line31.大晦日、兄と川原にて
大晦日。俺は朝早くからバイト先に向かう。今日は遠藤がいないので、まだ気が楽だった。雅美おばさんと今年最後の仕事を終えると、別れ際に可愛らしいイラストの入った小袋を貰った。お年玉だ。
「少し早いけど、みんなには内緒だからね。礼ちゃん、また来年もよろしく! 」
「あ、ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」
寒い中元気に手を振って別れる。思いがけない収入に心が弾み、俺は思わず袋の中を見た。何と五千円も入っていた。
もう雅美おばさんに迷惑かけられないな。俺は口元を緩ませると、それを大事そうに財布の中にしまった。
年末年始恒例の紅白歌番組を見ながら、皆で年越し蕎麦を食べる。こうして家族総出で年明けを迎えられるのは、実は幸せなことかもしれない。俺は当たり前の光景をしみじみと思いながら、蕎麦つゆを啜った。午後十一時も過ぎると、小学生の兄弟達は眠気に負けたのか、次々とリタイヤしていった。俺と優二兄、考二の三人で一つのテレビを囲む。両親達は寝室の方で、こっそり晩酌をしているようだった。
「礼二、ちょっと散歩に行かないか? 」
優二兄がこたつから出ると、俺の返事も聞かずにコートを羽織る。俺も仕方なく立ち上がり、自分の部屋からダウンジャケットを持ってくると、一人テレビの前に座っている考二に声をかけた。
「お前は行かないのか? 」
「寒いし、遠慮しておくよ。二人でどうぞ」
優二兄の方を見ながらやんわりと断る。考二の奴、いっちょ前に人の顔色伺いやがって。俺達はすました考二をおいて外に出た。今夜は風があまり吹いていないとはいえ、やはり寒い。俺と優二兄はポケットに手を突っ込みながら、肩を並べて川沿いの道を駅とは反対方面に進む。
「やっぱりこっちも寒いな。まぁ、雪が降っていないだけましか」
白い息を吐きながら、雲一つない夜空を見上げる。兄貴は現在東北で一人暮らしだから、この季節は毎日雪を拝めていることだろう。それに引き換えこちらは太平洋側だから、滅多に雪は降らない。俺達はしばらく川のせせらぎを聴きながら歩いた。
「最近、お前の様子が変だとさ。考二が俺に任せるって」
考二め。やはり一枚噛んでいたか。俺は軽く舌打ちすると「そうかもしれない」と素直に呟いた。
「確かに少し元気なさそうだな。俺でよかったら、話くらい聞いてやるよ」
ぽん、と背中を叩かれて一瞬泣きそうになる。この気持ちを、正直に話してもよいものだろうか。兄貴に引かれやしないか。しばらく躊躇っていたが、自分でもどうしようもない気持ちだと気付き、正直に白状する事にした。
「優二兄、笑わないか? 」
「笑うかよ。とんでもない話以外ならな」
「……俺、男が好きかもしれない」
改めて口に出してみて、俺は自分の情けなさから顔を背けた。認めたくなかった美紀夫に対する感情。しかし、確実に芽生えつつある感情。俺は唇を噛んで、恥ずかしさを必死に堪えた。
「そうか……って、俺じゃないよな? 悪いけど間に合っているぜ? 」
冗談まじりに笑い飛ばす。俺は慌てて否定した。
「違う、同じクラスの奴で……最初は、双子の姉の方が好きだったんだ」
俺は兄貴に美紀夫とみおの事、そしてふられて今度は美紀夫に傾きそうな気持ちを事細かく説明した。その間兄貴は黙って頷き、何か考えついたように口を開いた。
「お前は多分、混乱しているんだ。美紀夫君は常に一緒にいる友達だから、情が移りやすいかもしれない。しかし肝心のみおさんの方は、お前も二度しか会っていない。いくらメールで事前にやり取りがあったにしろ、実際に会って話すのとは違う。礼二はまだ、みおさんが見えていないんだ。まずは相手の事をきちんと知るべきだな。それから結論を出すのも遅くはないと思うぞ」
相手の事を知る。確かにみおとは二度会っただけで、まだ全てを把握出来た訳ではない。それに引き換え美紀夫とは、毎日と言っていいほど一緒にいる。兄貴が言うには、顔が同じ事から既にややこしいのだから、多少二人が重なって見えてしまうのも仕方がないのだろうとの事。
「でも、俺はみおさんに会えないと思う。最後にもう一度会って謝りたいって、メールを送ったけど、結局返信は返ってこなかった」
「番号も知らないのか? 」
「……教えてくれなかった」
俺はため息をつくと、立ち止まった。兄貴がどうしたのかと振り返る。
「兄貴は引かないのかよ。俺、男の美紀夫の方が好きなのかもしれないんだぜ? 」涙が出て、思わず右手で覆った。「でも、美紀夫と一緒だと、楽しい自分がいるんだ。それが友達としてなのか、恋人としてなのかよくわからないんだよっ……! 」
