第二十話 真夏の花
♪小さな生命の声を聞く
せまる不思議の黒い影
涙の海が怒るとき
枯れた大地が怒るとき
終わる果てなき戦いに
誰かの平和を守るため
青い光を輝かせ
ネイビー、ネイビー、ネイビー
戦えネイビージャイアント
『今日も各地で観測史上最も高い気温になる予想になっています』
蝉がまるで悲鳴をあげているように鳴いている。その刺すような鳴き声は暑さの重みをさらに増幅させ、耳を容赦なく攻め立ててくる。朝のニュースキャスターは今年の最高気温が再び塗り替えられるであろうと予報を告げ、その言葉が暑さへの諦念を一層深める。陽射しは容赦なく地上に降り注ぎ、店先に並ぶ花々の色を鮮明に映し出しながら、その命の儚さすらも強調しているかのようだ。
「今日も暑いね」
店主の紗香が彩に声を掛けた。
「そうね」
彩が商品の水やりを行う手を止めた。その視線が紗香に向けられる。彼女の化粧気のない素顔が陽射しに浮き上がり、額を流れる一筋の汗が暑さを現していた。
「こうも暑いと花も育ちが悪いね」
紗香は軽く首を振った。その様子を見た彩が店内をぐるりと見渡す。やはりいつもより花の数が少ないことに気づく。
「入荷が減ってるのよ。この暑さで」
「日照りが続いてるからね」
彩も肩をすくめる。
「人も出歩かないから、売り上げも減って、ほんと、踏んだり蹴ったりよ」
紗香は軽く息を吐きながら、「よっこらせ」と足元の大きな鉢を持ち上げた。鉢の中には人の背丈にも及ぶ立派な幹がそびえ、その先には深紅の花が堂々と咲き誇っていた。その存在感に彩の視線は釘付けになる。これほど鮮烈な花を彼女は見たことがなかった。
「紗香、その大きな花は?」
「あゝ、これ」
重さに耐えきれなかったのか、紗香は植木鉢を床にそっと降ろした。
「これはね、この先の病院から注文があったの」
「病院から?」
「そう、なんでも熱帯地方の植物なんだって」
「熱帯?」
彩が首を傾げる。
「どうして病院に熱帯性の花なんて必要なんだろう」
「うーん、よく分からない。なんかの薬に使うとか」
「そんな話、聞いたことない」
彩が首を横に振る。
「そうね、彩は薬のプロだからね。でも、もしかしたら新薬とかできるかもよ」
「えっー。ないと思うよ」
彼女がさらに首を強く振る。
「そっか、なら観賞用だね」
「観賞用?」
彩はじっとその花に目を凝らした。確かにその花は迫力のある大きさを誇っていたが、鮮やかな赤い花弁に散らばる白い斑点がどこか毒々しく、不気味な印象を与える。心が和むどころか、むしろぞわりとする不快感が先に立つ。こんな花を鑑賞する人が果たしているのだろうか、そんな思いが自然と頭をよぎった。
「まぁいいじゃん。こんな高額な花、注文もする人もあまりいないし。売上減のこのご時世、こんな注文ありがたいと思わないと」
そう言うやいなや、紗香は「よっこいしょ」と軽く気合いを入れ、再び植木鉢を持ち上げた。
「彩、店先の軽トラックにこれ積むから手伝って」
「分かった」
彩が店の扉を押し開ける。外の空気が熱の塊のように押し寄せてきた。その先では紗香が慎重な足取りで大きな鉢を店の外へ運び出している。
「世の中には不思議な人もいるもんだ」
彩がそう感じているとき、外から紗香の声が、
「おーい、荷台には一人で詰めないよ」
「あっ、ごめん。すぐ行く」
彩は足早に店を飛び出していった。
残された店内ではテレビが天気予報を伝え続けている。
『今日の関東地方は、○○市で気温が45℃を越える予報が出ています。すさまじい暑さです。皆さん、危険なので不要不急の用がない限り外出は控えてください』
× × ×
「夏は暑いもの、夏は暑いもの」
田所の声がどこかお経のような低く一定の調子で格納庫内に響いている。防衛隊基地のスカイタイガーの格納庫は広々とした空間を誇り、巨大なスカイタイガーの機体が整然と並んでいる。だが、その空間の広さが暑さを和らげることはなく、むしろ風が通らない分、外よりも蒸し暑いと感じられる。
「田所さん、汗、半端ないですよ。暑いんでしょ」
蒼真が声を掛ける。
「うるさいなぁ、心頭滅却すれば火もまた涼し、って言うだろう。暑いと言うから暑いんだ」
いつもどこかのんびりしている田所が、今日は珍しく苛立ちを隠せないでいる。
「夏は暑いもの、夏は暑いもの」
と、繰り返して格納庫を出ていく。
「田所は暑いのが苦手なんだ」
芦名がどこかいたずらっぽい笑みを浮かべながら、蒼真の背後から軽やかな足取りで近づいてきた。
