今しか見えない。
我が輩は赤子である。名前はまだない。なんちって。
真っ白な壁に真っ白な天井。真っ白な布団に寝かされて、何だか僕まで真っ白になった気分がする。でも実際には、赤子という言葉が表す通り、僕は猿みたいに赤い顔をしているのだろう。
僕がこの世に誕生したのは今から大体四時間から五時間前。できたてほやほやの人間である僕は、周りが柵で覆われた白いベッドに寝かされている。そして僕のお袋だと思われる女性は、隣に設置してある大きなベッドで横になっている。さっきまでは僕の顔を見てにやけていたけど、さすがに疲れたのだろう。今にも眠ってしまいそうに、目を瞬かせている。
あ、いけね。赤ん坊が「お袋」はまずいな。でも、長年の癖っていうのは中々抜けやしないだろう。
彼女の周りには、きっと彼女や僕の家族なのだろう、数人の男女の姿が見える。眠りかけている彼女に気を遣っているのか、誰も何も喋らない。
彼女の一番近くにいるのは、三十過ぎくらいの男だ。状況から言えば、これが僕の親父だろう。眉、目、鼻、唇といった顔のパーツ全てが細く、薄情そうな顔をしている。顔も青白く、どことなく頼りない雰囲気だ。こんなやつが父親か。ちょっとがっかりだ。
その隣には、お袋よりも少し若そうな女が一人いるが、これは誰なのだろう。まさか僕の姉ではないだろうが、父母どちらかの妹だろうか。やせぎすで不健康そうな顔つきから、勝手に親父の妹だと決めつけた。
窓際に立っている老夫婦は、母方か父方かは分からないが、祖父母だろう。しわくちゃだが、ぼんやりとした表情やゆっくりとした動作が、どことなく赤ん坊と似ているような気がした。人は老いるとまた子供に戻るのだろうか。
ま、どうでもいいが、出産後に駆けつけてくれる家族がいるっていいな。当たり前なのかもしれないけそ、見ていて微笑ましいよ。
いやあ、しかし。まさか昨日までタクシーの運転手だった僕が、次の日にはこんな綺麗な産婦人科の病院のベッドの上に寝かされているなんてなぁ。しかも、生まれたばかりの赤ん坊として。
そう、僕、昨日までは一人のおっさんだったんだよ。しがないタクシーの運転手。でもどうやら、僕は死んでしまったみたいで……。それで、いろいろあってここにいる、みたいだ。ま、つまりは生まれ変わったってことのようだ。
昨日、駅前で乗せた乗客がいきなりナイフを取り出して僕の首元に突きつけてきたのは、確か深夜零時を過ぎた頃だ。金を出せと言われたから素直に出したのに、あの野郎、そのまま逃げずに、僕の首に思い切りナイフをぶっ刺しやがったんだ。
痛い、と思った瞬間に意識が遠のき、気づいたら暗く、窮屈な部屋に閉じ込められていた。今思えば、あれはきっと子宮の中、つまりお袋の腹の中だったわけだ。もちろんそんなことに気づくはずもないから、最初は、棺桶の中にでも閉じ込められたのかと思ってビビったよ。よくあるでしょ、ドラマとかでさ、焼かれる寸前に息吹き返しちゃって、みたいな。アレかと思って本当に焦った。まだ死にたくないよー、なんて叫んじまったよ。
ま、結局は死にたくないどころかすでに生まれ変わっていたわけなんだけども。でも変なことがあってさ、何故か生まれてきても前世の記憶が消えないんだよな。ちょっと不思議なんだけど、もしかしたら、そのうち消えるのかもしれない。というかそんな気がする。きっとまだ、僕は現世と前世を切り離せていないのだろう。
そんなわけで、僕はこうしてベッドの上で寝そべって、今しか味わえない不思議な時間を満喫している。
でもなあ、と僕は少し憂鬱になる。
生まれ変わるってつまり、人生をもう一回やり直すってことだよなぁ。いや、もちろん前世とは全く違う人生になるだろうさ。親も違うし名前も違う。前世は貧乏な両親の元に生まれたけど、こいつらはまぁまぁ金を持っているかもしれない。もしそうなら、きっと前世よりは楽な人生になるでしょうよ。
でも、でもね。やっぱり僕としては、せっかくゴールしたのにスタートまで戻された感が否めないのですよ。だって考えてごらんなさい。僕は六年後、もう一回小学校に入るわけだ。足し算引き算掛け算割り算国語に社会に理科、ああ、今は英語も小学校からやるんだっけか。
自慢じゃないけど、僕は勉強が大嫌い。なのに、それをもう一回やれだなんて、ああ、嫌で嫌で堪らない。
ま、それだけならまだいいよ。僕、実は中学校でいじめられてたんだ。
ほら、いるだろ、中学校に入った途端、不良に憧れるようなバカなやつとか、人を殴ることで快感を得るような変態共。僕は気弱で体格も貧弱だったから、そういった奴らの餌食にされたんだよ。
うわぁ、やだなぁ。あの地獄の中学校生活をもう一回……。うぅ、なんでよりによって二回連続で人間なんかに生まれ変わっちまうんだ。亀とか鳥なら学校なんかないのにな。メダカはあるかもしれないけど。大体生まれ変わるの早すぎだろう。普通はもっとあるんじゃないの。天国行ったり地獄に行ったり。ま、この世に未練とかはないから幽霊にはならないだろうけど。まあいいや。話を戻そう。
それで高校に入って、冴えない学園生活を送った後の受験勉強。きっと辛いんだろうな。あ、俺は前世は高卒だったんだけど、今は大学全入時代だもんな。多分行くことになるんだろう。
