Debug 001: 声を探して
【ラムダ視点】
「お姉さまが、わたくしのことを気に入らないと申しまして……!」
少女の泣き声が、広間に響いておりました。
私の異母妹――クロージャが、両親の前で涙を流していました。
「ラムダお姉さまは、いつもわたくしに冷たくなさるのです……!」
それは、嘘でした。
私は何もしておりません。
ただ、この少女がモジーラ侯爵家の次期当主の座を狙っていることを、知っているだけです。
「ラムダ。 クロージャにそのような態度を取っているというのは本当か」
父の声は、既に答えを決めているような響きでした。
「いいえ、お父様。 私は何も――」
「嘘です! お姉さまは昨日も、わたくしの刺繍を馬鹿にしたのですわ!」
「そのようなことは申しておりません。 私はただ、糸の色が素敵だと――」
「ほら! やっぱりお姉さまはわたくしのことを見下していらっしゃる!」
クロージャは涙を拭いながら、両親に縋りつきました。
その姿を見て、母が溜息をつきました。
「ラムダ。 妹に優しくできないのですか」
「お義母さま、私は――」
「もういいわ。 今日は部屋にお戻りなさい」
その言葉に、私は口を噤みました。
クロージャの涙の向こう側で、私だけに見える微かな笑みが浮かんでおりました。
あの頃から、全てが狂い始めたのです。
私の言葉は、次第に誰にも届かなくなっていきました。
そして――
◆◆◆◆◆
「……っ」
目が覚めました。
いえ、正確には「目が覚めた」という表現は、今の私には相応しくありません。
闇の中で意識が戻った、というべきでしょうか。
私の視界には、何も映りません。
あの日から、ずっと。
「……嫌な夢」
久しぶりに見ました。
シープラ帝国のモジーラ侯爵家を追い出される前の、まだ目が見えていた頃の記憶です。
あの国では、貴族同士が他人を蹴落とすのは日常茶飯事でした。
異母妹の嘘泣きに翻弄され、両親からの信頼を少しずつ失っていった日々。
そして最後には、目を――
「考えても仕方のないことです」
今はルビー王国におります。
温厚な王が治めるこの国は、あの帝国とは比べものにならないほど穏やかです。
私はベッドから身を起こしました。
魔力を放出します。
自分だけの波長を持つ魔力が、360度に広がっていきます。
壁、床、天井、窓、扉。
反射して戻ってくる魔力から、部屋の形が立体的に浮かび上がります。
魔力感知。
目を失った私が、この世界を「見る」ための術です。
本日は護衛の依頼……。
嫌な夢で始まる朝。幸先が不穏です。
ですが、仕事は仕事。
私は寝間着を脱ぎ捨て、動きやすい服に着替えました。
◆◆◆◆◆
朝の空気は冷たいです。
宿を出て、私は街の外周を走り始めました。
日課の朝駆けです。
魔力感知を全方位に展開しながら走るのは、かなりの集中力を要します。
ですが、この訓練を怠れば、いざという時に動けません。
「ふっ……ふっ……」
石畳を蹴る足音が規則正しく響きます。
街の外周を三周。
息が上がる頃には、体も温まっておりました。
「次は……」
宿に戻り、裏庭に回ります。
鞘から剣を抜き、素振りを始めました。
一振り、二振り、三振り。
目が見えなくなってから、私はレイピアを主武器に選びました。
細身の剣は、魔力感知で把握した相手の急所を、最小限の動きで突くのに適しております。
「……ふっ」
百回。
汗が額を伝います。
「……ふっ」
二百回。
腕が重くなってきます。
「……っ」
三百回。
呼吸が乱れます。
ですが、止まりません。
あの日から、私は弱くなることを自分に許しておりません。
目を奪われ、家を追われ、それでも生きております。
生きて、いつか――
「……よし」
五百回を終え、剣を鞘に収めました。
嫌な夢の澱が、汗と共に流れていくような気がいたしました。
「さて、気合を入れて参りましょう」
今日の依頼を、無事にこなす。
それだけを考えればいいのです。
◆◆◆◆◆
冒険者ギルドの前で、依頼主の商人と合流しました。
「ラムダ殿ですな? 本日の護衛、よろしくお願いいたします」
「はい、よろしくお願いいたします」