「ここは冷房がないですからね。田所さんでなくてもこの暑さは厳しいですよ」
蒼真の視線が近くに置かれた温度計を見る。そこには針が無慈悲にも40の数字を指している。
「あまりここにいると熱中症になりますね」
「確かに。機体整備もきつくなるな」
芦名が手元のファイルを開くと、紙の上に一滴の汗が落ちて染みを作った。
「今年の夏は異様に暑いですからね。どうも日本だけじゃなくて、世界中熱波でやられているみたいです。アメリカでは森林火災、ヨーロッパは雨が降らなくて水不足、アジアで逆に豪雨で川が氾濫してるみたいです」
「ふぅ、これも人間が引き起こした自然破壊の結果なのかもしれないな」
芦名はファイルを閉じる。そして蒼真が見ている温度計を覗き込む。
「そうですね、自然なら何万年もかかって起こる気温変化が数年で起きてしまう。すべては人間の活動がもたらした結果。それで地球環境を変化させている」
「この環境変化で人間以外の生命をも危険にさらしている」
「でも生命はそんなヤワではないですよ」
蒼真が首を横に振る。
「必ず周りの環境に適応する種が現れます。我々を含む哺乳類では難しいですけど、昆虫や海の中の無脊椎動物、もっと言えば微生物なんかは適応能力が高いです」
「そうか、人間は適応できそうもないがな」
芦名が手に持った資料を軽く振り、うちわ代わりにして暑さをしのいでいる。
「自ら招いた変化で、自ら滅んでいく」
「僕はそんなに悲観していないですよ」
「ほう」
「人間には知恵がある。だからエアコンとか狭い空間の環境を変えてきた。でもそれが原因で地球を温暖化させているとも言えますが、そのこともきっと知恵を持って解決できると思ってます」
「人間の知恵か」
「はい、そのために僕たち学者がいるんです」
「なるほど」
芦名は相変わらずファイルをうちわ代わりに仰いでいる。その隣に立った蒼真は、仰いだ風のおこぼれを受けようとしていた。
「これも知恵です」
「なるほど」
芦名が笑みを浮かべながら持っていたファイルを蒼真に向けて仰いだ。
「蒼真君のような優秀な学者さんにはがんばってもらわないとな」
「がんばります」
蒼真も笑みがこぼれる。
「人間の知恵が今を乗り越える。自分も信じてみるよ」
「はい!」
蒼真が元気よく返事をする。芦名はファイルを仰ぐのをやめ、一機のスカイタイガーの搭乗口へ向かう。そしてポケットからMECシーバーを取り出した。
「芦名機、パトロールに向かいます」
格納庫に赤い警告灯が点滅し空間全体に緊張感が漂う。スカイタイガーの発進準備が着々と進み、機体が微かに振動する気配すら感じられる。誘導員が一歩前に進み出てコックピットに腰を据えた芦名へと的確な指示を送る。
「スカイタイガー、テイクオフレディー、ゲート、オープン」
滑走路へ向かってゆっくりと移動するスカイタイガーを目で追いながら蒼真は思う。
「そう、僕たちがこの世界を変えていかないといけない。自然を変化させることをしてしまった以上、その変化についていかないといけない。自分たちが生き残るために、自分たちを変えていかないといけない」
蒼真は遠ざかっていくスカイタイガーをじっと見送りながら、そう感じていた。
× × ×
「この前病院に届けたお花なんだけど」
今日も相変わらずの強い日差しの下、蝉の鳴き声がいつも以上に響いている。開店前の準備に追われる彩に紗香が声を掛けた。しかしその声は蝉の鳴き声にかき消され、一瞬何を言っているのか分からなかった。
「なに? お花がどうしたって?」
「ほら、この間院長に届けた赤い大きな花」
「あゝ、あれね」
「もうひとつ注文が来たのよ」
紗香が困惑気味の表情で答えた。
「どうしたの。高額の花なんだから売り上げが上がっていいじゃない」
「でも……」
紗香がさらに困惑する。
「どうしたの?」
「今度は彩一人で届けてほしいって連絡が来たの」
「えっ、私一人で?」
今度は彩が困惑する。
「まぁ、彩、美人だから先生に気に入られたのかもね」
紗香がニヤリと笑う。
「気に入られたぐらいならいいけど……」
彩が唇を尖らした。
「ここ最近、あの病院の看護婦さんと仲良くなったんだけど、院長、あまりよくないうわさがあるって」
「あゝ、私も聞いたことある。なんか気に入った女性に手をつける、泣いてる看護婦が結構いるって」
紗香が二度三度頷いた。
「奥さんが理事長の娘で、全然頭が上がらないらしいんだって。で、病院より、なんか植物の研究してるって聞いたよ」
