Kapitel.30
悠翔が帰ってから、一樹は秀に明日真央を休ませるとメールを送ると、返信の代わりに電話がかかってきた。
「え、どうしたんですか?」
『んあ、いや。どうしたのかって思って……』
秀の歯切れが悪い。一樹は気にせず言った。
「ちょっと熱出しちゃって。明日は念の為休ませます」
『今真央は……』
「寝てますよ。多分疲れも出てきたんだと思います」
『そうか…。熱って、何かあったのか?』
「…疲れが出てきたんでしょう」
悠翔のことは言うべきだろうか。けれど、真央は悠翔と会うことを内緒にしていたし、容易に話さない方が良いのかもしれない。
『……一樹、何か隠してるよな』
秀の冷たい言葉に、一樹は顔を引き攣らせた。
……、秀さんを欺くのは無理だし、このままじゃあ姉ちゃんも無理をするだけだよな……。
「……姉ちゃんには内緒にしてくれますか」
真央は寝てるはずで、一階にいる一樹の声が真央の部屋に届くことはないとは思うが、念の為一樹は小声で言った。
「あ、出来たら佑月さんにも言わないでくれると……」
『……わかった』
秀が神妙に返事をする。
一樹は深呼吸をして、真央が突然家を飛び出してからの経緯を簡単に説明した。
『……なるほどな』
一通り話を聞いた秀は、溜息と同時に言葉を発する。『そりゃあ風邪引くだろ』
「ですよね」
『つか、悠翔は明日も来るんだろ?大丈夫か』
「まぁ、多分姉ちゃんを殺そうなんて考えてるとは思えませんから」
一樹が真剣に言うと、秀は吹き出した。
『そこまで考えられてたらおしまいだよ。そういう心配はしてねぇって』
秀に笑われ、一樹は少し顔を赤くする。
『明日、俺も帰り寄ろうか?』
秀がふいに真剣に言ってきた。
一樹はつい食いついてしまう。
「っ、本当ですか!」
『ん、明日遅くなるのか?』
「え、いえ。そういうんじゃないんですけど。ちょっと買い物に行きたくて」
『あぁ』
「別に、悠翔さんを信じてないわけじゃないんですけど、やっぱ記憶がないので、ちょっと心配なんです」
『そうだなぁ。大至急帰ったとしても四時半になっちまうけど良いか』
「全然構いません。僕が家に帰って、出かけるのがそれくらいになりますよ、きっと」
『じゃあ、すれ違いになるかな』
「そうなります……って、あれ。秀さん、部活はないんですか」
『んあ。あったっけなぁ』
秀がとぼける。本当に忘れてるのか、ないことにしてるのか……。
「でも、よろしくお願いします」
「真央、大丈夫なの?」
玄関で、佑月が心配そうに言う。
雨は夜のうちに止んだようで、しかしまだ道路は濡れているし、曇っていた。気温も低い。
「多分……、部屋に行きますか?」
一樹が提案すると、声を聞いていたかのように真央が階段を下りてきた。
「姉ちゃんっ、何してるの。寝てなきゃ」
一樹が慌てて駆けつけると、真央は肩で息をしながら呟くように言う。
「学校…行くよ……」
「何言ってるの。絶対に駄目」
「でも……、授業が……」
一樹についてきた佑月が、一樹に変わって真央を支え、真央を説得させながら部屋に誘導していく。
「ノートは秀のを写せば良いし、真央の頭だったら一日くらい休んでも平気よ。だから、今日と明日と明後日と休んで、月曜に行こう、ね?」
真央と佑月が階段を上がっていく。
秀は小声で一樹に言った。
「……真央には言ってないのか。あいつが来るって」
「はぁ、それどころじゃなくて。というか、姉ちゃんさっきまで寝てましたし」
「じゃあ驚くだろうなぁ」
「でも、嬉しいと思いますよ」
「だと良いが……。ところで、あいつはいつ来るんだ」
「八時前に来てくれるよう言いましたけど」
「じゃあ俺は会えないわけか」
「まぁ、秀さんはともかく、佑月さんと会わせたら混乱するでしょう」
「だろうなぁ」
秀が呟いたとき、佑月が真央の部屋から出てきた。
「落ち着いたか?」
秀が声をかけると、佑月が小さい声で答えた。
「うん。真央本人も、動くのが辛いようだったから。ちょっと言ったら渋々って感じで納得してくれた」
「んじゃあ、俺らも行くか。電車に間に合わなくなるし」
「そだね」
そう言って、二人は出ていった。
時計を見ると、七時二十分過ぎ。悠翔が来るにも、一樹が学校に行くにも、十分時間がある。
もう少し早く来てもらえば良かった、と一樹は少し後悔した。
一樹は階段を上がって、真央の部屋に入る。
「姉ちゃん……、大丈夫?」
一樹が声をかけると、真央は拗ねたように言った。
「あーあ。無欠席を目指してたのに」
「昨日、あんな濡れて帰ってくるからだよ。あれじゃあ風邪引いてもおかしくないだろ」
「仕方ないじゃん。雨が降ってきたんだから」
真央が、ふいっと顔を背ける。一樹は肩を竦めた。
「ちゃんと寝てるんだよ」
「あぁ、一樹も学校なのか」
「昼はうどんでも食べて。冷蔵庫に入ってるから」
「えー。私がやらないといけないのー」
「まぁ、悠翔さんがやってくれるよ」
言ってから、一樹ははっとした。
「は?」
真央もぽかんとしている。
しまった、つい言っちゃった。
「……どゆこと?」
真央が空耳じゃないことを確かめるように言う。
一樹は眼を泳がせた。
「……悠翔が、なんだって?」
一樹はふうと息を吐いて、覚悟を決めて口を開く。
「だから、悠翔さんが来てくれるんだ。俺がいない代わりに、姉ちゃんを看病してくれるって」
「……な、なんでそんなことになってるの」
真央がゆっくりと身体を起こす。
「昨日、悠翔さんが看病したいって言うから。姉ちゃん一人じゃ心配だし、頼んどいたんだよ」
「……そう」
真央がそっと息と一緒に言葉を吐き出した。