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深海

作者: 栗林

世にも奇妙な物語を目指して撃沈しました

一.二人の証言


 私たちが佐田奏と面会することが出来たのは、あの事件のあった約一週間後だった。


 奏は、彼女の親友とアパートの一室で生活しながら大学に通っていた。同じ大学、同じ学部らしい。更に二人は幼稚園からの幼馴染でもあった。


一週間前、佐田奏はその親友と二人、腹に傷を負った状態で血塗れで倒れていたのを発見された。傷は深く、傍にあったバタフライナイフが刺さったことは一目瞭然だった。発見したのは、その近くに暮らしている二人と同じ大学で、共通の友人である。

救急に連絡したものの、その場で発見者も多量の血を見たショックで貧血を起こしたという。発見者である女の子は、幸いその日のうちに体調が回復し、すぐ話を聞くことが出来た。あまり二人の事情には精通していなかったらしく、事件現場の状況以外の証言は得られなかったが。

二人とも傷を負っていたが、ナイフは一つだったこと。二人は抱き合うように倒れていたこと。

状況証言をし終えた彼女に、二人とも出血は多かったものの無事だったと伝えると、ほっとしたような残念なような、複雑な顔を向けられた。部屋にまで訪れるくらいなのに、そう仲が良くなかったのだろうかと邪推をさせるくらいの反応だった。


二人は、もしかすると心中未遂なのかもしれない。しかし、何らかのトラブルで彼女らのうちどちらか起こした事件の加害者と被害者なのかもしれない。今の時点では私たちに断定する術はなかった。

発見者の少女は気になることも言っていた。

「最近のカナは様子がおかしかったんですよ。普段は真面目で大人しくて、こっちまで畏まるような言葉遣いをする子なんですけど。最近になって少し変わったっていうか……」

 私の気のせいかもしれないんですけど――そう前置きをして彼女は奏の変化について語った。ところどころ首を傾げていたから、本当に自分の感覚に自信はないのだろう。ただ漠然と「変だった」という感覚はあるらしく、言葉が止まることはなかった。

 彼女からはそれから何度か話を聞いたが、兎にも角にも当事者たちの意識が戻らない内はどうしようもない。


 それから五日の間をあけて目覚めた奏に、やっと今日面会の許可が下りたのだ。私と、上司の黒薙警部とで並んで廊下を歩く。リノリウムの白い床が革靴のコツコツという音を反響させた。院内は靴音が響くほど静かだ。

 あからさまに警察という雰囲気を出しているつもりはないが、一般人はこちらが仕事中に纏う空気に対して敏感だった。特に、入院の長い患者というのは見慣れているのかなんなのか、他の人間より一層こちらに強烈な視線を送ってくるのがわかる。だから警察としてネクタイを締めて病院に来るのは苦手なんだと小さく溜息を吐いた。

「ここだ」

 佐田奏というネームプレートを見て私たちは足を止める。目当ての病室だ。

 警部と顔を見合わせて、あまり意味もなく互いに頷いた。ノックして「失礼します」と声をかけると、「どうぞ」と返答があった。鈴の音のような凛とした綺麗な声だ。ここは一人部屋でとっているはずだから、これが奏の声だろうか。だとすると、「奏」という名はこの声の主にぴったりだと思う。

扉を開く。スライド式だった。静かに開いたドアから中を覗く。少女と思しき影がベッドに座っているのが見えた。


警部が中に入るのに続いて、自分も部屋の中に入る。薄いブルーのカーテンや布団が目に優しく、落ち着いた雰囲気だなと思った。

 黒薙警部が、窓のそばに寄せて置いてあった椅子をベッドの近くまで引き寄せて腰かけた。私のぶんまではなかったが、年長者を立たせて自分は座ろうなどと図々しいことはさすがに思わない。大人しく、彼の隣に立って話を聞くことにする。