「そうなんだ」
「あの花はその研究用だって」
「ふーん」
紗香が眉間に皴を寄せた。
「でも女癖が悪いんだったら彩を狙っても不思議じゃないね」
「え? やめてよ」
「最低でも私じゃないことは間違いなさそうね」
今度は紗香の口が尖る。
「でも、もし彩のこと気に入って、それで言ってきたんだったら今言ったこと全然可能性あるじゃん」
彩の眉がハの字になる。
「そう言えば、彩って、東京にいたときストーカ男に襲われたんじゃなかったっけ。男の人に怖い思いしたんなら行くの、嫌だよね。やっぱり断ろうか?」
ふと彩の脳裏に片岡孝之の表情が蘇った。その瞬間、彼女の身体を震わせた。
「やめとく?」
「うんうん。だって院長が私を狙っているって決まった訳じゃないし。そもそもその先生が何を考えているか分からないんだし、そうならとりあえず私が届けに行くよ」
「大丈夫?」
「うん。もし言い寄られでもしたらきっぱり断るし。大丈夫よ」
彩は微笑んだ。しかしその笑顔の裏にはもし片岡孝之のように襲われたらという不安が影を落としていた。紗香の前では平静を装っていたものの、心の奥底では不安が静かに渦巻いていた。あのとき、芦名が助けに来てくれた記憶が蘇る。しかし今はもう彼はいない。そう、自分から離れてしまったのだ。その事実を思い出すたび、不安はさらに深く心の中に広がっていった。
「とりあえず行ってくるね。お花は?」
「店の隅に、あゝ、あれよ」
紗香が指さすその先には以前よりもさらに大きな花をつけた植物が、不気味なまでに鮮やかな色彩を放ちながら堂々と鎮座していた。その巨大な花弁はまるで彩を睨みつけるかのように大きく開き、圧倒的な存在感を放っていた。
× × ×
「これはフラシアと言って、本当は北極圏に生息する小さな白い花をつける植物だったんだ」
院長の速水は白衣の袖を無造作にまくり上げると、彩が台車で運んできた鉢植えを力強く担ぎ上げ、部屋の隅に静かに置いた。その部屋には病院の院長室とは到底思えないほど所狭しと植物が並んでいる。まるで医者の部屋ではなく植物学者の研究室と見紛うばかりだった。
「北極圏の花がどうして南国でこんな大きな花になったんです?」
「環境変化に順応したんだよ。しかもこの植物は順応速度が速い」
速水は慎重に鉢植えの位置を調整していた。
「そうなんですね」
彩は鉢植えの位置に細心の注意を払う速水の姿を横目に見ながらそう答えた。
「この花を調べれば、環境が大きく変わった場合に生命がどう順応するのか、どうやれば早く順応できるのかが分かる」
速水は位置が定まると、一歩後ろに下がりその配置を改めて確認していた。
「君もこんな花からそんなことが分かるとは思ってもみなかったろう」
「はぁ」
彩が気のない返事をする。
「これが分かれば人間がどう環境変化に対応していけば良いのかのヒントがつかめるはず」
「はぁ」
彩が再び気のない返事をする。
「でも、本当は地球環境を変えないようにする方が先決では?」
彩のその言葉を受け、速水は初めて植物から目を離し、彼女の方を振り向いた。
「人がここまで繁栄しているのは自然環境を変えてきたからだ。だからこれからもそうしていくだろう、そうは思わないか」
速水が銀縁眼鏡の奥から彩を見つめる。その視線に気づいた彩は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「食物を得るために植物を育て、家畜と言う名の動物を飼う。暑さ寒さを防ぐために密閉性の高い建物を作り、交通のために川の流れを変え、挙げ句の果てに道路を舗装して自動車と言う乗り物で移動を楽にした。だから今、君は自動車で舗装された道を通ってここまでくることができた。そして外は命の危険があるほど暑いのにこの部屋は春のように快適な温度だ」
「はぁ」
「これからも人間は自然環境を作り変えていくだろう。ただ急速に作り変えるとその環境についていけないことが問題になる。例えば花粉症など第二次世界大戦後に住宅不足を解消するために多くの杉が植林された。それに加え急速に変化した清潔な環境でアレルギーが広がり花粉症が増えた。しかしその花粉症も薬でなんとかしようとしている。それと同じだよ」
「はぁ」
速水が熱く語れば語るほど、彩の心は冷めていった。
「ところで君、名前は?」
「えっ?」
彩が少しためらう。
「鳥居です」
「鳥居君か」
速水が彩を下から上へと舐めるように眺めた。彩が身震いする。
「君って製薬会社で働いてたんだって?」
