line36.保健室での二人
授業が終わり、いつも通りに部活動が始まる。ウオーミングアップに出かける皆を、及川は押し出すように声援してやった。
「今日は風も強いし、寒いけど頑張っていきましょう!」
ぽん、とたまたま近くにいた久瀬の背中を押してやる。何だよ、と一瞬嫌そうにこちらに顔を向けてから久瀬も走り出した。礼二はとっくに走りに行ってしまったらしく、姿は見えない。
最近二人の仲が離れていることに、及川は気付いていた。辛うじて一緒には帰っいるものの、ここの所礼二は朝練に早く顔を出すようになっていたし、二人でいる姿をあまり見かけなくなった。喧嘩したのかとも思ったが、普通に挨拶や会話はしているようだし、本人達も嫌そうな顔を見せていない。他に気になる事があるとすれば、礼二が久瀬を目で追う回数が増えたくらいか。
及川はやり切れない気持ちで二人に紙コップを手渡した。礼二も気になるが、最近久瀬の表情に覇気が無いのも気にかかる。久瀬に直接尋ねた所で、あの性格だから素直に喋ってくれるとは思わないが、やはり部員の体調管理も受け持っているマネージャーとしては何とかしてあげたい所。しょうがない、帰りに久瀬を呼びつけて、今度はクッキーの試食でもしてもらおうか。
そんな野暮な事を考えながらハードルをセッティングし、基礎練習が終わるのを待った。今日は五十メートルハードルのタイム測定を行う予定だ。タイムウオッチを片手に及川がゴールラインへと立つ。久瀬ともう一人の選手二名がスタートラインで構える。及川が笛を吹き、両者は一斉に走り出した。二人とも走り出しは綺麗だった。
及川は徐々に近づいてくる二人を目で凝視しながら、タイムも確認する。その、自分がちょっと目を放した瞬間だった。ドシャっと、ハードルが勢い良く倒れる音と同時に、久瀬が地面に叩きつけられていた。
「久瀬君っ!」
派手に転んだ音がしたが、測定中に離れる訳にはいかない。もう一人が息を切らしてゴールしたのと同時に、及川は走り出していた。
「美紀夫、大丈夫か!」
久瀬の元に先にたどり着いた礼二が声をかけていた。久瀬はゆっくりと砂埃を払いながら立ち上がる。
「大丈夫、ちょっと転んだだけ」
「久瀬君、大丈夫?」
追いついた及川が久瀬の背中に付いた砂を払いのけてやる。どうやら膝を擦りむいたらしく、血が滲んでいた。
「擦りむいているわね、保健室に行って消毒してもらいましょう。礼二、ちょっと手を貸してよ」
「あ……ああ」
突っ立っている礼二に声をかけたが、何やら久瀬に触れるのを躊躇しているらしく、あどけない素振りを見せる。及川は情けない礼二に苛立ちを覚えた。
「何を躊躇っているのよ! もういい、私が連れていくわ」
「いいよ、及川さん。僕一人で行けるから」
悲しそうに笑うと、久瀬はひょこひょこと左足を引きずりながらグラウンドから出て行く。そう言われても引き下がれない及川は、礼二を置いて久瀬の元に駆け寄った。
「悪いね、測定出来なくて」
「何言っているのよ! つまんない事言ってないで、早く行くわよ」
しおらしい久瀬に戸惑いながらも、二人は保健室に外から入った。椅子に座らせ、保健室の先生が擦りむいた箇所を消毒していく。久瀬は擦り傷だけでなく、何と左足首に捻挫まで起こしていた。
「随分と派手に転んだのね。軽い捻挫もしているわ。足元拭いてから包帯巻くから、じっとしてなさい」
少し肥えた保健室の先生が、久瀬のか細い足を丁寧に拭き、シップの上から包帯を巻こうとした。が、タイミングの悪い事に電話のコールがけたたましく響く。
「私、包帯巻けますから、遠慮せず電話に出て下さい」
「そう、悪いわね」
及川は先生から包帯を受け取ると、代わりに久瀬の足元に跪く。捻挫した部分を労わるように、優しく巻いてやった。
「あんた、結構器用なんだね」
「これくらいは出来るわよ」
「そっか……ありがとう」
お礼を言われるとは意外だ。及川が顔を上げると、久瀬と目が合った。
「何だよ」