 黒薙警部が口を開く前に眼鏡を少し持ち上げる。この仕草は彼の事情聴取前の癖なのだ。

「ええっと。私たちの名前から言った方がいいかな。私は黒薙。こっちは部下の賀谷君。私たちは警察なんだが、あまり硬くならなくていい。リラックスして話してくれると助かるよ」


「へええ、警察の方!警察だって、カナ!」

「はあ……聞きましたよ、私だって。静かになさい」


 ベッドの上で、同じ顔・同じ声が言い争う。同じ、とはいえ喋り方や表情の動かし方などはまるで別人のようだ。

 ああ、と一方がこちらの方に目を向けて微笑む。

「すみません。私たちは双子なので」

「……双子?」

 警部は名を体で表すように黒く染まっている顔をしかめた。元々濃い皺が、ますます深く刻まれる。


「はい。私が奏で、こちらがミミといいます。深い海と書いて深海」

「よろしくお願いしまっす!」


「はあ……。しかし、佐田さん……」

 出過ぎた真似かもしれないが、でも、これは。

 そう思って口を挟もうとすると、奏本人に手をひらひらと振って拒否された。

「いいです、言わないでくださいますか。わかっているので」

「そう、わかってる。あたしもカナもね」

 揃って青白く、血色の悪そうな顔をしている。それもそうか、と納得した。出血多量で病院に運ばれたばかりなのだ。


 それを差し引くと、とても綺麗な顔をした少女だと思った。唇は何もしていないだろうにつやつやと輝いていた。釣り目気味の瞳の周りはびっしりと長い睫毛で囲まれている。でも、あまりきつい印象を与えない。


 鈴の音のような声が、交互に軽く明るい口調と凛々しく丁寧な口調で響いた。

「聞きたいこと、というのはあの日のことですよね。私が怪我をした……死に損なった日」

「カナ、そんな風に言うもんじゃないよ」

「でも事実ですよ。私は」

 奏は、唾を一度呑み込むと噛みしめるように言った。


「都に殺され損ねたんです」


 残ったのは一筋の涙の跡。





 奏はおかしくなった――発見者の少女が言っていたことが私にもようやくわかってきた。何も言わないで奏の話を聞き続ける黒薙警部もおそらく同じ気持ちだろうと思う。


 泣き続ける彼女から、事情を聞き出さねばならない。まさに、この話を聞くために私たちはここに来たのだから。

「ほら、刑事さんたち困ってるよ」

 深海が自分も涙ながらにそう言って、奏の頬の雫を拭った。

「ん……。ありがと、ミミ」

「いいって。ほら、ちゃんと話そう?あたしたちのこと。最初から」

 深海がそう言うと、奏は姿勢を正した。背筋をピンと伸ばして、私と警部を見る。

「最初から……聞かせてもらえる?」

 警部が尋ねれば、奏はこくりと頷いた。

 最初から――ことの始まりから奏は話し始める。




***


 間宮都とは、もう十年来の付き合いになるらしい。親同士の仲が良くて自然と一緒にいるようになった。よくあることだ。

 成長しても変わらず、気の合う親友同士を続けていた。高校卒業と同時に、彼女らは同じアパートの部屋で暮らすことにしたという。

 奏と、深海と、都の三人で。


「私とミミは、都以上にいつも一緒でした。……いいえ、違いますね。私たちは同じだった。カナはミミで、ミミはカナ。幼いころからずっとそうです」


 時には奏と深海は口調や服装を入れ替え、自分たちを偽って生活することもあった。都を騙したことも一度や二度ではない。家族より長い時間を共に過ごす都ですら見抜けないのだ。誰にも、入れ替わりはバレない。二人でそう言って笑った。

 三人で暮らすこと自体は、概ねうまくいっていた。

 三人で家事を分担し、生活スペースを分け、ときにそれを越えて遊んだり騒いだり。

「あの頃が一番楽しかったなー。カナも都もいてあたしがいてさ。それが全てで……良かったよねえ」





 あるとき、彼女は一人だった。



 隣に、自分の分身がいなかった。鏡のような「わたし」の片割れ。彼女がいない。

 唐突に、少女は悟った。「わたし」は一人しかいなくなったこと。何があったかはわからない。しかし、もうここにいるのは「わたし」だけ。


――わたしは誰だろう。


 奏?それとも深海?