「どうしてそれを」
彩の背にさらに冷たいものが。
「いやいや、看護婦から昔、製薬会社に勤めていた人が花屋に務めてるって聞いたから」
そう言えば紗香が病院からの受注を増やす名目で、看護師と仲良くなるんだと言っていた。そして仲良くなるために雑談をしていたとき、彩がササキ製薬にいたことを話した、と言っていた記憶がある。
「どこの製薬会社だい」
「ササキ製薬です」
「おゝ、いい会社じゃないか。なんでやめたの?」
「それはちょっと」
「そうか、言いたくなければいいんだ。ごめんね、込み入った話、しちゃったかな」
「いえ」
彩は冷たい目で速水をじっと見据えた。
「君なら分かるんじゃないのか。人が環境変化に対応するために薬を開発してるんだから」
「そうですね」
変わらず気持ちの入っていない答えである。
「どうだね、花屋なんかやってなくって私の助手として働かないか」
その言葉に彩が身構えた。
「この手の研究で看護婦を使うと理事長がうるさくてね」
「理事長って、先生の奥さんですよね」
「よく知っているね」
速水は嬉しそうに微笑む。その屈託のない笑顔に彩は一層警戒の色を濃くした。
「いいお話ですけど、お断りします。私は好きで花屋をしているので」
「そうか」
速水はいかにも残念そうに肩を落とした。
「あなたのような才能がある女性ならこの研究を支えて頂けると思ったのに」
「すみません。お力添えできなくて」
断ったことへの反応が意外にもあっさりしていた。彩はほっとする。しかしこの男にはどこか危険な雰囲気が漂っているように感じる。
「では私はこれで。またなにかあれば発注お願いします」
そう言うと、彩は振り返って部屋を出ようとした。
「あゝ、ではまた。それとさっきの話、気が変わったらいつでも歓迎するから」
彩は軽く振り返り会釈をした。部屋を出た後、再び身震いする彼女の姿があった。
× × ×
夕日が研究室の中を深紅に染めている。壁には大きな花の影が黒々と映し出されていた。ふいにドアが開く音が響き、それに気づいた速水が顕微鏡から顔をあげて振り向いた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
ドアの向こうに立っていたのは、痩せ細った体には不釣り合いな大柄で花模様のワンピースを着た中年の女性だった。速水は彼女に目を向けることなく話を続ける。
「珍しいな、ここに来るなんて」
「そうね」
女性はゆっくりと部屋に足を踏み入れ、周囲の植物を一通り見渡した。
「あなたが今度はどんな女性を連れ込んだか見たくってね」
速水は席を立ち、妻であり、この病院の理事長でもあるミツ子の前に立った。
「あれだよ」
速水が指さした方向ではフラシアがまるで自分の存在を誇示するかのように、大きく花びらを広げていた。
「どうだ、きれいだろう」
「そうね、確かにきれいな人ね」
無表情のミツ子がフラシアの前に静かに立っていた。
「でもこの花を持ってきた女性の方がもっときれいだったわ」
速水が不敵な笑いを浮かべる。
「あの人は単なる花屋さんだよ」
「でもあなたが指名したんでしょ。彼女に持ってきてほしいって」
「どうしてそれを?」
速水の視線が一瞬泳いだ。
「いろいろ情報が入ってくるんでね」
ミツ子はフラシアから速水へと視線を移した。
「そう言えば先月辞めた看護師、あなたに捨てられたってもっぱらの噂よ」
「だれがそんなことを」
速水は再び顕微鏡の前に腰を下ろした。
「前にも似たようなことがあったわね」
「あれは……」
速水は手元にあった資料をぱらぱらと捲り始めた。
「あれは、ちょっとした間違いで」
「そうね、何度同じ間違いをしたら気が済むのかしら」
ミツ子は速水にそっと近づき、その肩に手を置いた。
「東京でお金がなくて研究を続けることができないあなたを拾ってあげたのはだれかしら」
「それは感謝してるよ」
速水の手は慌ただしく資料のページを次々と捲っている。
「この病院で役にも立たない研究を続けられるのもだれのおかげだと思ってるの」
「役に立たない! 役に立たないとはなんだ」
速水は立ち上がり、ミツ子を鋭い視線で睨みつけた。
「この研究は気候変動しても人間が生き延びられるためになにをすべきかを探求する研究なんだ。凡人には分からない大事な研究なんだ」
今まで無表情のミツ子がほほ笑んだ。
「あなたは高校のころから変わってないわね。昔から夢ばっかり追っかけてた。そのころはすてきだと思ってたけど、今思えばあなたのこと羨ましかっただけ、それだけだったのかも」
