Kapitel.29
「姉ちゃん、大丈夫かな」
一樹は強くなった雨を眺めながら呟く。
真央が出ていって、一時間近く経った。携帯に電話をしてみたが、生憎部屋に置きっぱなしだった。
一樹が溜息を吐いた時、家のインターホンが鳴った。
「姉ちゃん!」
携帯を忘れるくらいだから、鍵を忘れてもおかしくない。一樹は走って玄関へ行き、勢い良くドアを開けて、
「……え、えぇええええ」
大声を出した。
そこには、雨に濡れてびしょびしょになった真央を、同じく雨に濡れてびしょびしょになった悠翔がおぶっていた。
なんとなく状況を把握した一樹は、大至急沢山のタオルと着替えを持ってきた。
まず、真央を降ろし悠翔にタオルを差し出す。
「これで拭いて下さい」
「あ、はい……」
素直にタオルを受け取るが、悠翔も真央が心配で仕方がない。
一樹が真央を軽く拭きながら呼ぶ。
「姉ちゃん、起きて!姉ちゃん!」
すると、真央はゆっくり瞼を開けた。
「姉ちゃん、大丈夫?家に着いたよ、安心して」
一樹が言い聞かせるように言うと、真央は小さく頷いた。
「まず、これ。タオル渡すから、自分の身体拭いて。着替え持ってくるから、自分で着替えて」
洗面所は玄関から入ってすぐ右にある。真央に着替えを渡し、一樹は洗面所の扉を閉めた。
「……ちゃんと拭いて下さい」
閉められた扉をじっと見る悠翔に、一樹が半ば呆れたように言う。
「へ、あぁ、すいません」
一樹に言われて我に返ったように悠翔は返事をした。
そんな悠翔を、一樹は信じられないように見る。
この人は、誰だ。
話に聞いていても、実際に記憶のない悠翔を見るとショックを受けてしまう。悠翔は、一樹のことは全く覚えていないようだった。
突然、洗面所の扉が開いた。一樹と悠翔は驚いて見る。そこには、無理に笑った真央がいた。
「姉ちゃん、大丈夫なの?」
一樹はとっさに真央を支える。
「大丈夫だよ。ちょっとくらくらするくらいだから」
一樹の質問に、真央はゆっくりと答えた。一樹は大丈夫じゃないと判断する。
「とにかく寝よう。姉ちゃん絶対熱あるよ」
そう言って真央を部屋に誘導する。
「あー、タオルそこに置きっぱな……」
真央が振り向きながら言うと、一樹は強い口調で遮った。
「そんなことは良いから寝て。明日学校でしょ」
「………」
真央は素直に階段を上がる。ふと真央は振り返って、不安そうに佇んでいる悠翔に笑いかけた。
「あの、貴方も僕のことを知ってるのですか?」
一樹に貸してもらった服を身に纏い、リビングへ案内された悠翔は、恐る恐る口を開いた。
一樹は悠翔にお茶を出し、悠翔の真正面に座りながら返答の代わりに訊く。
「……僕のこと、覚えてないんですか」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないですよ、きっと、仕方ないんです……」
一樹は呟くように言って、お茶を一口飲んだ。
「僕は吉岡一樹、真央の弟です」
「あ、えっと。僕は……山野龍です」
自己紹介をしようとして、悠翔は一瞬躊躇う。
一樹は悠翔の科白に眉を顰めた。
「……姉の方からどれだけ聞いてるんですか」
「えっと、幼なじみだったということくらいしか……」
付き合っていた、なんて思ってもないのかなぁ。
一樹はつい溜息を吐いてしまう。
「一樹……さんも、僕とは幼なじみになるということですよね」
「……そういうことになりますね」
悠翔にさん付けで呼ばれ、なおかつ丁寧語で話されるというのは、なんとも違和感を感じる。
「あの、僕のことを教えてください」
一樹が肩を落としていると、悠翔が身を乗り出すような勢いで言った。一樹は、あまりの強い口調にあっけにとられてしまう。
「……え」
「……知りたいんです、自分のことを。けど、真央さんは何も教えてくれないし……。自分でもちっとも思い出せそうもなくて……」
「姉が何も言わないのなら、僕からは何一ついえませんよ」
ごにょごにょ言う悠翔に、一樹ははっきりと言い払った。
「自分で思い出してくれないと、意味がないのです」
そう悠翔に言い聞かせる一樹。
悠翔は肩を落とした。
そのあまりにも可哀想な悠翔の姿に、一樹はつい同情してしまう。
確かに、記憶を失うというのは辛いことだろうなぁ……。
「……じゃあ、ちょっとだけ……」
一樹が呟くように言うと、悠翔は勢い良く食いついてきた。
「……姉ちゃんにとって、貴方はとても大切な人ですよ」
悠翔は眼を見開いた。
とてもって、どれくらいだろう。悠翔以上、なのかな……。
「僕に言えるのはもう……」
「あ、ちょっとだけ。というか、あと一つだけ訊きたいことがっ」
口を噤もうとする一樹に、悠翔は慌てて言う。
「あの、悠翔、という人を知ってますか」
悠翔の科白に、今度は一樹が眼を見開き、悠翔を凝視した。
そんな一樹を見て、悠翔はピンとくる。
知ってるんだ……。
「どんな人なんでしょう。あの、今はどこに……」
今訊かなければ、と思った。
悠翔は慌ててまくし立てる。
一樹は辛そうに眼を伏せた。
そんな一樹を見て、悠翔は自分の考えに確信が持てた気がした。
……やはり、悠翔はもう……。
そんな悠翔の考えも知らず、一樹は一生懸命に笑顔を作って言う。
「……凄く、良い人ですよ」
本当は、悠翔と真央が付き合っていたのかも訊きたかった。けれど、なんとなく、もう何も訊けない空気が漂っているのを感じた為、悠翔は仕方なく口を噤む。
話を変えるように、一樹は明るく言った。
「もう帰った方が良いんじゃないんですか?」
「へ。あぁ、そう……ですよね……」
そうは言うも、悠翔は天井を見上げて帰ろうとしない。真央が心配なのだ。
「……あっ」
暫く天井を見上げてると、悠翔が唐突に声をあげた。
一樹は驚いて悠翔を見る。
「熱、あるんですよね」
「へ。あぁ、はい」
突然希望が持てた、なんて顔をしている悠翔に訊かれ、一樹は不意を突かれる。
「明日までに下がりますかね」
「いやぁ、下がったとしても安静にしてた方が……」
「明日、学校あるんですよね」
「けど、休むしかないでしょう。まぁ、本人は行く気満々でしょうけど」
「貴方も、学校ですよね」
「まぁ。でも、僕がいなくなったら看病する人がいませんから……」
「僕にやらせて下さい!」
「え?」
悠翔が勢い良く立ち上がって、身を乗り出しながら叫ぶように言った。
「僕学校に行ってないんです。だから、時間はあります」
「え、けど……」
「お願いします!」
一樹が迷っていると、悠翔は頭を下げた。
悠翔の行動に、一樹はただただ驚かせられる。
「……わかり、ました」
一樹は、悠翔に負けて承諾した。
悠翔の顔が晴れる。
「じゃあ、明日の朝、八時前に来て下さい」