 わからない。どちらでしょう?それともどちらでもないんだろうか。わたしは。私は。あたしは?



「ただいまー」

 玄関から都の声がした。都。都だ。あれは都だった。自分のことはわからなくても、彼女のことはわかる。

 都のことなら。


――都が「わたし」の全てだ。


「あれ、いるんじゃない。返事くらいしてよ、もう」

 何も知らない都には、「わたし」が部屋でぼうっとしているようにしか見えなかったことだろう。いつものように、笑って言った。


「ただいま、カナ」


 都は、「わたし」が決めかねた自分自身をあっさりと決めた。「わたし」をカナと呼んだ。

 ああ、そうか。私は奏だったのか。


「……おかえりなさい。都」

 深海より少し低めの声で私は答えた。だって、私は奏だったから。

「奏ったら、暗い部屋に一人でなにしてるのかなと思ってびっくりしたよ。……あれ?ミミは?今日の夕食当番あの子だったでしょ?」

 ミミ、という言葉にびくりと肩が震えた。

 片割れ。魂を分けた私自身。一体、深海はどこに行ったのでしょうか。

 私は正直にその問いに答えた。……答えを一番欲しているのは私なのだ。

「わかりません」

「またサボりかなあ。忘れてどっかうろついてるとか?よくあるもの、あの子」

 仕方ないな、と都は肩をすくめて笑う。本当に仕方のなさそうな優しい笑みで。


 深海が羨ましくなった。


 さっき都に名前をつけてもらって奏になったというのに、私は深海にもなりたくなった。その笑みを向けてもらえるのが羨ましかった。

 その夜。都が風呂に入っている間に「わたし」は深海になった。服装を真似、仕草も完璧に模倣する。

 二人だったときにもわからなかったのだ。この世に一人しかいなくなった「わたし」が深海を演じることに違和を唱える人なんてこの世には一人もいない。


 一人も……そう考えて絶望した。ああ、そうかと。もう一人の「わたし」がいなくなったことで心の片隅がぽっかりと空いた。


――感じたのは間違いなく孤独だった。


 ガタ、と物音がした。風呂場からだ。

 身体を濡らしたままの都が、脱衣所から顔だけ出してこちらを覗いた。

「ミミじゃん!遅いよ。もうご飯食べちゃった。何してたのよ、今日当番だったでしょ?」


 今回もまた、疑うことなく都はあたしを深海と呼んだ。笑っちゃう。やっぱりあたしは孤独だ。ねえ、奏。

「ごめんごめん。ちょっとだけのつもりが結構な散歩になっちゃってさあ。許して?」

「仕方ないなー。ちょっと待ってね。体拭くから。このまま続けて、風呂入っちゃってよ」


 都は、完全にあたしを深海だと思ってる。すごい。さっき奏って呼んだのと、同じだよ。全く同じだよ。同一人物なんだよ。

――そして都はすごい。あたしが迷ってた「わたし」を、一発で名づけられる。迷いなく。

 都は「彼女」の名付け親だった。


――佐田奏と深海の誕生に万歳。






 うまくいった。


それから一か月の間だ。奏も深海もそう思っていたらしい。

 確かに不自然なことは多かった。都に「カナ」と呼ばれて奏になり、「ミミ」と呼ばれて深海になるのだ。当然のように言うが、一人しかいないのに全て補えるわけがない。奏がいれば深海がおらず、深海がいるときは奏がいない。人間なのだから当たり前のことだろう。