「どういう意味だ?」
速水が首を傾げる。
「私はこの病院の娘として生まれ、この病院を守っていくことを運命づけられていたの。だからやりたいことは何もさせてもらえなかった。それに比べてあなたは自由、好き勝手に色んなことができる。あなたに憧れてたんじゃぁなくって、あなたの自由に憧れたのかも」
ミツ子は目を閉じたまま、ほほ笑み続けている。
「今考えればバカなこと考えたもんだわ」
そしてミツ子の表情が再び無表情にもどった。
「あなたを東京から呼び返して結婚してあげたんだから私の言うこと聞きなさい。あなたは私にとってペットと同じ。ここにいたいのならおとなしくシッポを降って私にこびへつらいなさい」
速水は拳を固く握りしめた。それをミツ子は見逃さない。
「あなたが自由に何をしようと構わない。でもね、病院のイメージが悪くなるようなことはやめてほしいの。これ以上看護師に手を出さないで。彼女たちが辞めていけば病院全体の雰囲気が悪くなる。それに町の女性にも手を出さない。小さな街なんだからうわさなんてすぐに広まる。それだけでも病院にとってダメージなの」
ミツ子の目がさらに鋭く光った。
「守れないならここから出ていってもらいますからね」
ミツ子が振り返り出口へ向かう。その後ろ姿を速水は唇をかみしめながらじっと見つめていた。すると、ふいにミツ子が振り返る。
「ここを追い出されればあなたは保健所行きよ。あなたはこの部屋でしか生きていけないの。肝に銘じなさい」
その言葉を残しミツ子は部屋を出ていった。扉が閉まるのを確認すると速水は近くにあった資料を手に取り、そのまま扉へ投げつけた。鈍い音と紙がぱらぱらと散る音が静かな部屋に響き渡る。その衝撃で、フラシアの花びらがわずかに揺れた。
× × ×
「また足摺岬沖ですか?」
三上は作戦室の大型モニタを見つめながらぼやいた。吉野隊長をはじめ、三上、田所、芦名、そして蒼真が席に着き、全員が同じ方向に視線を向けている。その画面には巨大な飛行物体が海の上に浮かび上がっていた。田所は首を傾げながら、
「以前にも足摺岬に怪獣が現れました。あの辺り宇宙人の基地でもあるんでしょうかね?」
「そんなもん分かるか」
三上が再びぼやく。蒼真がそんな三上を無視して田所の意見に乗っかる。
「もしかすると、宇宙船が地球に来るときに使う時空の出入り口があるとか」
「待て、根拠も証拠もない」
吉野隊長が諫めた。
「とにかく、この辺りになにかがないか探索する方が先だと思う」
芦名は冷静な声で皆に向けて語りかける。
「それもそうだな」
田所はあっさりと意見を引っ込めた。しかし蒼真はどこか釈然としない思いを抱いていた。というのも以前ここで健太に遭遇したからだ。なぜ彼がこの場所にいたのか、なぜさまざまなことを知っていたのか。その謎はまだ解けていない。だが、それ以上に気になることがあった。あのとき見かけた女性、彩に似ていた。健太と彩、二人の存在から考えるにこの場所には何か隠されている。
「隊長、高知県警に協力を依頼して、この辺りのフレロビウム反応をパトロールしてもらいましょう」
蒼真は提案を口にした。この場所に隠された謎を何とか解き明かしたい、その強い思いが彼を突き動かしていた。
「そうだな。範囲も広域だからそれがいいだろう」
吉野隊長が頷いた。
「これでフレロビウムの痕跡を追っかければ彼らの基地も見つかるかもしれない」
田所は一度引っ込めた意見を再び口にした。その言葉を受けて芦名がゆっくりと立ち上がった。
「まぁ、田所の推理が当たってるかどうかはともかくとして、我々も現場へ」
「分かった。まずは田所が高知県警へ協力の依頼をしてくれ。三上と芦名は現場へ」
「えー。また四国調査ですか?」
三上は不満そうに言葉を吐く。それを受けて芦名が軽く三上の肩を叩いた。
「まぁ、ぼやきなさんな。これも我々のれっきとした仕事なんだから」
「はぁ、まあしょうがない、行きますか」
三人が各々席を離れた。
「隊長、僕も行かせてください」
蒼真も立ち上がる。
「蒼真君は現場より怪獣撃退法をお願いしたいが」
「いえ、やはり怪獣対策のヒントは現場にあると思うんです」
「ふむ、現場になにがあると」
「それは分かりません。これは科学者としての感です」
「蒼真君らしくない、理論が通ってない意見だな」
