第十九話 怯える猫
♪小さな生命の声を聞く
せまる不思議の黒い影
涙の海が怒るとき
枯れた大地が怒るとき
終わる果てなき戦いに
誰かの平和を守るため
青い光を輝かせ
ネイビー、ネイビー、ネイビー
戦えネイビージャイアント
「おばぁちゃん、猫に餌、与えないで」
夏の夕暮れ、空が西の彼方へと赤く染まっていく。雲までもが燃えるような朱に包まれ、明日も続く灼熱の予兆を秘めていた。東の空へ目を移せば、夜の帳がゆっくりと、けれども着実に降りてきている。駅前の公園にも闇のヴェールが少しずつその姿を現し始める。人影は見当たらない。その代わりの夜の支配者たちが静かに、そして確実に集まり始めていた。
「あのね、野良猫が増えて近所の人たちが困っているの」
美波は夕暮れの闇が覆い始めた公園の片隅で、小さくなってかがんでいる老婆にそっと声をかけた。
「はぁ」
おばあさんはその顔を美波の方に向けると、ニコッと笑った。
「でもね、お嬢ちゃん、猫、かわいそうでしょ」
おばあさんの足元には皿に盛られたペットフードが置かれていた。その皿に向かって、少し離れた場所からいくつもの光る目が鋭く狙っている。夜の闇はさらに公園を覆い尽くし、暗闇に包まれるにつれ、光る目の数が次第に増えていく。
「あの、分かるけど、猫ちゃんたちの栄養状態が良くなると、その子たちがたくさん子供を産んで……」
「良いことじゃない」
おばあさんは変わらぬ微笑みを浮かべながら、手に持った袋から餌を皿にそっと追加していく。
「うんうん、違うの。今度は生まれた子たちが栄養失調になったり、病気になったり、交通事故に合いやすくなるの。だからあの子たちも含めて幸せにならないの」
「? でもお腹すいてるんでしょ」
「そうだけど」
美波の眉は困惑を表すハの字に歪む。
「とにかく、猫に餌をあげるのやめて、ね」
「はぁ」
おばあさんは再びニコッと笑った。
× × ×
「誰も悪くないんだけどね」
美波は項垂れていた。
夕食後、研究室の食堂横にあるリビングで、いつものように美波、蒼真、八尾がソファーに座り雑談を始めていた。ただ今日は久しぶりにその場にさとみも加わって話を聞いている。
話題は最近美波が参加した地元猫活動についてであった。美波はその活動中に出会った老婆のことを憂いていた。その話を皆が聞いていたのである。
「猫に餌をあげないで、って言っても全然言うこと聞いてくれないのよ」
美波が前かがみの体勢で深いため息をつく。
「おばあさん、優しいのね」
さとみが微笑みを浮かべながら応える。
「そうなんですけどね」
少し困惑した表情の美波を見つめながら、デザートアイスを頬張っていた八尾が同情するようにうなずいた。
「餌を与えると、野良猫が増えて人間生活に影響が出る、困ったばあさんだなぁ」
八尾が口の中にアイスを残したまましゃべるので、その声がやや聞き取りにくいと蒼真は感じた。
「そうなのよね」
美波は八尾の言葉をしっかりと聞き取ったようで大きくうなずいた。
「ふむ」
蒼真が小首を傾げる。
「八尾の言うことは分かる気がするけど、なんか違うような」
「なにか異論でもあるのかよ」
アイスを飲み込んだ八尾の言葉は明確だった。
「猫が増えて困るのは人間だろ。それって人間の都合じゃないかなぁ」
「そうだけど」
「猫から見れば、勝手すぎやしないか、って言いたくなるんじゃないかな」
「猫がしゃべるか!」
妙な突っ込みが終わると、八尾は残りのアイスを口に放り込んだ。
「蒼真君の言うことも分かるんだけど、でもね、不用意に餌を与えると、母猫の栄養状態がよくなって、子猫がどんどん生まれて、その子たちが増えていくと今度は餌不足になって、栄養失調の子や、餓死する子も出るの」
「ふむ、なるほど」
「だからそんな子が増えないような対策がいるの」
「美波さんは地元猫活動でそんな悲しい子猫が生まれないように活動しているのよね」
さとみの柔らかな言葉が蒼真の耳に届き、蒼真は思わずうなずいてしまった。
「でも、蒼真は人間が一番悪いって言いたいんじゃないの?」
さとみに見入っていた蒼真は八尾の言葉にハッとさせられた。
「人間が悪い?」
蒼真の脳裏に、暗い森の映像が、その中で健太の叫び声が響き渡る。
『俺は、悪くない。悪いのは人間だ』