 でも都は変な顔ひとつしなかった。二人は一人しかいない。一人が二人を演出している。さすがにもうわかっているだろうに、何も言わなかった。


「カナ、勉強教えてー」

「たまには自分でやってくださいよ。全く……」

「そう言うわりに教えてくれるんだから優しい。だからカナって好き」

 ニコニコと笑顔を浮かべる都に、奏も頬を緩める。

「ミミー、また玄関の電気消し忘れてたでしょ」

「あ、うっかりしてた。許してよ」

「もう!しっかりしてよね」

 怒った顔の都に、深海はすまなそうな顔をしながら赤い舌を少しだけ出した。



 ……不自然なりにやっていたのに。

 いつかこういうことが起こり得るのは必然だったのかもしれない。元を辿れば、二人いた自分がいざ一人になったときに、どちらなのかわからなくてこうなったのだから。

 つまり、「わたし」は失敗したのだ。

「明日ゼミの発表あったよね?あとから三瀬ちゃんが資料取りに来るって言ってた」

 三瀬……。ああ、あのそばかすにおさげをした、背の低い昔の文学少女風の子。いまどき大学生であんな風貌の人はそういない。ある意味目立つ子だ。

「ああ、そうだったね!あたしやっぱ発表とか苦手だから、都に任せるよ」

 そう言ったとき。



 初めて、都の表情にヒビが入った。



「みや……こ?」

 この時点では、彼女は自分のしでかしたミスに気が付いてなかったという。

「ああ、もう駄目だ。やめよ。もう駄目。無理」

 都は駄目、無理、とずっと繰り返していた。

 「わたし」は困惑する。一体何が。


「駄目。もう無理。……あんたさ」

――誰。



 はっとする。

 「わたし」は誰?

 都と同じゼミなのは?明日発表しないといけないのは?三瀬を知っているのは?

「私……」

 あたしじゃない。これは、私が応えなければいけない話だったのだ。もう遅い。

「ね?カナ」

 都が私を呼んだ。なら私は奏だ。

「ミミ」

 続けてあたしも呼ばれる。ならあたしは深海。



「もういいでしょ?やめよう」



 そう言った都の顔は、絶望と失望で染められていた。誰がやった。「わたし」たちが。

 もう何も考えなかった。都がナイフを取り出そうが目の前で振りかざそうが。彼女は……何も。




        ***


「では、あなた自身も都さんの殺意に対し抵抗の気持ちはなかったと?」

「ええ。そのような必要はなかったので」

「あたしが刺されに行ったみたいなものだから。都は悪くないんだ」


 私は、奏から聞いたことをメモにとっていく。……こんなメモなんて、彼女を一目見れば必要ないことがわかるけれど。

 目の前で、見事なまでにコロコロと顔の筋肉の動きから声の低さ、癖まで変えられる。高度な演技テクニックを鑑賞している気分だった。まるで、本当に二人と話をしているみたいだ。


 それを、一人の少女が一人の少女のために繰り返していた。ボロが出てしまってからも、そうしていないと生きていけなくなってしまったらしい。


「私自身は、やはり今も奏なのか深海なのか……わからないので」

 長い睫毛を伏せ気味にしながら奏が囁いた。吐息が切なげに漏れる。

 黒薙警部が黒い頬を掻きながら尋ねた。

「わからん。なんで君は死にたがってるわけでもないのに『死に損ねた』なんて表現を使うんだ?」

「そりゃ……あたしは、あたしたちは、都に作られたからさ」

 彼女は泣いていた。嗚咽と共に、心情を吐露する。



「都にもういいと言われたら、それはもう……死ぬしかないじゃないですか?」







二.一人の証言


 さっぱり理解できなかった。

「警部……」

「ああ。……最近の若い子っていうのはみんなこうなのかねえ。全く以て理解できない。理解しない方がいいような気もする」

 警部が一人ごちる。私もどちらかといえば黒薙警部より佐田奏の年齢に近いのだが、私にも彼女の気持ちは理解できない。そして、この人は歳が近いだとか、そんなことを気にしない。