吉野隊長は怪訝な表情を浮かべた。蒼真は以前ここで起きたことを吉野隊長に報告していない。いや、正確には報告できなかったのだ。しかしあの場所には何かがある。それだけは確信していた。
「直感は人には説明できません」
蒼真が食い下がる。
「ふむ」
吉野隊長が腕組みをする。
「まぁ、君がそこまで言うのなら同行を許可する。しかしあくまで君は民間人だ、充分気を付けてくれたまえ」
「はい」
蒼真は吉野隊長に一礼して作戦室を後にした。
「あそこには絶対何かある。もしかすれば健太にもう一度会えるかも知れない。なんとかして彼を探し出さなければ。そうすれば今までの謎が解けるかもしれない。それとあの女性、あれは……」
蒼真は足を速めた。やがて芦名の後ろ姿が見えてきた。
× × ×
「こんにちは」
彩が振り返ると、手元に束ねていたトルコギキョウがふわりと広がった。
「いらっしゃい」
彩の笑顔は店先に立つ健太へと向けられる。その笑顔を確認すると健太は足を進めて店内へと入っていった。
「また花束、作ってもらえますか?」
「どの花にしましょう?」
彩が健太のそばまで歩み寄る。その間に健太は店内をぐるりと見渡した。
「やっぱり、夏だからヒマワリですかね」
「分かりました」
彩は健太の足元に置かれたバケツからそっとヒマワリを取り上げた。夏の日差しが店内に差し込みバケツの水面をきらめかせている。その眩しい光が視界を満たしていた。
「お見舞いですか?」
「えゝ、まぁ」
健太の目が泳ぐ。
「早く良くなられればいいですね」
健太の表情に疑うこともなく、彩は笑顔のまま店の奥へ入っていく。健太はホッと息をつき額の汗をぬぐいながら、花を束ねる彩の背中に声を掛けた。
「暑いっすね」
「本当にそうですね」
彩が背中を向けたまま返事してくる。
「彩さんはここの土地の生まれなんですか?」
ふと、彩の動きが止まる。
「いえ、違います」
彩の手は再び動き出し、花をひとつひとつ丁寧に束ねていく。
「そうなんですね。でも、ここは暑い!」
「でも、今だと都会の方が暑いんじゃないかしら。ここは田舎だから海からの風を遮るものもないし」
「確かに、都会は暑いですね。ちなみに彩さんはここに来る前はどこに住んでいたんですか?」
「東京です」
「あゝ、なら都会の暑さを知ってるんですね」
「えゝ、まぁ」
彩がヒマワリにハサミを入れると、パチンという鋭い音が店内に響き渡った。
「でも、田舎でも何年か前より熱くなってる。異常気象ですかね」
「さぁ……」
「このまま気温が上がり続けたら人間はどうなってしまうんでしょうね」
彩の手が再び止まった。彼女の脳裏に浮かんだのは宇宙人だと名乗る男の姿。
「そう言えば、だれかが言ってました。今この地球の環境は人間によって激変している。このままでは人間はおろか、すべての生物が死に絶えることすら起こりかねない、って」
「怪獣が現れるのもそのせいかも」
彩は健太を見返しす。その顔には笑顔がなかった。
「ところで、彩さんには彼氏いるんですか?」
「なんですか、急に?」
「だって彩さんきれいだから。彼氏の一人や二人いても不思議じゃないと思って」
彩の表情に再び柔らかな笑みがもどった。
「いませんよ」
「え、うそ。そんなにきれいなのに」
彩は再びヒマワリに手を伸ばし、丁寧にその茎を束ねていく。
「お世辞を言っても、おまけはないですよ」
「え、そんなつもりじゃないですよ。でも本当にいないんなら俺が告白しようかな」
「そんな、きっと私の方があなたより年上でしょうし」
「年の差なんて関係ないでしょう。でも今の言い回しだと遠回しに振られたってことかな」
健太は唇を尖らせ、不満げな表情を浮かべた。
「まぁいいや。そう言えばこの辺りにMECの隊員服を着た男を見かけましたよ」
「MEC?」
彩は花束をセルロイドで巻いていたが、その手が三たび動きを止めた。
「この辺りで妙なことないかって聞かれました。確か“あし”なんとかって名乗ってましたよ」
彩の目が大きく見開かれる。
「彩さんも気をつけてくださいね。異常気象に変なおっさん、MECの隊員が来たなら怪獣がいるかもしれない。話、聞いてます?」
彩はハッと我に返り再び手を動かした。こうして出来上がった花束を健太に手渡した。
「はい、出来上がりました」
「ありがとう」
健太は支払いを済ませ、店を出ようとしたその瞬間、ふと足を止めた。
「また来ますね。あっ、思い出した。俺に話しかけたMECの隊員の名前、あしな、そう、芦名って言ってました」
そう言い終えると、健太は静かに病院の方へと足を向けた。