「勝手に餌をやったり、増えて困るからその子たちを捕まえて殺処分したり、そもそも飼っていた猫を捨てるやつもいる。人間は勝手だ、そう言いたいんだろう」
「う、うん」
蒼真がまた、意味もなくうなずく。
「でもね、私は蒼真君とはちょっと意見が違うの」
蒼真は振り返りさとみの顔を見つめた。心の中で、いえいえ、意見の相違など、そんなに深く考えたものではないのです、と言いたかったが、その言葉が出る前に、さとみが話し始めた。
「人間と猫は何千年も共存してきたの。猫は人とともに生活することで天敵から身を守ることもできたし、食料も野生のころよりは得やすくなった。人も猫と暮らすことで食料であるコメやムギをねずみから守ることができた。双方にメリットがあったから両者は一緒に暮らしてきたの」
蒼真が深くうなずく。隣で美波が睨んでいる。
「でも、ここ最近、その関係が崩れてきたの。技術の進歩で食料保存が猫の手を借りなくてもできるようになった。猫の役割が変わったの」
「変わった?」
美波が小首を傾げる。
「そう、猫は人にとって慈しみ存在。つまり愛玩動物として人の心を癒す存在になったの。それはそれで悪いことではないんだけど」
「ふむ」
今度は納得の上で蒼真がうなずいた。
「人は猫に対して求める役割が変わった。でも猫はなにも変わっていない」
「やっぱり人間の勝手じゃないですか」
八尾がむくれている。その言葉に触発されて、蒼真は再び健太の姿を思い出してしまう。
「猫は可愛がられる対象として存在している」
「だから逆に可愛がられない猫は捨てられる」
八尾の吐き捨てるような言葉にさとみが小首を傾げながら、
「でもね、それでも猫と人は共存している。だから美波さんのように野良猫を助ける人が現れる」
「なるほど」
蒼真は再び納得しながらうなずく。それを見た八尾は蒼真があっさりと引き下がったことに唇を尖らせた。
「さすが奥さんは深いな」
蒼真の表情には締まりがなく、それを見た美波は八尾よりも鋭く唇を尖らせた。
「そうね、私は猫と共存するの。でも、どこかの締まりのない男性とは共存しないことにする」
「?」
蒼真がキョトンとした顔で美波の言葉の意味を考えていた。
× × ×
「おばあちゃん、また猫に餌あげて」
嫁の声が響いた瞬間、敏子の肩がびくっ、と動いた。それと同時に、彼女の足元にいた黒猫が慌てて庭の生け垣へと逃げ込む。
「清美さんが脅かすから、ミーちゃんが逃げたじゃない」
夏の日差しが強烈に庭の木々を照らし、蝉の鳴き声がけたたましく周りの音をかき消していた。庭全体がまるで夏そのものに包まれているかのようだった。
縁側に腰掛けていた敏子が腰をさすりながらゆっくりと立ち上がる。
「おばあちゃん、野良猫に餌あげたらダメって、近所の人からもやめてって言われてるんでしょ。お願いだからやめて」
家の中から嫁の声が強く響き渡る。
「そうかい、でもミーちゃん、食べるものがないと困ると思うのよ」
足元に置いてあった猫の餌を敏子が拾い上げた。
「おばあちゃんが優しいのは分かるけど、近所の人たちみんな困ってるの。いい加減分かってよ」
「みんなって」
敏子は明るい縁側から、暗闇に包まれた部屋へと足を踏み入れた。
「とにかく、餌はあげちゃだめ」
そう言い残すと嫁は台所へと向かっていった。
「なんで迷惑するんだろう」
敏子がボソッとささやく。そのとき、庭から“ミャー”と鳴く声が聞こえた。敏子が振り返ると、天敵がいなくなったことに気づいたのか生け垣から猫が顔を出した。そしてゆっくりと縁側の方へ歩いてくる。
「あら、ミーちゃん。そこにいたの」
敏子は再び暗い部屋から明るい縁側へ。そして手に持っていた餌皿をそっと手に置く。猫はゆっくりと餌皿に近づき、興味深げに匂いを嗅ぎ始めた。
「大丈夫だよ、なんにも変なもの入ってないから」
猫はゆっくり餌を口に入れる。
「ねぇミーちゃん。ミーちゃんはこんなに可愛いのに」
皿に残っていた餌を平らげた猫は、今度は敏子の足元に、そして優しく体を擦り寄せた。
「ミーちゃんは可愛いね」
敏子が腰を曲げ、足元にいた猫を抱き上げる。猫が“ミャー”と鳴いた。
「ミーちゃん、大丈夫だからね。みんながなにを言おうと、ミーちゃんは私が守ってあげるから。だから心配おしでないよ」