「……別に。あんたがお礼を言うなんて珍しいと思っただけよ」
保健室の先生は電話に出た後、久瀬のご両親に迎えに来てもらいましょうと、職員室に行ってしまった。久瀬と二人っきりになった及川は、立ち上がるとしょぼくれている久瀬を見下ろした。
「捻挫は左足だけ? つまらない意地はってないでしょうね」
「はってないよ」久瀬が顔をあげた。「自分にまで意地悪する馬鹿がどこにいるのさ」
強がって笑う久瀬の表情に、及川は胸を痛めた。
「ねぇ、聞いてもいい? 答えたくないのなら教えてくれなくてもいいわ。礼二と何かあったんでしょ?……最近、二人でいる所を見かけなくなったわ」
久瀬は面倒くさそうに顔をしかめると、視線をそらして答えた。
「少し距離を置いているだけだよ。僕が招いた結果だから、及川さんまで気にすることはない」
「でも……あんた、とても悲しそうな顔しているわよ。喧嘩したとかじゃなくて?」
「…………」
喧嘩じゃないなら、何なのよ。男同士って、そんなに面倒臭いものかしら。及川はイライラしながら久瀬の言葉を待った。
「喧嘩までは……いかないと思う。全部僕のせいなんだ。だから、仕方ないんだよ」
「それは、謝って許してくれそうな問題なの?」
「……わからない」
久瀬は椅子から立ち上がるとよろよろと外へ出て行こうとした。
「ちょっと、何処へ行くつもりなの」
「荷物を取ってこようと思って」
「そんなの私が取りに行ってあげるから、あんたはベッドにでも寝てなさい!」
煙たがる久瀬を無理矢理ベッドに寝かしつけると、及川は靴を引っ掛けて部室へと走った。素早く彼の制服と荷物を持って戻って来ると、ちょうど保健室の先生も帰って来た所だった。
「ご両親に連絡した所、すぐこちらに迎えに来られるそうよ。久瀬君はお家どの辺かしら?」
「M町です」
「なら、後三十分もすれば着くわね。あなたも彼の荷物を届けてくれて、ありがとう」
「いえ……」
及川は恥ずかしそうに照れると、久瀬が寝ているベッドの横に荷物を置いた。
「荷物、これで良かった?」
「うん。悪いね、及川さん」
すっかり弱りきっている久瀬に、張り合う気持ちにはなれない。及川は椅子をベッドの近くまで持っていくと、そこに腰を下ろした。
「もう大丈夫だよ。それより部活に戻った方が良いんじゃないの?」
「あっちには礼二がいるし、大丈夫よ。両親が迎えにくるまで、私がここにいてあげるから」
何となく今の久瀬には、誰かが側にいてあげた方がいい気がする。それが余計なお世話だとしても、及川は保健室から出る気にならなかった。
「そんな事言って、部活さぼりたいだけなんじゃないの?」
迷惑そうに久瀬が笑う。及川は「失礼ね」と一喝した。
「ごめんごめん。及川さんが珍しく優しいから、ちょっと気持ち悪いと思っただけだよ」
捻挫しても、相変わらずの毒舌は健在のようだ。及川はため息をついた。
「前から思っていたんだけど、あんたって遠慮して物を言わないのね」
「そうだね。ま、昔から優しい方じゃないけど」久瀬がちらっと及川の方を見た。「何? もしかして優しくして欲しいとか?」
綺麗な横顔の久瀬に一瞬ドキッとした。何て台詞をさらっと吐く男なのだろう。及川は咳払いをして空気を正した。
「素直になって欲しいわね。あんた、だいぶひねくれ者だし」
「それはどうも。ねぇ、もうすぐバレンタインだけどさ、礼二君に告白でもするの?」
意地悪そうな顔で尋ねてくる。わかっている癖に。及川は「そのつもりだけど」と言って突っぱねた。
「そう、上手くいくといいね」
意外な答えが返って来たので、思わず眉をひそめた。
「あんた、私のこと嫌っていたんじゃないの?」
「嫌いだよ。でも、羨ましい」
そう言った久瀬の瞳は、とても悲しげだった。彼に何があったのだろうか。これ以上かける言葉が見つからず、お互い静かに迎えを待つ。しばらくして久瀬は母親と共にお礼を告げて帰って行った。母親に支えられて歩く彼の後ろ姿は、とても切なかった。