「芦名さん……」
彩は店を出て辺りを見回す。しかしそこにはMECの隊員だけでなく、健太の姿も見当たらなかった。
× × ×
夏の太陽が沈み、長い昼がその幕を閉じた。そして短い夜の闇が研究室の外の世界を静かに包み込む。明々と輝く蛍光灯の下、速水はじっとパソコン画面を見つめている。その画面にはアルファベットの列がずらりと並んでいた。
「うーん、分からない」
速水が見ているのは、近くの大学で解析されたフラシアのDNA配列。それを睨めっこしながら、彼は唸り続けている。
「この遺伝子の意味さえ分かれば」
速水の脳はたどり着けない答えを延々と探し続けている。そのせいで彼の目は次第にうつろになっていった。
「そんなの、あんたに分かるわけないじゃん」
ハッとした清水が振り返る。薄暗い部屋の隅、フラシアのそばに、白いTシャツを着た男が立っている。薄明かりの中、速水が男の顔を確認する。それは見知らぬ男だった。健太がひまわりの花束を抱え速水を鋭く睨みつけていた。
「だれだ、君は?」
「だれでもいいだろう」
健太がフラシアの大きな花の中央に花束を差し出す。すると、数本のひまわりが花束の中心に吸い込まれていった。その勢いは止まることなく、他のひまわりも次々とフラシアの中へと消えていく。
「見ての通りだ。こいつは生きるために必死なんだ。気候が変わればその環境に自分の姿を変え、生き延びるためにはなんでも呑み込む」
健太が速水に近づいてくる。速水は恐怖に震えながら健太の一歩ごとに合わせて少しずつ後退していく。
「あなたのように、金も地位もある人間にこいつの気持ちが分かるはずがない」
「なに!」
速水は立ち止まる。その足は小刻みに震えていた。
「私は科学者だ。植物の気持ちなど分かる必要はない。私が立ち向かうのはこの植物の生体であり、遺伝子の進化だ」
速水は声を震わせながら、必死に反論した。
「科学者? 嫁に寄生して生きているお前が科学者だと? 笑わせるぜ」
「なに!」
「本当の科学者って言うのはな、相手の気持ちになって命がけで戦うやつのことを言うんだよ」
健太の目が鋭く光り、速水をしっかりと捕らえた。
「それに引き換え、あんたはこの病院っていう名の温室で、嫁から水と肥料を与えられてぬくぬくと育った出来損ないの野菜みたいなもんだよ。そう、あんたなんか環境が変われば一寸で枯れる」
健太が不敵に笑った。
「本来なら小さな花を咲かせるだけで生きていけたのに、人間が環境を変えるから、生きていくためにこんな大きな花になっちまった。生きるために戦った結果だよ。あんたが言いたかった遺伝子の進化ってやつは人間に対する適応、いや、人間に対する恨み。そんなことも分からないのか?」
「恨み?」
「そう、あんたみたいな体たらくの人間には分かりっこない」
「なんだと!」
速水が健太に殴りかかる。しかし健太はその拳をひらりとかわし、そのままフラシアの前へと進んだ。
「感じろ、この花の恨みを!」
その言葉を発した瞬間、健太の体はまばゆい光に包まれた。彼の背後ではフラシアの花から白い霧状の気体が立ち上がり、部屋中に広がっていく。
「思い知れ! この花の恨みを!」
× × ×
「PM10、ポイント2020に怪獣出現!」
田んぼしかない村の真ん中に、巨大な顔、いや、花が、太い幹とともにそびえ立っている。その幹からは何本もの触手が生え、ゆらゆらと空中をさまよっていた。
「怪獣は巨大な植物のようです。ゆっくりですが町へ移動しています」
芦名の声が無線を通じて本部に届いた。
「芦名機と三上機はこれから攻撃に移ります」
大きな花の周囲を飛び回っていた二機のスカイタイガーが攻撃態勢に入った。触手はまるでハエを追い払うかのようにスカイタイガーの目前でゆらゆらと揺れている。
「こちら作戦室、攻撃を許可する」
吉野から命令が下される。
「いくぞ!」
芦名機がレーザーを怪獣フラシアの腹部? いや、正確には幹の中央に撃ち込む。激しい爆音とともに幹が燃え上がった。しかし、顔? いや、花の中央から白い霧のようなものが発生し、それが炎の上に降り注ぐと火は次第にゆっくりと消えていった。
「だめだ、攻撃が効かない」
三上の落胆した声が無線を通じて響いた。
「芦名さん、怪獣が町に向かっています」
蒼真の叫び声も無線を通じて響いてきた。
「俺と三上で怪獣を引き留める。蒼真君は避難誘導を頼む」
「了解」
蒼真は町へ向かい、逃げ惑う人々を大きなジェスチャーで誘導していく。