敏子は猫の背中をゆっくりと撫でた。猫は敏子の腕の中で大きく、ゆったりとした呼吸を繰り返している。夏の庭に優しい風が吹き渡り、その場所だけが穏やかで和やかな空気に包まれているように感じられた。
× × ×
「こんな住宅街にフレロビウムが検出されたって本当か?」
三上は怪訝な顔をしながら辺りを見回した。彼の目に映るのは閑静な住宅街と夏の青空、そして入道雲だけだった。人影は一人も見当たらない。無理もないことだ、夏の強烈な太陽の光がアスファルトに反射し、息苦しいほどの高温を作り出しているのだから。そんな中、三上と蒼真は汗だくで道のいたるところに検知器をかざしていた。
「警備中のパトカーからの連絡です。この辺りで放射線を検知したと」
「検知器がこの暑さで誤作動したんじゃないのか?」
三上は汗をぬぐいながら周りを見渡した。しかしどう見ても怪獣らしき姿はどこにも見当たらない。
「この暑さじゃ、怪獣もバテで動けないんじゃないか?」
「そうならいいんですけどね」
蒼真は三上の言葉を聞き流しつつ周囲を調査している。蝉の鳴き声がさらに暑さを際立たせていた。三上もついに諦めたのか検知器を担いで、
「俺はあっちの通りを調べて来る」
そう言い残すと、彼は先の家の角を曲がっていった。
「そう言えばこの辺りって、美波が猫の保護活動をしている地域だよな」
ふと蒼真が近くの家の庭にそびえる木を見上げる。枝の影、葉の茂みの奥に一匹の猫が見える。遠くからでも茶トラであり、尻尾が長く、首輪がないことが確認できる。その野良猫が蒼真のことをじっと見下ろしていた。
木にだらりとしがみつきながら尻尾が左右に揺れている。木陰でリラックスしているように見えるが、どことなく緊張感も漂っていた。
「あの猫は僕のこと、どう思ってるんだろう」
「猫は自由だから」
蒼真はハッとなり、後ろから聞こえた声に振り向いた。
「立花健太!」
蒼真の目の前には健太が野良猫を抱き立っていた。
「なぜおまえがこんなところにいる!」
蒼真が身構える。
「俺も自由だからな」
健太はほくそ笑みながら、猫の首元を優しく撫でた。
「この猫も人間に捨てられたらしい」
「なんでそんなことが分かる」
「こんなに人に慣れてるんだぜ。野生で育った猫なら人に近づこうともしないはずだからな。おっと、生物学者の阿久津蒼真先生にはよくご存じのことでしたか。これは失礼しました」
健太は苦笑しながら猫の背中を撫でている。猫は気持ちよさそうに“ニャー”と鳴いた。
「君はなにしにここに来たんだ」
「なにしにって、俺が町を歩いてて悪いか?」
「君の魂胆はなんなんだ」
「そんなもんないよ」
健太が猫を地面に降ろした。
「俺はなにもしないよ。ただ人間が自分自身で招いた禍で滅んでいくのを見ているだけさ」
降ろされた猫が鋭い視線で蒼真を睨みつける。背中を丸め、毛を逆立てて警戒の姿勢を見せた。
「こいつら捨て猫は、自分を捨てた人間も、自分をいじめる人間もどちらも嫌いだ。こいつらが人間に復讐する日も近いね」
「まさか!」
蒼真は自分に向かって威嚇する猫に検知器をかざした。しかし反応を示す針はピクリとも動かない。猫は依然として威嚇し続けている。
「大丈夫だよ。その子にはなにもしていない」
蒼真は一歩引き下がった。それでも猫は敵意をむき出しにしていた。
「仮にこの子たちにフレロビウムを噴霧しても彼らに怒りがなければ怪獣にはならない。この子たちが人にいじめられ、邪魔者扱いされることでもしかすると怪獣になるかもしれない。彼らには罪はない、悪いのは人間だ」
「そんな。人間はそんな悪い人ばかりじゃない」
蒼真の肩がいかり拳を固く握る。
「そうかもしれない。おまえみたいなお人よしがいるんだからな」
健太は目を細め、軽蔑に満ちた笑みを浮かべた。
「ならば……」
「でもな、ほとんどの人間は自分のことしか関心がない。自らが生き残るためには邪魔なものは排除する。自分の都合を優先すること、それは誰かを不幸にすること。つまり人が生き残るためには悪にならないといけない。そうなれば恨みが恨みを呼ぶ。だから人間界には怒りはなくならない」
「だから君は樹海に……」
「そうさ、俺が生きていくために、俺の都合で森の動物を殺した」
健太は憎しみのこもった目で蒼真を睨みつけた。
「そんなこと、おまえだって分かっているはずだ」
健太の足元にいた猫が彼を見上げる。そして、ゆっくりと蒼真に近づいてくる。足元で靴の匂いを嗅ぎ始めた。