商人は中年の男性のようです。
声と立体的な特徴から推測するに、やや小太りの体格。
そして、その後ろに四人の人影。
今回の護衛任務を共にする冒険者たちです。
「俺たちも護衛だ。 よろしくな、嬢ちゃん」
リーダー格らしき男が声をかけてきました。
ですが私の魔力感知は、彼らの微妙な変化を捉えておりました。
心拍数の上昇。体温の変化。そして、顔面の筋肉の動き。
そう、にやけていました。
四人全員が、私の体を舐め回すように見ているのが、顔の角度から分かります。
「……見えてますよ」
私は静かに告げました。
「そのにやけ面、出発までになんとかしてください」
「へっ……?」
「私は目が見えないとお思いかもしれませんが、魔力で感知しております。 あなた方の視線が、どこに向いているかも含めて」
沈黙が落ちました。
気まずそうな咳払いが聞こえます。
「わ、悪かった……」
「反省してくださっているなら結構です。 では、参りましょう」
私は先に歩き出しました。
背後で、男たちがこそこそと話し合っておりました。
「なんだよあいつ。 目見えねぇのに分かんのかよ」
「怖ぇな……」
「でも、いい体してたろ?」
「シッ、聞こえてるって」
聞こえております。
全て。
……幸先が不安だとは思っていましたが、このような面子で本当に大丈夫なのでしょうか。
胸の奥で、不吉な予感が燻っていました。
◆◆◆◆◆
東の森に入って、一刻ほど。
空気が変わりました。
「……お待ちください」
私は足を止めました。
「どうした?」
「何かの死骸があります。 前方、十歩ほど」
魔力感知が捉えた形状。
動物のようですが、原形を留めておりません。
近づいてみると、鼻を突く異臭が漂ってきました。
「うわっ、なんだこりゃ……」
護衛の一人が声を上げます。
「鹿か? いや、でかすぎる」
「熊だ。 森熊の死骸だぜ、これ……」
「森熊を殺せるモンスターなんて、この辺りにいたか?」
不穏な会話が交わされます。
私は死骸の状態を魔力で「視ました」。
体中に溶けたような爛れがあります。
酸か、毒か。
「……毒ですね」
「毒?」
「この爛れ方。 毒蜥蜴の可能性があります」
商人が青ざめた気配がしました。
「毒蜥蜴だと……!? そんな凶悪なモンスターが、どうしてこの森に!?」
「通常の毒蜥蜴なら、森熊を仕留めるほどの力はありません。 ですが……」
狂暴化。
最近、森のモンスターが狂暴化しているという噂を聞いておりました。
「引き返した方がよろしいかと――」
私がそう発した、その時でした。
「グォォォォ!」
咆哮。
魔力感知が、巨大な生命反応を捉えました。
前方から、凄まじい速度で接近してきます。
「来ます! 全員、散開を――」
言い終わる前に、それは姿を現しました。
体長三メートルを超える、巨大な毒蜥蜴。
そして液体にまみれたの鱗。
滴り落ちる毒液。
狂気に満ちた目。
「ひっ……!」
商人が悲鳴を上げました。
「ば、化けモンだ……!」
護衛たちも動揺しております。
まずい。
この反応では、連携など望めません。
「魔法を! 物理攻撃は効きません!」
私は叫びました。
毒蜥蜴の鱗は、通常の武器では貫けません。
これほどの巨体なら尚更です。
そう、魔法でなければ――
「グァァァ!」
毒蜥蜴が口を開きました。
「伏せて!」
私は咄嗟に地面に身を投げました。
直後、ブレスが頭上を通過します。
「ぎゃああああ!」
悲鳴。
護衛の一人が、まともにブレスを浴びておりました。
「くっ……!」
私は剣を抜き、毒蜥蜴に斬りかかりました。
ですが予想通り、鱗に弾かれます。
「効かない……!」
「お、俺たちも……!」
残った護衛たちが武器を振るいます。
ですが誰の攻撃も、毒蜥蜴の分厚い鱗を貫けません。
「グルァ!」
毒蜥蜴の尾が薙ぎ払われました。
「がはっ……!」
護衛が二人、同時に吹き飛ばされます。
「魔法使いは!? 魔法が使える者は!?」
私は叫びましたが、返事はありません。
そうでした。
今回の護衛は、全員が近接戦闘型だったのです。
魔法使いがおりません。
これほどの巨体には、魔法しか通用しないのに――