「早く、早く、山の方へ、早く逃げてください」
蒼真の声を聞いたのかどうかは分からない、人々は皆、山の方向へと逃げていく。その中で、蒼真の目の前を一人の女性が通り過ぎていった。
「彩さん?」
女性はすぐさま人ごみの中に紛れ込んでいった。蒼真が追おうとしたその瞬間、背後から爆音が響き渡る。慌てて振り返った蒼真の目に三上機が触手の攻撃を受けて墜落していく光景が飛び込んできた。
「三上隊員!」
「大丈夫だ、俺は脱出している」
三上の声が無線を通じて聞こえてくる。
そのとき、蒼真の腕時計が青く光る。彼はゆっくりと左手を上げた。
怪獣フラシアは目の前に現れたネイビージャイアントを認識する。その長い触手が上下に揺れながら、ゆっくりとネイビーに近づいてきた。身構えるネイビー。しかし、その右腕に触手が絡みつく。振り払おうとするものの、次々と左腕、右足にも触手が絡み、やがて左足にも触手が巻きついた。触手が強く引かれると、ネイビーは足をすくわれ、仰向けに倒れ込む。
フラシアの花から白い霧状のものが降り注ぎ、ネイビーの呼吸を奪おうとする。苦しむネイビーは、とっさに右腕を高く掲げた。その手にはネイビーサーベルが握られている。彼はその太刀を力強く振り回し、絡みつく触手を次々と切り落としていく。甲高い悲鳴のような声がフラシアから響き渡った。
触手を一通り切り落としたネイビーが立ち上がる。触手を切られた怒りからか、フラシアは幹ごと体当たりを仕掛けてくる。それを力強く受け止めるネイビー。だが再び触手が襲いかかり、今度はネイビーの首に絡みついた。思わず仰け反るネイビー。そのとき芦名機がミサイルをフラシアの花の中央に撃ち込む。
触手が離れるとネイビーは後方へと身を引いた。その目にフラシアの鼻の中央で赤い炎が揺らめくのが映り込む。ネイビーは左手を前方に突き出し、青い光線をフラシアの花の中央に放った。 悲鳴のような甲高い鳴き声が再び響く。花びらが一枚、また一枚と地面へ舞い落ちていく。
そして白い霧がフラシアを包み込んだ。やがて霧が晴れると、その巨体は跡形もなく消えていた。
× × ×
「あの先生、怪獣に押しつぶされて亡くなったそうよ」
紗香は悪びれた様子もなくそう言いながら、開店準備を進めている。
朝とはいえ、夏の日差しは強く、店内に差し込んでくる。彩は店先に花を並べながら紗香の方に顔を向けた。
「そうなんだ。でも私の身近な人、そうやって亡くなる人多いんだけどね」
彩は屈めていた腰を伸ばしつつ、額の汗をぬぐった。
「もしかして私のせい?」
「そんな訳ないでしょう」
店内で花を生け直していた紗香が首を振った。
「そうかなぁ」
彩の脳裏に芦名の顔が浮かぶ。彼と離れることで怪獣に関わることもなくなるはずだった。だが現実はまるで怪獣や、それを退治するMECを自ら呼び寄せているかのようにも感じた。もしかすると、速水もその犠牲になったのだろうか。自分が周りを巻き込んでいる、そんな不安が彼女の胸の奥に広がっていく。
不安とはなぜ湧き上がるのだろうか。環境を変えたにもかかわらず、何も変わっていない自分に気づく。あの花は環境に適応しながら自らを変えていったというのに。なぜ私は変われないの? 彩の脳裏に再び芦名の姿が浮かぶ。彼女はそのイメージを振り払おうとするかのように、首を強く振った。
「考え過ぎよ」
紗香が笑う。それにつられるように彩も笑みを浮かべた。
彩は心の中に渦巻く不安を紗香に悟られていないことにほっと安堵する。しかし、その不安は徐々に広がり彼女の胸を締め付けていく。彩はポケットに手を差し入れた。その中にはあのルビー色の石がある。彼女はそれを強く握りしめた。すると不思議なことに、彩の心に広がる不安が少しずつ和らいでいく。
「今日も暑いわね」
店内にいた紗香も額の汗をぬぐう。奥で消し忘れたテレビからアナウンサーの声が、今日も猛暑日が続きます、と伝えてくる。
「さぁ、開店よ」
紗香の明るい声が店内に響いた。その声に彩は少し気分が和らいだ。相変わらず夏の日差しは容赦なく降り注いでいる、しかし店先の花々は生き生きと輝き続けていた。この花たちは、この環境にしっかりと適応して生きているんだなと、彩は心の中で静かに感じ取っていた。
《予告》
日本海で漁船の沈没が相次いだ。巨大クジラの調査を開始する蒼真が出会った不思議な少女、頼子。彼女はクジラの声が聞こえると言う。頼子を信じた蒼真が取った作戦とは。次回ネイビージャイアント「クジラの涙」お楽しみに