「猫は正直だな」
健太はニヤリと笑い、猫は蒼真の足に体を擦りつけてきた。
「おまえはまだ悪に染まってなさそうだな」
「?」
「子供だってことだよ」
健太の言葉を飲み込めない蒼真、そこへ三軒ほど先から三上の声が。
「蒼真君! 今その角にいた黒猫にフレロビウム反応があったぞ!」
「えっ」
蒼真の反応に驚いた足元の猫がさっと蒼真から離れていった。
「三上隊員、どの猫ですか!」
「あっちだ」
蒼真は三上の指差す方向を見た。しかし家の陰になっているため猫の姿は見えない。駆け出そうとする蒼真は一瞬立ち止まり、健太の方を向き直した。
「おまえ、やっぱり」
そう声をかけようとしたが、もうそこに健太の姿はなかった。
× × ×
「どこ行ってたの、ミーちゃんは気まぐれだね」
夏の夕暮れ、涼を感じるために敏子は庭に水を撒いた。その清涼感が心地よく、敏子は庭に出て草むしりを始めた。跪き、一心に草をむしる敏子の横には、ちょこんと座る黒猫。彼女の手元をじっと見つめるその姿は、まるで敏子の仕事を応援するかのようだった。
「ミーちゃんがいないと、ばあちゃん寂しいよ」
敏子の横で黒猫が腹ばいになり、少しひんやりした地面にお腹をつける。その冷たさが心地よいのか、猫はうっとりと目を細めた。敏子はそんな猫の背をゆっくりと撫でる。その優しい手の動きに猫はさらに目を細め、満足そうに喉を鳴らした。
「ミーちゃん、いつまでもばあちゃんのそばにいておくれ」
黒猫がゴロンと横に向きお腹を敏子の方に向ける。敏子はその仕草を微笑ましく思い、背中からお腹へと手を移す。その温もりが心地よいのか、猫は背を地面につけ、へそを天に向けてリラックスする。
「よしよし、ミーちゃんは良い子だね」
敏子はゆっくりと手を伸ばし、愛おしげに黒猫のお腹を優しく撫で始めた。
「ばあちゃんの相手してくれるのはミーちゃんだけだわ。この家の人たちも、近所の人もみんなばあちゃんのこと相手にしてくれないんだよ。孫たちも学校が忙しいとやらで、全然相手にしてくれない」
敏子が空を見上げた。
「それに、友達もみんな天国に行っちゃったしね」
黒猫は敏子の話を理解しているかどうかは分からない。耳をピンと立て、静かに目を閉じたまま、その声にただ身を委ねていた。
「あんたも独りなんだろ。独りは寂しいね。でもあんたは自由に色んなところへ行ける。羨ましいね」
敏子はそっと膝をつき地面に正座した。変わらず黒猫は何も気にすることなく、心地よさそうに撫でられ続けている。
「優しいね、あんたは。こんな私の話し相手になってくれて」
敏子は静かに目を閉じ深いため息を一つ吐き出した。手のひらは黒猫の柔らかな毛並みを滑りながら、徐々にその動きを止まっていく。
「ミャァ」
黒猫が優しく喉を鳴らす。その声に敏子が気づいたのか、そうでないのか、やがて彼女の体が静かに傾いていった。
「ミャー!」
黒猫は突然飛び起きた。その瞬間、敏子の体は静かに傾き、やがて地面に横たわるように倒れていった。
「ミャー、ミャー」
猫が激しく鳴き続けた。その鳴き声は家の中まで響いていく。
「ミャー、ミャー!」
「お母さん?」
家の奥から清美が不安げな表情で姿を現した。
「お母さん、お母さん!」
彼女は慌てて庭に飛び出す。黒猫は驚き、急いで生け垣の陰に身を隠した。
「お母さん、どうしました? お母さん、え、そんな」
清美が敏子を抱きかかえる。
「しっかり、しっかりしてください」
清美の問いかけに反応しない敏子。
「誰か、誰か! 救急車呼んで!」
清美は家の中にいる誰かに向かって必死に叫びかけた。
「ミャァ」
庭の片隅から寂しげな鳴き声が響いた。しかしその声は清美の叫び声にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。
× × ×
「なんで俺たちが猫を捕まえないといけないんだよ」
三上は不満げに呟いた。なぜこの蒸し暑い日に猫の捕獲をしなければならないのか、その憤りは蒼真にも共感できる。住宅街は灼熱の陽射しに包まれ、夕方だと時計が時を告げるにも関わらず、空気は重く湿り気を帯びていた。蒼真たちは汗にまみれながら黒猫を探し続けている。