苦しくてその場で嗚咽する。ふと自分もみおと同じ事をしているのに気付いた。あの時のみおも、このような気持ちだったとでも言うのか。
「少し落ち着け、礼二」
優二兄が俺を抱きかかえるように道路の端まで誘導すると、そこから一段下りたコンクリートの堤防に俺を座らせた。その隣に兄貴も腰をかける。街灯の僅かな光で、お互いの顔が辛うじて見える薄暗い場所だった。
「お前が誰を好きになろうが、俺は立派だと思うけどな」石を拾うと、手の上で転がして遊ぶ。「人を好きになるってことは、時には自分が考えている以上に難しい事だ。誰かを好きになると言うことは、その相手の全てを受け入れなければならない。勿論100% 自分の理に叶う事は、まずない。どこかで必ず妥協しなければならないし、相手が見えない時は、自分が信じてやるしかない……礼二はまだ、彼女の事が好きなんだろ? 」
わかるようでわからない兄貴の言葉に、泣きながら頷く。
「……ふられたけど、諦めきれない」
「それは理由もなく、一方的に断られたからだな。とにかくもう一度本人と会って、納得のいく理由を聞かせてもらえ」優二兄が俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。「それにしてもお前は、また妙な相手を好きになったな」
しゃくり声をあげながら、俺は涙を拭いた。
「言われてみれば、確かに」
「彼女の男性恐怖症がどれほど深刻なものか、恐らく男の俺達にはわからない。だから、そのトラウマも含めて全部を受け止める必要があるんじゃないのか? 」持っていた石を、川に投げ入れる。「苦しい事かもしれないが、まずは彼女を知って、きちんと好きになるように努力しろ。美紀夫君の事はそれから考えろ。同時に二つのことは無理だ」
今度は勢いをつけて投げたのか、ぼちゃんと大きな音がした。俺も兄貴のマネをして石を投げ入れる。川には入らずに、遠くの方で草むらが鳴った。
「優二兄の言いたいこと、何となくわかった。俺、二人を同時に見ていたから、美紀夫の事まで好きなのかと錯覚していたのかもしれない」
「それが、錯覚じゃなかったりしてな」
人ごとだと優二兄が笑う。俺は「そうじゃないと困る」と力づくで石を川に投げ入れた。どぼんと、深くまで潜った音がする。
「ま、どっちにしろ頑張れ。遠くから応援してやるからさ」ぽん、と俺の頭を叩いて立ち上がる。「そうだな……礼二には先に言っておこうかな」
「何を? 」
「俺、大学を卒業したら、結婚しようと思う」
「結婚!? 」
俺は驚いて優二兄を見上げた。兄貴の表情は薄暗くてよくわからなかったが、恥ずかしそうに頭を掻いている。兄貴の彼女は、確か中学時代から長年付き合ってきた人だったはず。その相手と、結婚まで考えていたなんて。スケールの違いに、俺は開いた口が塞がらなかった。
「お、おめでとう……兄貴達は付き合って相当長いもんな。遠距離でも続いているんだから、凄いよ」
「へへ、ありがとう」照れくさそうに笑う。「あいつは今、後遺症と戦いながら絵を描き続けている……俺はそんなあいつの側にいてやりたいんだ。お姉さんが強敵だけどな」
真剣な瞳で真っ直ぐ未来を見据えている。かっこいい兄貴だと、俺は心底思った。普通の男なら、面倒な相手を嫁にもらおうとは思わない。しかし、目の前にいる兄貴はそれですら受け止めて、二人で前に進もうとしていた。
「今の話は、親にも兄弟達にも内緒な。お前のホモ発言も内緒にしておいてやるから」
「まだホモと決まった訳じゃねぇよ! 」
笑いながら優二兄にパンチをくらわす。先程までの、自分の悩みが嘘のように笑い合えた。やっぱり、優二兄に相談して正解だった。もう一度、みおを好きになろう。もう一度、彼女に会おう。そう決心がついた時、遠くの方から除夜の鐘が聞こえた。新しい年の幕開けだった。俺と優二兄は思わず顔を見合わす。
「ほら、このまま初詣と行こうぜ。明けましておめでとう」
優二兄が手を差し出す。俺は迷わず右手を差し出した。
「……明けましておめでとう」
照れくさそうに言うと、兄貴が思いっきり俺の手を掴んだ。
「いてぇ! 」
「お前……本当は怪我治っているだろ」そのまま俺の腕を引っ張り、前腕で素早く首を締め付ける。「下手に心配させやがって! 」
「うわっ、ギブギブ! すいませんでしたぁ! 」
「ばーか」
笑いながら何度か絞め技をくらった後、俺達はのろのろと近くの神社に向かって歩きだした。家に帰る頃には、すっかり初日の出が顔を出していた。