 彼の世界では成人すれば大人。それ以下は子どもだった。彼の認識下で、私は大人に入れてもらえている。年配者には珍しいタイプのこの人が、私はあまり嫌いではない。


 大人として、扱ってもらっている。


「……まあここで悩んでいても仕方がない。間宮都に話を聞きに行こう。そこから掴めるものもあるかもしれない」

「それがいいでしょうね」

 ここで考えていてもきっと、現状の半分も理解できないままだろう。彼女の……もとい彼女たちの証言を聞くと、余計謎が深まっただけのような気がした。


 私たちは、再び病院内を歩く。先程よりも足取りは重い。

 進展を望んで話を聞きに行ったはずが、思ったような成果を得られなかったのだから仕方のないことだろう。

「……彼女がせめて、嘘をついてるような口ぶりだったら違ったのでしょうか」

 私が思わずそう言えば、顎に手を当てた黒薙警部が神妙な面持ちで頷いた。

「そうかもしれん。実際は嘘どころか、……あの子は本気だ。そして、深海は『いた』。それが事実だ」

 私たちがそんなことを言い合っていると、すぐ間宮都の病室に辿り着いた。彼女のいる病棟は、奏とは違う。何が起こったか把握できるまでは、二人を出会わない距離に離しておく必要があったからだ。まさか、同じ病院にいるなんて思ってもみないだろうという心理背景も逆手に取っていた。


 トントンと軽くノックする。しばらくは無音で、何の反応もなかった。眠っているのだろうか。その方がいいかもしれない。なんだか、そう思えた。

 念のため、もう一度ノックする。

 今度は二秒ほど間を空けた後、ちゃんと返事が返ってきた。「はい」と、間延びした声。活発そうな響きだ。佐田奏とは違ったいい声だと何となく思った。

 私はドアに手をかける。今度も、ドアは音もなく静かにスライドした。



 ベッドに、間宮都はいた。

 彼女は、目を伏せて小さな声でハミングを奏でていた。澄んだ高音は耳障り良く、彼女が一人で使っているこの部屋にだけ漂っていた。このヴォリュームならきっと外には漏れないだろう。

 キリが良くなったからか、彼女はしばらくするとハミングを止めた。最後まで聴いても、知らない歌だった。自作かもしれない。馴染みやすいメロディは名残惜しそうに空間に溶けた。


 間宮都が私たちに目を向けた。奏とは反対に、丸くて大きな目。少女らしい雰囲気で、奏のように「綺麗」というより「可愛らしい」女性だった。でも、あまり友好的な感じは受けない。私たちが入ってきても我関せずといった風に、好きにハミングを奏でていたことからも窺い知れるが。