彼らがいる住宅街の一角だけは異様な光景が広がっていた。厳格な制服を纏った男たちが虫取り網のような捕獲機を手に黒猫を追い求めている。三上が目撃したというフレロビウム反応のある黒猫を防衛隊や警察も協力して捜索しているのだ。蒼真もその一員として参加していた。
「早く見つけないと危険ですよ」
「分かってる。でも黒猫なんて掃いて捨てるほどいるじゃないか」
「そんなこと、言ってられないですよ。三上さんが唯一の目撃者なんですからしっかり探してください」
「じゃあ俺が見つけたら俺の責任ってことか? 見つけたもん負けだな」
「文句ばかり言わないでしっかり探してください!」
蒼真は暑さに加えて三上の言動にイライラしてくる。
「蒼真君のその格好、夏休みの自由研究みたいだよ」
蒼真が虫取り網のような捕獲器を担いでいる姿を見て、美波は隣でくすくす笑った。
「あのね、これは重要な任務だからね」
蒼真は不機嫌そうに美波を睨んだ。美波がここにいる理由は彼女が猫の保護活動をしているメンバーであり、猫の行動について詳しいと自ら申告したからである。蒼真としても断る理由がなかったため、彼女は蒼真とともにこの活動に参加することになった。
「でもね、どうして防衛隊の人たちも猫を探してるの?」
美波は周囲の様子を観察しながら首を傾げた。
「猫はすでにフレロビウムに冒されている可能性があるんだ。だからもし怪獣化したら危険だから僕たちが探索に参加しているんだよ」
「でももしそうなら、捕まえようとして追いかけるのって、逆効果じゃない? だって追い詰められた猫が怒ったりしたら」
蒼真が警官を指差した。
「だから、その場で射殺することも想定して警察にも応援を要請したんだ」
「射殺って。そんな……」
美波の目が潤む。
「仕方がないじゃないか。たくさんの人の命を守らないといけないんだから」
「でも、猫に罪はないよ」
美波が不服そうに唇を尖らせた。
「美波の言いたいことは分からないではないけど……」
そこまで言いかけたとき、頭の中に健太の言葉が鮮明に蘇った。
『仮にこの子たちにフレロビウムを噴霧しても彼らに怒りがなければ怪獣にはならない。この子たちが人にいじめられ、邪魔者扱いされることでもしかすると怪獣になるかもしれない。彼らには罪はない、悪いのは人間だ』
そう、猫には罪はない。美波の言う通りなのだ。しかしそれでも罪のない人を守らなければならない。それも事実であり蒼真の大事な役割である。
「ギャーオ」
「イタイ!」
声の方向に視線を向けると、三上が捕獲網を片手に持ちながら必死に奮闘している姿が見えた。
「くそ!」
三上が這うようにして地面に落ちた捕獲網に覆いかぶさる。
「フギャー、ギャー」
網の中で黒い影がもがいている。
「三上隊員、大丈夫ですか?」
蒼真が三上に駆け寄る。
「大丈夫なわけないだろう」
顔中に爪痕を刻まれ、赤く腫れあがった三上が叫ぶ。
美波がゆっくりと捕獲網を抱え上げた。
「なにもしないよ。おとなしくして」
美波が語り掛けるとそれに呼応するように網の中の動きが止まった。美波は優しく網を撫でる。
「ミャー」
甘えるような声が響く中、美波は網に手を差し入れその中にいた黒猫を優しく胸に抱き上げた。彼女の腕の中で黒猫はかすかに震えていた。
「大丈夫よ。安心して」
「蒼真君、早く検知器を」
三上の言葉に慌てた蒼真が検知器を黒猫にかざした。
「反応なしです」
それを聞いた三上は、力が抜けたように地面に崩れ落ちた。
「またハズレか……」
猫は美波の胸の中でじっと蒼真たちを睨みつけている。蒼真には猫が小さくなっているように見えた。
「この子、怯えているわ。震えが止まらない」
美波はゆっくりと丁寧に猫の背を撫でた。
「大丈夫よ、大丈夫だからね」
美波の優しい言葉に応じて、猫の震えが次第に収まっていった。
「可哀そうにね」
猫の呼吸は次第に落ち着いていった。
「この子、どうするつもり?」
「首輪がないから飼い猫じゃなさそうだね」
「そうね、野良猫ね」
「だとすると保健所に引き渡すしかないかな」
「保健所!」
美波の言葉が力強く響き渡る。
「どうかした?」
「保健所だと飼い主がいなければ殺処分されちゃう。自治体によってまちまちだけど、この子のように、もう成猫で人になつかないとなったら譲渡会にも出せない。だから保健所に渡すのはちょっと」
「だったらどうするんだ?」
