蓮くん!」

 雪の瞳が潤む。人形の胸に赤い光が輝いていた。それだけではない。ポケットからも、赤い光がじわりと漏れ出している。

「雪、しっかりしろ。あれは人形だ。しかも、宇宙人に操られている」

「違う、あれは蓮よ。私と、あなたの、子供!」

 吉野が腰のMECガンを抜き銃口を人形へと向ける。

「いや!やめて!!」

 雪が慌てて飛び出し、人形と吉野の間に割って入る。


「雪、どきなさい!」

「いや! この子を撃たないで!」

 吉野は銃口を向けたまま、動くことができない。

「雪! しっかりするんだ。蓮は、蓮は、生きている!」

「え、」

「俺と、お前の心の中で、蓮は、ずっと生き続けている!」

「!」

 その言葉が、雪の心の蓋を開けた。川沿いの道を一緒に歩いた記憶。蓮が初めて駆け出した、公園の青々とした芝生。壁に描かれた、幼い筆跡の落書き。抱きしめながら語り疲れ、眠ってしまった小さな寝顔。


 すべての記憶が鮮やかに脳裏へ蘇る。雪の身体から、力が抜けていく。

 その瞬間、人形が宙に浮いた。そして窓の方へ向かう。逃げようとしている。

「逃がすか!」

 吉野隊長がMECガンを撃つ。

「いやぁぁ!」

 雪の悲鳴が室内に響いた。

 人形は床へと落ちる。ポケットから赤い石が転がり出る。吉野隊長はすかさずその石を拾い上げた。


「隊長!」

 蒼真が部屋へと飛び込んでくる。床の人形が、突如赤い光に包まれた。

「危ない!」

 人形が巨大化していく。部屋の壁が、天井が崩れ始めた。

「隊長、雪さんを連れて避難してください!」

「蒼真君は?」

「ここで人形を足止めします!」

「しかし君にそんな危険なことを……」

「そんなことを言っている場合じゃありません! 早く、雪さんを安全なところへ!」

 吉野が一瞬躊躇する。雪は呆然と巨大化した蓮の姿を見上げている。


「早く!」

「……すまん」

 吉野は力の抜けきった雪を抱え、部屋を飛び出した。蒼真は二人の姿が消えたことを確認し、ゆっくりと左手を掲げる。


 防衛隊基地は富士山麓の広大な平原に佇んでいる。その広大な大地に不気味に立ちはだかる影。それは、蓮の優しげな顔とは似ても似つかぬ、鬼のような形相をした怪獣ドールテウム。

 その前に立つのはネイビージャイアント。ドールテウムが不敵な笑みを浮かべる。そして髪を振り乱しながら突進してくる!

 ネイビーが勢いに押され地面へと吹き飛ばされる。横たわるネイビーを見下ろしながら、ドールテウムは笑う。


 その瞳が光る。閃光が走る! 怪光線が発射された!

 ネイビーの周囲が、炎に包まれる。ドールテウムの目から、休むことなく怪光線が撃ち続けられる。ネイビーは直撃を避けながらも執拗な攻撃を受け続ける。

 そのとき、ドールテウムの背後から、銀色の光が近づいてきた。それはスカイタイガー、田所機、そして三浦機であった。


 背後への警戒を怠ったドールテウムへミサイルが撃ち込まれる。不意を突かれたドールテウムが前へと倒れ込む。その隙に、ネイビーが空へと飛び立った。そしてドールテウムの背中へと馬乗りになり何度も拳を叩き込む。

 しかし人形の皮膚は驚くほど硬い。この怪獣もネイビエクスニウムを纏っているに違いない。

 ネイビーが右手を掲げた。そこには金色に輝くサーベル、その剣を振り下ろそうとしたそのとき人形の首が百八十度回転する。

 ネイビーと目が合うドールテウム。その瞳が光る。

 怪光線がネイビーを直撃、彼が後方へと倒れ込む。サーベルが地面へと転がった。ドールテウムはそのままネイビーの上へ。それは馬乗りというよりも、ただ巨大な影が覆いかぶさるかのような圧力。


「……重い……」

 ネイビーは、身動きを封じられる。このまま怪光線を受ければひとたまりもない。サーベルが、届かない!