 きついというよりも、挑戦的な目をしている。

 彼女たちの見かけの共通点は、雰囲気が些か中性的だということだろうか。



 警部が彼女を見据えて口を開く。

「間宮都さんだね?」

「……そうだけど。部屋の前のプレート、確認して入って来たんじゃないの?」

 可愛らしい外見に反し、美しい音色を奏でていた唇からは可愛げのない言葉が吐き出された。

 私は少しカチンときたが、さすがに警部は踏んできた場数が違う。全く意に介していないように、彼女に微笑みかけた。

「すまないね。仕事だから、ちゃんと名前の確認もしないと、と思ってね。ほら、彼女の例もあるからね」

「……誰、彼女って」

「佐田奏さんだ。君の親友の」

 都の整えられた眉がぴくりと動いた。


 私も警部も、もちろんそんな変化は見落とさない。非協力的な相手への対応は慎重に。

 しかし、意外にも言葉は彼女の方から自然と零れていた。

「……親友じゃない」

「えっ、しかし」

「親友じゃない。私たちは」

 まん丸の大きな目を精一杯吊り上げて、都は真剣な顔で言った。


「……恋人、だったの」


 沈黙。

 考えてはいなかったが、確立はゼロではない。女同士。同性愛。……恋愛は個人の自由である。咄嗟に思ったのは、そんな偽善だった。

 奏が親友だと言っていたからそう思ってはいたものの、本当のところが親友だろうと恋人だろうとどちらでもいい。


「そうか。恋人……。その恋人と何があったか聞いてもいいかな」

「……言わなきゃ帰ってくれないんでしょう、刑事さんたち」

 私たちは顔を向き合わせた。


「いや……その通り、私たちは警察だが」

「ぶ、」

 都がおかしそうに噴き出した。少し、年相応な笑い方。無理に背伸びしていない、彼女の見かけにあった表情だった。

「カナのとこ行ってきたって言うし、仕事だって言うし。じゃあ警察しかないじゃん。……カナがどうしてあんなことしたか聞きに来たんでしょ?最初に言っておくけど、あの子は何も悪くないよ」


 奏関係だと協力的なようだった。……都は、余程彼女を大事にしていたのだろうか。

 奏のところに行ったときも思ったことだが、確かに彼女らの互いを想う感覚は親友以上のものがある。

 問題は、それを奏も深海も「親友」となんの嘘も交えていない言葉で表現したことだけだった。


「彼女たちもそう言っていた。『都は悪くない』と。奏さんも、深海さんも」

「…………ミミ?」

 都の顔色が明らかに変わった。

 私たちが病室に入って来た時のような、とっつき難そうで挑むような目とは違う。奏について語っている時の、慈しむような目とも違う。

 言うならば、全ての憎悪を含んだ顔。


「深海さんがどうか……」

「誰よ、ミミって」

 都は吐き捨てるように言った。



 深海が「誰か」は正直私たちの方が聞きたかったが、そんなことはいい。

 黒薙警部は、ベッド脇の椅子に腰かけた。そして、都の言葉を待つ。私は奏のとき同様、その警部の隣に立って都を見下ろした。


「私はカナと恋人でした。私たちは、同性同士で、不自由はあったけど幸せだった。……それをぶち壊したのがミミです」

 そこまで言うと、彼女は急に興奮したように想いを溢れさせた。とめどなく、意味をなさない言葉が紡がれる。


「でも、ミミなんていない。いないの……なんで。なんでじゃあカナはああなったの」

「ああなった?」


 やはり奏や深海と、都の話は少し違う。

 私たちは少しだけ前のめりに、彼女の言葉に耳を傾けた。

「最初は、そう……最初」

 私たちは、一緒に住むことになって――彼女の話もやはりそこから始まる。




        ***


 佐田奏と間宮都の付き合いの話は両者同じだった。違うのは、愛情の点くらいだ。

「私たちは、中学生くらいのときにお互いを特別に『好き』と感じた。……別に、何も変わらなかったけどね。恋人というのも、実際ただの記号だった。私はカナの一部だったし、それはカナにも言えたはず。それだけの関係だった。それ以外の言葉で表すのは多分無理」

 都は本当に幸せそうに話す。「あの頃が一番楽しかった」という深海の声を思い出した。



 ――深海。深海とは。



 都の話は尚も続く。

 大学進学にあたって、二人で一緒に暮らすことにしたこと。アパートを借りて、家事当番を決めて。

 新しい暮らしは、順調だったという。

 都は、事が変わったその日のことを鮮明に覚えていた。

 二人でテレビを見ていた時のことだ。


「この子、少しカナに似てるね」

「え、どの子ですか?」


 ちなみに奏は、誰に対しても敬語を使う女の子だったらしい。初対面でも、仲のいい相手でも、家族でも、そして都でも、その対応は平等であった。私は、奏の丁寧な物腰を回想した。

 奏に似ている。そう言って指を指したアイドルタレント。都は、このときそんな風に言ったことをずっと後悔しているのだという。

「ほら、この子。『ミミ』っていうらしいよ」

 活発で、明るくて、軽快なトーク。それが、その番組に出ていた「ミミ」という女性アイドルだったらしい。見かけは奏にそっくりだったが、言動はかなり違う。奏は、しばらく無言でテレビを見つめていた。