「私たち保護団体がやっているのは、TNR活動って言うのをやっていて、捕獲した猫を避妊、去勢して元居た場所に戻す活動をしているの。この子は男の子で去勢していないから子猫を増やす可能性があるの。だから去勢して今いた場所に戻す」
「戻す?」
三上が立ち上がり、怪訝な表情を浮かべながら美波に迫った。
「せっかく捕まえたんだぜ、戻したらどれがフレロビウムに冒されてるか分からなくなるし、そもそも野良猫としてウロウロしていたらフレロビウムに冒される可能性だってある」
「でも、この子は生きているんですよ」
「野良猫の命より、人間の方が優先だ」
三上の強い言葉に美波の目が潤む。彼女は蒼真に助けを求めた。
「美波、君の所属している団体に連絡を取ってくれないか。この子たちはいったん確保して保健所には引き渡す。保健所と話をしてこの子たちを助ける方法を話し合ってくれないか」
「分かったわ」
美波は猫を抱いたままポケットから携帯を取り出し、団体に連絡を取り始めた。
「相変わらず蒼真君は甘いな」
三上はあきれた表情を浮かべながら、捕獲網を持ったまま別の路地へと歩み出した。
「もしもし……」
美波が団体に連絡している間、彼女の腕の中で猫が大きなあくびをした。
× × ×
「で、おばあちゃん、どうなったの?」
朝のラジオ体操が終わるころ、蝉の鳴き声が騒ぎ出す。今日も暑い一日が始まる。とは言え朝は少しだけ外に出ても涼しいと思えるのは昼間の暑さのせいなのだろうか。なので朝は主婦たちが幾人か集まって話ができる貴重な時間だった。
「で、お婆ちゃんはどうなったの?」
隣の奥さんが清美に尋ねた。
「それがね、まぁ一命は取り留めたんだけど、でも、寝たきりになっちゃって」
「まぁ、それは大変ね」
向かいの奥さんの眉間に皴が寄る。
「そうなの。ここだけの話、ぽっくり逝ってくれた方が本人も私たちも楽でよかったって思ったりするのよ」
清美も同じように眉をひそめる。
「まあね、不謹慎だけど分かる気がするわ。入院費もバカにならないしね」
「そうなの。でもね、子供たちはおばあちゃんのこと心配してるから、家ではそんな愚痴言えなくて。だから内緒ね」
清美が人差し指を唇に当てる。周りの主婦たちがうんうんと軽くうなずく。
「でも、おばあちゃんが入院してから猫の数が減った気がするわ」
「確かに」
再び主婦たちがうんうんと軽くうなずく。
「ごめんね、迷惑かけてたと思うわ」
清美が少し肩を落とす。
「おばあちゃん、優しかったから、放っておけなかったのよね」
そこまで話し終えると、隣の奥さんの眉間に皴が寄った。
「でもね、なんか一昨日ぐらいからこの辺りに防衛隊の隊員がうろうろしてるのよ。なんでも猫を捕まえるんだって」
「え、猫?」
清美の目が驚きで丸くなった。
「猫がね、なんか、怪獣化する可能性があるだって」
「え、怪獣?」
清美と向かいの奥さんの目が丸くなる。
「なんだか嫌な話ね」
「そうでしょ」
隣の奥さんの眉間に皴が深く刻まれた。
「だから野良猫には気を付けた方がいいよ。うちの旦那なんか怪獣を追い出すんだって大きな網持って近所の人たちと今日出た言ったわ」
「そうなんだ、うちの旦那はそう言うの疎いから、全然知らなかった、その話」
清美がさらに肩を落とした。
「今この町内会の男たちが猫を追いかけまわしているって、昨日隣町の奥さんに言われたわ」
「なんか嫌ね」
向かいの奥さんは軽く首を振った。
「とにかく気を付けないと」
そんな隣の奥さんの横を蒼真と美波が横切っていった。二人は明らかに何かに焦っていた。
「早く止めないと、みんななにを考えているのかしら」
美波が蒼真をせかすように言う。
「確かに、追い詰められた猫が怒り出したら大変なことになる」
蒼真も急ぎ足で町内会の人たちを探している。
「なんかあっちの方が騒がしいぞ」
蒼真は足を速める。すると路地の奥でおじさんたちの集団が網を持って集まっていた。幾人かのおじさんはフライパンを棒で叩きながら植木が密集している路地の奥に迫っていた。反対側では網を持ったおじさんたちが待ち構えている。
「それ、行ったぞ」
「えい!」
網を持ったおじさんの横を黒猫が走り去る。
「しまった、逃げられた」
「しっかりしろよ」
「なに、お前らの追い込み方が甘いからだろう」
「なんだと」
