Kapitel.45
扉を閉めて、急に夏紀の態度が変わるなんてことはなかった。
夏紀は椅子に座り、真央にベッドの上を示す。真央は一瞬躊躇したが、渋々ベッドに座った。
「悠翔さんから聞いたかな。彼がここにいた理由」
夏紀は静かに口を開く。真央が首を横に振ると、夏紀は驚いたような顔をした。
「あ、聞いてないの?」
そして思い出すように言う。
「初めて彼と会ったのは電車の中だった。あの事故現場に偶然居合わせてね。私は傍観者のつもりだったけど、見つけちゃったのよ、彼を」
そう言って、いたずらっぽく夏紀は笑う。
「一目惚れだったな。なのに、彼は貴方を守るように倒れていた」
夏紀の表情が曇る。真央は少し眉を顰めた。
私を守るようにって……。
「嫉妬心が芽生えたわ。おかしいってわかってるけど、一目惚れした相手に彼女がいることが許せなかった。私は、ここから近くの知り合いの病院に彼だけを入院させたわ。彼の記憶が戻ったら貴方の元に帰るのは承知だった。でも、少しでも彼との繋がりが欲しかったのね。でも、彼は記憶喪失だった。その時思ったの。神様は私にチャンスをくれたんだって。同時に、彼は私の物だって、もう貴方の物じゃないのよって、顔も知らない貴方に叫んだ」
夏紀は真央を見る。真央は、俯いたまま夏紀とは視線を合わせなかった。
「彼は何も覚えてなかった。自分の名前も貴方のことも、自分がどこにいたか、自分に何が起こったか、両親も友達も、何もかも忘れていた。だから、私は彼に教えてあげたの。名前は山野龍。私は貴方の彼女だってね」
真央は顔を上げ、驚いたように夏紀を見た。夏紀は真央を見下したように笑っている。
「でも、彼はそう簡単に信じなかった。でも、信じる以外になかったよ。だって思い出せないんだもの。彼女のふりも簡単だった。だって覚えてないんだもん。でも、彼も直感的に感じてたみたいね。私が彼女じゃないってことは」
夏紀は天井を見上げてうっとりと言う。
「でも幸せだった。彼は彼なりに私を愛してくれた。記憶こそないものの、彼も私を信じようとして、愛してくれた……。幸せだった。なのに、貴方と会って彼は変わったわ。貴方にあった彼の反応を見て、察してはいたけど。そんで記憶を取り戻したなんてさ」
夏紀は溜息を吐いた。
「正直に言うと、彼を奪った貴方が憎い。貴方さえいなかったら、彼は私の物だったのに」
真央の中で何かが切れた気がした。両手を握りしめ、小さく呟く。
「意味わかんない」
夏紀は真央を見下す。
「あんた、自分勝手すぎるんじゃないの?悠翔はあんたのもんじゃない。自分の立場を弁えたらどうなの?」
真央の科白に、夏紀は顔を強ばらせる。
「なんですって」
「あんた、他人のことなんて考えたことないでしょ。それも、悠翔のことさえもね。良いこと教えてあげる。悠翔はあんたといたって幸せにはなれない。所詮、あんたの自己満足よ」
「何、それ……。貴方のせいよ。貴方のせいで彼は変わったの。貴方さえいなかったら……、貴方さえ……。あんたなんか、死んでしまえばいいのよ!」
真央は、声にならない叫び声をあげた。
「……ごめん。いろいろと迷惑かけて」
悠翔はぼそりと呟く。沙紀は首を振った。
「良いの。短い時間だったけど、龍……、いや、悠翔さんがどうだったかはわからないけど、私と姉さんは幸せだったもん」
そう言って沙紀は笑って見せる。
「悠翔さんは私の初恋の相手だけど、悠翔さんは真央の側にいてあげなくちゃいけないもんね。佑月が言ってたの。真央は悠翔さんがいなくなって凄く苦しんだ。自分には悠翔さんの代わりは務まらないから、早く悠翔さんに帰ってきてほしいって」
悠翔は驚いた。まさか、佑月がそんなことを言っていたとは。
「でも、よく考えたら、悠翔さんは縛り続けてきたのは私たちなのよ。私たちの満足の為に、悠翔さんも佑月も高野くんも真央も苦しめてたんだって知った時思ったの。早く真央の元に、みんなの元に返してあげなきゃって」
沙紀は苦笑する。悠翔は何も言えなかった。
「……でも、問題は姉さんよ」
そう言って、夏紀の部屋の扉を見る。
「悠翔さんもわかると思うけど、あんな性格だからさ。何をし出すかわからないし……。悠翔さんは渡さない、なんて言いかねないよ」
「それでも僕は真央を選ぶ」
「それは良いけど…。その時、姉さんが何をするか……」
「あんたなんか、死んでしまえばいいのよ!」
不意に、扉の向こうから夏紀の叫び声が聞こえた。
沙紀は一瞬にして顔面蒼白になる。悠翔は勢い良く扉を開けた。