大学で必死に勉強した後、待っているのは就活だ。あああ、これだ。これが一番嫌だ。だってニュースでよく見るもん。数え切れないほどの大学生がリクルートスーツなんか着て、合同説明会だっけか、そんなの行ってるところ。不景気不景気言われて、不採用不採用言われて、気を病んで自殺しちまう奴もいるって話じゃないか。やだやだ、そんなのに、巻き込まれるなんて、僕は絶対いやだ。
それでもなんとか就職したも、待っているのは定年までの長く険しい地獄のマラソン。朝早くから夜遅くまで拘束されて、心身ボロボロになるまで働いて、貰えるのは家族がやっと暮らせるだけの金だけ。おかしい、おかしいよこの国。
とか何とか言ったけど、結局は僕、前世の記憶はもうすぐなくなっちゃうわけだから、別に普通に、そんな毎日を受け入れられるんだろう。一回経験しちゃっているから嫌に思えてくるわけで、何の記憶もないまっさらな状態で挑む人生は、それなりに希望がある、ように見えるもんだ。
つまりは、前世の記憶がある今しか見ることの出来ない「人生の絶望」について、僕は今頭を巡らせているわけだ。そう考えると、僕もなかなか賢い人間に見えてこないか。まあ、見た目は猿みたいな赤ん坊なんだけど……。
しかし、せっかくもう一回人生をスタートさせることが出来るんだ。いっそのこと、前世とまったく違う人生を往く、というのはどうだろう。
例えば、小さい頃から、何か武道を習ってみるとか。柔道、合気道、空手……いや、剣道がいいな。なんかこう、シュッとしてカッコいいイメージがあるし。よし、剣道やろ、剣道。
なんか漫画で読んだことあるな。主人公は、一見貧弱そうで、よく不良に絡まれる。だけど本当は剣道の達人で、傘や鉄パイプでバッサバッサと不良どもをやっつけていくような話。いいねいいね。カッコいいよ。平成の侍みたいだ。
いや、まったく逆の発想で、不良になってみるっていうのも面白いのかもしれない。中学から茶髪にしてタバコ吸って、それで同級生や他校の不良にどんどん喧嘩売って、いずれ街のテッペンをつかみ取るんだ。喧嘩でオレの右に出るものはいない、ってな感じ。ああ、いいかもしれない。きっと楽しいんだろうな。親は泣くだろうけど。
そうだ、勉強を極めるっていうのも有りだな。小学校のころから神童と呼ばれて、ゆくゆくは超有名大学に現役合格。そこでも主席で卒業して、いずれは優秀な研究者なんていうのはどうだ。明るい未来じゃないか。それに金もたっぷり稼げそうだし。
なんて、理想の自分を思い浮かべていられるのも今しか出来ないよな。なんたって、僕は今、この部屋の壁のように真っ白なんだ。なんだって描くことが出来る、真っ白なキャンバスだ。何もしてこなかった人生がどんなに悲惨かを知っている今だからこそできる将来設計だ。
おお、なんだか楽しくなってきたな。うん。いいかもしれないな、人生をもう一回やり直せるって。
……ところでさ、なんか静か過ぎじゃないか。この部屋の家族たち。
普通さ、赤ちゃんが生まれたら、そいつの周り囲んでキャッキャキャッキャ騒ぐんじゃないの。それなのに、皆黙っちゃって。疲れてるお袋に気を遣って、っていうことなんだろうけど、なんだかなあ……。そういえば、この親父なんか一回も僕の顔見に来てないんじゃないか。まったく、顔に違わず冷めた奴だ。
そのとき、外からドッ、ドッ、という地響きみたいな音が聞こえてきた。まるで、大きな獣がこちらに向かって走ってきているような……。いや、これは、本当に誰か向かってきているぞ……。
ガラッ!
病室の扉が思い切り開かれた。そしてそこに立っていたのは、扉が全開まで開けられたはずなのに、廊下が全く見えなくなるくらいの巨大な男だった。だ、誰だコイツ。
「あああ、理津子、生まれたんだねえ!」
男はとんでもなくでかい声でそう叫んだ。病院内ではお静かに、というポスターが目に入らないのか。
「ああ、たっくん。やっと来てくれたのね」
さっきまでウトウトしていたはずのお袋が、明るい声で答えた。
「うん、ごめんね遅くなって。まさか、僕が出張に行っている間に生まれるなんて」
「予定日より二週間も早かったんですもの。仕方ないわ」
おいちょっと待て。一体なんなんだこいつは。この口ぶり、まるでお袋の夫みたいじゃないか。
「ああ、これが僕たちの子供だね!…………うわあ、かわいいなあ」
おい!かわいいまでちょっと間があっただろ!……じゃなくて、え、なに、僕たちの子供? 違うわ! 誰がお前みたいなデブの子供だ! 僕の親父は、さっきからそこに立っている痩せた男だろ!
「でしょう。私たちの初めての子供よ」
え、ちょっと、お袋まで何を……。
「本当にかわいいな……あ、そうだ。ごめんね理津子。たった一人きりで寂しかったよね」
「……うん、ちょっとね。私の両親は北海道だから、まだこっちには着かないだろうし」
「そっか、お義父さんとお義母さんもきっと喜ぶだろうね。あ、こっちのお袋と親父はそろそろ着くって。さっき連絡があったよ」
「わあ、わざわざ来てくれるの? 本当に嬉しい」
おいおい、なんだこれは。なんの茶番だ。じいさんとばあさんならさっきからそこにいるだろう。それに親父の妹も、お前なんかよりもずーっと前から……。
ん?
……ああ、成る程。そういうことね。なんだなんだ、そうだよね、変だと思ったんだよ。やけにみんな、辛気臭い顔しているから。
僕は首を動かして、四人の方を見る。
お前ら四人も、「今しか見えない」ってことか。