男たちが殺気立っていた。
「やめなさい」
蒼真の声が響く。振り返ったおじさんたちの視線は鋭く蒼真に突き刺さる。
「なんなんだ、俺たちは防衛隊の手伝いしてるのに」
「みなさん、危険です。相手は怪獣化するかもしれない猫です。お願いですから彼らを追い詰める行為をやめてください」
ふと目をやると、大きな袋の中に猫の死骸が無造作に放り込まれているのが目に入った。
「キャー」
美波の悲鳴が響く。
「罪もない猫を殺してどうするんです!」
一人のおじさんが蒼真へ向かってくる。
「お前らMECがぐずぐずしてるから俺たちがやってやってるんじゃないか。猫一匹捕まえられなくって、よく怪獣退治が務まるな」
「そうだ、そうだ」
のおじさんの背後に数人の男たちが続き、蒼真にじりじりと迫ってくる。その目には狂気が宿っていた。なぜ彼らがこれほどまでに殺気立っているのか、蒼真には到底理解できなかった。
「蒼真君……」
美波は蒼真の腕を掴み、その背中に身を隠した。
「フレロビウムを帯びた猫を怒らせると怪獣化する危険があります。なのでみなさんで猫を追い詰めないでください」
「俺たちが怪獣を呼び寄せるって言うのか!」
「こいつ、自分が猫を捕まえられないからって、いい加減なことを言ってやがる」
「怪獣化する前に猫を殺せば問題ない!」
男たちはそれぞれが持論を声高に主張していた。それは間違った認識であったが、彼らにとっては正しいことだと信じ込んでいた。
「だいたいそんなことだからMECは毎回怪獣を倒せないんだ。お前ら俺たちの税金で食っているのに全く役立たずだ」
「そうだ、猫を捕まえるためにネイビージャイアント連れてこい!」
「そうだ、そうだ!」
男たちの目は血走り、尋常ではない様子を見せていた。集団になると恐怖を共有し、普段とは異なる行動を取ることがあると、何かで読んだ気がする。しかし人はこれほどまでに簡単に凶暴化するものなのだろうか。あきれる話だが放置するわけにはいかない。なんとかしなければ。
「お願いです。猫は我々に任して、自宅で待機していてください」
必死の蒼真の訴えかけに、
「ふざけるな、この町も、家族も俺が守るんだ。おまえのような青二才に任せられるか、出ていけ!」
フライパンを持った男が今にも蒼真に襲い掛かろうとしている。
「蒼真君、逃げよ」
美波が背中でささやいた。しかし蒼真はその場を動こうとはしない。なんとかこの人たちを止めなければ。そうしなければ大勢の人が被害に遭うだろう。蒼真は身構えた。男たちが二人に迫ってくる。
その時、遠くから別の男の声が聞こえた。
「いたぞ! 黒猫だ!」
男たちがいっせいに声の方向に顔を向ける。
「よし、捕まえろ」
「いや、殺してしまえ!」
男たちは声の方向へといっせいに走り出した。蒼真たちもその後を追う。彼らは住宅街の袋小路になっている道の突き当りまで進んでいった。
「あそこだ!」
「あいつか!」
袋小路の突き当り、古びた住宅の屋根に一匹の黒猫が身をひそめ、彼らを見下ろしている。
「あいつを引きずり降ろせ!」
男たちの中の誰かが声をあげる。彼らに追いついた蒼真も、男たちが指差す方向に視線を向けた。
「あの猫、怯えているわ」
美波の言葉が響くと同時に、蒼真の腰に装着された検知器がけたたましく警告音を発する。
「やめろ、やめるんだ。あの猫が怪獣化するぞ!」
蒼真の言葉は男たちには逆効果だった。
「あの猫は怪獣だ。早く引きずり降ろせ」
「警官を呼べ。銃で撃つんだ!」
「なにをしている。早く殺せ!」
「そうだ、殺せ!」
猫は怯えているのか、その場から動こうとはしない。
「やめて!」
美波の声は男たちには届かない。男たちの勢いは止まることなく、罵声と恫喝が飛び交う中、か細い声がどこかから聞こえてきた。
「ミーちゃんをいじめるのは誰?」
男たちの声が一瞬やむ。
「ミーちゃんは私のお友達、いじめる人は許さない」
「誰だ、誰がしゃべってる!」
男たちが怯む。
「あの声……」
美波は蒼真の腕を掴んだまま耳を澄ませた。
「あれは、猫に餌をあげてたおばあちゃんの声」
「えっ」
蒼真は周囲を見回す。そこには老婆の姿はない。
「えい、黙れ。猫を殺さないと俺たちが殺される」
大きな網を持った男が叫んだ。
「許さない、ミーちゃんをいじめる人を許さない」