 怯むネイビー。その上空から、田所機がドールテウムの頭部へミサイルを撃ち込む。ドールテウムが怒り、空を見上げる。その隙をネイビーは逃がさなかった。

 精一杯、伸ばした手がサーベルを掴む。振り下ろされる黄金の剣。ドールテウムの首が跳ね飛ばされる。

 宙に浮かんだ首がそのまま、怪光線をネイビーへと向ける。動かなくなった胴体から逃れたネイビーが、閃光を避ける。


 そのまま立ち上がり右手から赤い光線を発射した。揺れ動くドールテウムの首、

 その間にネイビーはドールテウムの胴体へと接近する。

 そして胸の赤い石を取り外した。それを首へと投げつける。怯むドールテウムの首、そこへネイビーの左手から青い光線が放たれる。

 光線は、赤い石を捕らえええた。赤い石が粉々に砕け散る。その瞬間、首が地面へと落ちた。そして胴体と共にゆっくりと消えていった。


 ×   ×   × 


「お世話になりました」

 夕刻の防衛隊基地のエントランス。赤く柔らかな夕陽が射し込み、長く伸びた影が足元を包む。

 雪はアキと蒼真に深々と頭を下げた。その背後、吉野隊長の視線が静かに雪を捉えている。

 周囲ではテレビスタッフたちが慌ただしく撤収作業を進めていた。彼らの表情には疲労がにじみ、早く帰途につきたい思いが手に取るように伝わる。


「基地に危険物を持ち込んでしまい、本当に申し訳ありません」

 雪は再び深く頭を下げた。

「いえ、雪さんのせいではありませんよ。我々も、あの人形が危険物だとは思いませんでした。それより雪さんの気持ちに付け込んだ宇宙人の方が卑劣です」

 蒼真の言葉に雪が神妙な顔を見せる。


「そう言っていただけると助かります。本当にすみませんでした」

 みたび彼女は頭を下げた。

「さあ、鈴鹿さん、僕たちも行きましょうか」

「そうね」

 アキと蒼真は軽く頷き、二人は振り返る。吉野隊長の姿が目に入る。しかし彼は何も言わず、ただ立ち尽くしていた。その表情は相変わらず硬いままだった。

 その場に吉野を残しアキと蒼真は立ち去る。スタッフたちも次々と撤収し、エントランスには二人だけが残された。


 夕陽が沈みゆく光景の中、吉野はゆっくりと雪へ歩み寄る。どこかぎこちなく、それでも静かに話し出した。

「すまない。君の気持ちを考えず、あの人形を撃ってしまった」

 吉野の声は低く、重くそして、自戒の念が滲んでいた。

「こちらこそ。あの人形を蓮だと思い込んでいた私が愚かだったわ」

 雪は微笑んだ。その笑顔には偽りの色はなかった。

「銃を向けたとき、俺も一瞬、躊躇したんだ。君が言う通り、俺にもあの人形が蓮に見えた」

「え?」

「でも、思ったんだ。蓮は俺と君の心の中で生き続けている。だって、蓮の笑顔は忘れられない。それだけじゃない、彼の泣き顔、寝顔、忘れようとしても忘れられない。だからいつまでも心が痛いんだって」

 雪は、ゆっくりと頷いた。


「そうね…… その痛みから、私は逃げていた。だから、宇宙人にその心の隙を突かれたのかも」

 雪の視線が宙をさまよう。

「だれだって痛みからは逃れたい。でも逃げたら、蓮はいなくなる。そう思ったから、とっさにあの言葉が出たんだ」

 今まで宙を向いていた雪の瞳が、まっすぐ吉野を捉える。

「私も、あなたの言葉で我に返った気がする」

 吉野は深く頷いた。


「そう、蓮は私の中で生き続けている。いつまでも、これからも」

 雪は微笑む。その笑顔に、凍りついていた吉野の心が溶けていく。もう彼女は迷いを払った。その確信が、吉野の心を温かくした。

「ありがとう。そのことに、あなたが気づかせてくれた」

 雪の笑顔は蓮の母だった頃の、あの優しさを宿していた。吉野の胸に安堵する気持ちが広がる。


「じゃあ、またどこかで」

「あゝ、また、いつか」

 雪は吉野の横を通り、玄関口へと歩いていく。吉野はその背中を見送る。

 そして雪が振り返った。沈みゆく夕陽に包まれながら微笑みを浮かべ彼女はこう言った。

「きっとまた。蓮が、二人を会わせてくれるわ。きっと……」

 吉野はゆっくり頷いた。

《予告》鈴鹿アキの様子がおかしい、そのことに気付き始める隊員達、一方、蒼真は大介の姿が見えないことに気付く。そんな中、アキは独り、廃校になった小学校へ。そこにいたのは。次回ネイビージャイアント「命に代えても」お楽しみに。


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