 一度唇を舐めて、奏はその低い鈴のような通る声を出した。

 都は、この奏の声のトーンが好きだった。

「都は、こんなタイプが好きなのですか?」

「え?うーん……好きっちゃ好きだけど」

「……わかりました」

 奏は、無表情にこくんと頷いた。




「このとき、私たちは互いに何もわかってなかったんだ。今になって思う。私は、カナに似てるから『こんなタイプが好き』っていうのを肯定したんだ。それを、カナは」

 次の日から、奏はいなくなったのだと、都はつらそうに語った。


「カナ?」

「あっ、おっはよー都!今日の朝ご飯なーに?」

 目覚めてすぐに見た奏の表情が「佐田奏」ではないことが、都には一目でわかった。

 彼女の表情はもはや、奏で構成されてはいなかった。

 加えて、喋り方や声のトーンも奏のものではない。もうやめろと言いたくなる。

「ねえ、カナ」

「……都」

 ぴたりと動きを止めた奏が、都を見据えながら無邪気に尋ねた。



「カナってだあれ?」



 都の世界が、凍った気がした。

 目の前にいるのは、奏であって奏でない。もう、それはわかりきっていた。

 じゃあ、あんた誰。あんたの方こそ、誰。

「じゃあ、あんたは……」

「へ?……そんなの」


 彼女は、当然のように言った。

 奏も照れてあまり浮かべなかったような、綺麗な満面の笑みを浮かべて。


「ミミに決まってるじゃない!」




 都は、深海が誕生した時から彼女のことを憎んでいた。

「ミミー、また玄関の電気消し忘れてたでしょ」

「あ、うっかりしてた。許してよ」

「もう!しっかりしてよね」

 それでも穏便に、以前と同じ生活を深海と送ることができていたのは、都が奏を大事に思っていたからだ。

 都は不愉快でしかなかったが、それでも深海は「奏」だった。彼女を不幸にはしたくない。


 深海はズボラで適当な性格だった。

 奏は違う。あの言葉遣いにふさわしい、きっちりしたタイプで、どちらかといえば都は「ちゃんとしなさい」と奏に説教を食らうことが多かった。


 あの声が懐かしい。

 叱られることが好きだったわけじゃないけれど、あの説教ですら愛おしかった。ねえ、奏。

――あなたは今、どこにいるの。




 もう、膨らんでしまった違和感のヴェールでできた風船は割れる寸前だった。

 それがなぜ割れたか。きっかけは、都にもよくわからない。

 ただむかついたから。


「明日ゼミの発表あったよね?あとから三瀬ちゃんが資料取りに来るって言ってた」

 三瀬は、例の第一発見者の少女だ。奏と深海の話の時も出てきた。都も三瀬を「文学少女風の子」と表現した。

「ああ、そうだったね!あたしやっぱ発表とか苦手だから、都に任せるよ」

 そう言ったとき。

 初めて、都の表情にヒビが入った。


「みや……こ?」

――ああ、もう駄目だ。都はそう思ったという。

 奏はそんな人任せにしない。奏ならそんな投げやりな言い方しない。

そう。奏は、あんたじゃない。


「ああ、もう駄目だ。やめよ。もう駄目。無理」

 都は駄目、無理と繰り返した。吐き気と気持ちの悪さが頭の中心で渦を巻く。



「駄目。もう無理。……あんたさ」

――誰。


 耐えられない。都には、もう。

「私……」

 「彼女」は口元を抑えて呟く。これはどっち?都にとってはもうどちらでもよかった。

「ね?カナ」

 ああ、奏じゃないんだっけ。

「ミミ」

 続けて呼ぶ。ってか深海って誰だよマジで。


「もういいでしょ?やめよう」


 そう言ったとき、「彼女」の顔は絶望と失望で染められていた。誰がやった。そう、私だ。

 でも、先に裏切ったのは奏の方でしょう。

 私はあなたが好きだったのに、あなたは私を信じなかった。つまりはそういうことなのだから。

 もう何も考えなかった。奏が、深海が、ナイフを取り出そうが目の前で振りかざそうが。……何も。




        ***


「抵抗……しなかったのですか?」

「なんでする必要があるの?私は、カナが好きだった。ミミなんて存在は確かに受け入れられなかったけど、絶望したのはカナも一緒だったみたいだから。カナになら殺されてもいいかなって思ったの」