その言葉が終わると屋根の上にいた黒猫の周りに霧のようなものが湧き上がってきた。そしてその霧は次第に巨大化していく。
「わぁ、怪獣だ」
男たちはいっせいに後ずさりし始める。
「みなさん、逃げて!」
蒼真の声に男たちは我に返ったように走り出す。
「逃げろ!」
男たちが散り散りに逃げ出す。霧は家を覆うほどに膨れ上がっていった。その重みで家がひしゃげると、霧は徐々に黒い影となり、そこに化け猫怪獣ガットラーが姿を現した。ガットラーは家を踏みつぶしながら雄叫びを上げている。
「美波、逃げろ」
「蒼真君は?」
「僕はMECの一員だ、ここで戦う」
「大丈夫」
「大丈夫、早く」
蒼真がMECガンを構えた。美波は心配そうにその場を離れていく。蒼真は美波の姿が見えなくなるのを確認すると、左手を高々と天に突き出した。青い光が彼を包み込んでいく。
ガットラーの目の前に青い光の柱が立つ。その光が消えたとき、ネイビージャイアントが彼の行く手を防いでいた。 ガットラーがネイビーに突進する。ネイビーがそれを受け止め、右足でガットラーを蹴り上げた。そのままガットラーを担ぎ上げて投げ飛ばす。幾軒もの家が下敷きになりつぶされた。
ガットラーがゆっくりと立ち上がる。ネイビーは一瞬の隙を見逃さず、駆け寄ってチョップでガットラーの首を打ち据えた。ガットラーはふらつきながらも、すぐに態勢を立て直しネイビーと組み合う。ガットラーの鋭い爪がネイビーの肩を襲い、深い傷を負わせる。苦痛に顔を歪めるネイビー。しかしガットラーは執拗に爪を立て続け、ネイビーを追い詰める。ネイビーはなんとかその爪を避けようとするが、ガットラーに足元をすくわれ、無惨にも倒れ込む。倒れたネイビーにガットラーが覆いかぶさり鋭い爪を構える。このままではネイビーは避けきれない。
そのとき、どこからか「ミャァ」と子猫の鳴き声がした。
急に立ち上がるガットラー。ネイビーも同時に立ち上がる。声の方向に目をやると、そこには子猫を抱いた美波がいた。
「ミャァ」
美波の腕の中で子猫がまた鳴いた。それをじっと見つめるガットラーがうんうんと二回ほどうなずいた。
「ミャー」
ガットラーが優しく鳴いた。その後、ガットラーはゆっくりと消えていった。
× × ×
「ミーちゃんのこと可愛がってたおばあちゃん、亡くなったんだって」
子猫を抱いた美波が戻ってきた蒼真に声をかけた。
「そうなんだ」
蒼真が神妙な顔になる。
「怪獣が現れたころに病院から電話があったんだって。状態が急変したらしいよ」
「あの怪獣はおばあちゃんの化身かも」
美波が目を閉じる。
「おばあちゃん、きっとミーちゃんがいじめられるの、見てられなかったのよ」
蒼真も同じことを思っていた。追い詰められた猫を、おばあちゃんの心が救いに来たのだと。だとすれば。
「身勝手な人間が猫を捨てて、追い詰めた。その結果があの怪獣になったって訳か」
蒼真は猫を追い詰めていた男たちの狂気の目を思い出した。人は恐怖と怒りに駆り立てられると、かくも凶暴になるのか。罪もない猫たちを殺すこともいとわない身勝手な存在。蒼真はそう考えると悲しみが胸に広がった。
「でも、その子たちを心配する人もいるわ」
美波が腕の中の子猫を撫でる。蒼真もその子猫を優しく撫でた。
「この子は?」
「怪獣に向かって駆け寄ろうとしたから止めたの」
「それって、もしかして……」
「そう、ミーちゃんの子供じゃないかって」
美波は腕の中の子猫を見つめ、その瞳に悲しみが浮かんでいた。
「ミーちゃんはこの子のお母さん?」
「多分」
「もしかしたら、この子が無事なことを確認して怪獣は消えたのか」
蒼真の胸が痛んだ。この子も自分と同じく母を失い、ひとりぼっちになってしまったのだと。
「ごめん、君のお母さんを救えなかった」
蒼真は寂しそうに口を尖らせた。この子たちはまた人に追いやられるのだろうか? それとも……
「この子は私が所属している団体で引き受けるわ」
「ありがとう、美波に任せるよ」
蒼真はもう一度子猫を撫でた。子猫は目を細め、大きなあくびをした。
《予告》
花屋で働く彩のもとに届いた注文、それはフラシアと呼ばれる珍しい花。適応能力が高いこの花に自らのしいたげられた環境を変えることを託す速水。フラシアを彩が花を届けに行くと。次回ネイビージャイアント「真夏の花」お楽しみに