 穏やかに都は話を続ける。感情の激しい波は過ぎ去ったらしい。これほどの情熱の持ち主が、それくらい感情をコントロールできなければ、深海と生活することはできなかっただろう。

 ふ、と視線を上にあげた都と私の目線がかちりとあう。

 見れば見るほど、魅力的な子だ。それは佐田奏にも言えた。……こんなことがなければ、二人とも魅力的な少女のままだったのに。


「ねえ刑事さん。カナに会ったんでしょ?どうしてた?」


 視線をあわせたままだったから、私に対する質問だったのだろう。どうしようかと黒薙警部に目を向けると、促すように頷かれた。

 私は口を開く。

「どうしてた、とは?」

「誰として、なんて名前で生きているの?」

「……佐田奏さんは、今も深海さんと一緒ですよ。同じ体で共生しているみたいでした。あなたの話とは少し違って、半分奏さん、半分深海さんとして生きているようです」

「ふうん」


 都は、不安そうな眼差しで鼻の頭を掻いた。


「まだ、ミミもいるんだ。でも、カナでもあるんだ。……刑事さんにはわかんないかもしれないけど、私にとっては」

――奏が奏であることって、とてもすごいことなんだよ?

 緩く微笑みさえ浮かべて都は言った。

 その中に微量でも存在している彼女の狂気を思うと、私はまともには見ていられなかった。ちょっと目を逸らした。

「ふふふふ」

 楽しそうに都が笑う。


――都にもういいと言われたら、それはもう……死ぬしかないじゃないですか?

――カナになら殺されてもいいかなって思ったの。


 彼女たちは、一体……。いや、それ以前に……。






三.深海


 私たちが帰る頃、院内は少し薄暗くなっており、普通の患者の通りも少なかった。食事の時間らしいことは、看護師たちがバタバタと忙しなく右へ左へ行き来していることから知った。

「結局、なんだったんでしょうね」

「わからん」

 黒薙警部は即答した。

 怪我のためだけに入院している彼女たちも、そのうち精神科に移さなければいけなくなるかもしれない。私は、それだけ思った。

 二人とも嘘は言っていないようだ。しかし、あの話にいくらの真実があったかはわからない。話が食い違っているだとか、そんな些末な話ではない。


 もっと根本からだ。


 黒薙警部は頭をバリバリと無理矢理掻いた。

「わからん。私にはさっぱりわからん。わかっているのは、佐田奏は一人っ子で双子どころか兄弟の一人もいないこと。最近、『ミミ』なんて芸名のアイドルタレントが活躍している事実はないこと。それくらいだ」


 私は、ふうと息を吐き出して、付け加えて言う。


「それに、彼女たちは勘違いしていました。佐田奏は間宮都に刺されたと思い込み、間宮都は佐田奏に刺されたと思い込んでいます。それも間違いではありませんが、彼女たちは一様に『被害者は自分だけ』だと信じている。そして、加害者である相手は悪くないと主張している」


 刺されたのは二人とも。刺したのも同じく二人共だ。

 凶器からも、二人の指紋が検出されていた。

「まず深海の成り立ちが不明ですからね」

 黒薙警部も同じように考えていたのか、うんうんと数度頷いた。顔がしかめられ、また新たな皺が刻み込まれる。

「まあこれはあの子たちの問題になるだろう。警察が立ち入るような話でなくなるのも時間の問題だ」




「しかしまあ。気になるね。本当に」


深海とは、一体誰なのだろうね。


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