「グォォォ!」
再びブレス。
私は回避しましたが、最後の護衛が倒れました。
商人は既に気を失っております。
「くっ……!」
私は魔力を集中させました。
魔法を放つには、『感知』に使っている魔力を一時的に絶たなければなりません。
つまりその瞬間、私は完全な闇の中に放り出されます。
ですが、今は他に手がありません。
「炎よ――」
詠唱を始めた瞬間、毒蜥蜴が突進してきました。
魔力感知を維持しながらでは、詠唱の速度が遅いのです。
「くっ……!」
回避と詠唱を同時にこなせません。
どちらかを捨てなければ――
「グルァァァ!」
毒蜥蜴の爪が迫ります。
避けられません。
詠唱を中断し、身を捩りました。
ですが、遅かったのです。
「がっ……!」
腹部に、焼けるような痛み。
毒の爪が、脇腹を抉っておりました。
体が震えます。
毒が、全身を蝕んでいくのが分かります。
「まだ……です……」
私は剣を杖代わりに、立ち上がりました。
ですが、視界が――いや、魔力感知が霞んでいきます。
毒のせいで、魔力の制御が乱れております。
「ここで……死ぬわけには……!」
まだ、やり残したことがあります。
いつか義眼を手に入れて、再びこの世界を見たいのです。
あの侯爵家に、私が間違っていなかったと証明したいのです。
こんなところで、死ぬわけには――
「グォォォ!」
毒蜥蜴が、とどめを刺そうと近づいてきます。
もう、動けません。
これで、終わり――
その時でした。
風が、吹きました。
何かが、私の前を横切りました。
金属と鱗が激突する音。
毒蜥蜴の悲鳴。
そして――
意識が、途切れました。
◆◆◆◆◆
「――ダさん。 ラムダさん」
声が聞こえます。
「ラムダさん、目が……。 ああいや、気が付きましたか?」
ゆっくりと、意識が浮上していきます。
「……ここは?」
「冒険者ギルドの治療室です。 よかった、意識が戻って」
商人の声です。
私は身を起こそうとして、先ほどまであったあの痛みがないことに気付きました。
「……私は、どうして」
生きていたのでしょうか?
あの状況で?
助かるはずがありません。
「助けていただいたのです。 あなたも、私も、護衛の皆さんも」
「助けて……?」
「ええ。 黒い外套を纏った男が現れて、あの化け物を一撃で倒したのです」
商人の声には、畏敬の念が込められておりました。
「一撃で……あの毒蜥蜴を?」
「信じられませんでしたが、この目で見ました。 ただの鉄の剣で、あの巨大な怪物を両断したのです」
それは、ありえません。
毒蜥蜴の鱗は、通常の武器では傷一つ付けられないのです。
「それから、その男は皆さんの傷を治して回っていました。 魔法も使わずに……まるで、神業のようでした」
「傷を……治した?」
私は自分の脇腹に手を当てました。
爪で抉られたはずの傷が、ほとんど塞がっております。
そして、猛毒。
あれほど体を蝕んでいた毒が、完全に消えております。
「その方は、今どちらに?」
「それが……救援の冒険者たちが到着する前に、姿を消してしまったのです」
「姿を……消した?」
「ええ。 名前も告げず、礼も受け取らず。 まるで、最初からいなかったかのように」
商人は深く頭を下げました。
「ラムダさんのおかげで、私も命を救われました。 護衛の報酬は、もちろん全額お支払いします」
「いえ、私は何も……」
私は今回護衛として、何の役にも立てませんでした。
助けてくれたのは、その謎の男です。
「その方の特徴を、もう少し詳しく教えていただけますか?」
「黒い外套を深く被っていたので、顔はよく見えませんでした。 ただ……」
商人が少し考え込みます。
「外套の隙間から、金色の髪が見えました。 それと、目が……碧い目をしていたような気がします」
金髪に、碧い目。
私には確認のしようがありません。
色という概念は、今の私には存在しないのです。
ですがその特徴だけでも、手がかりにはなります。
「……分かりました。 ありがとうございます」
私はベッドから降り、服を整えました。
「どちらへ?」
「その方にお礼を言いたいのです。 ギルドで調べてもらいます」
◆◆◆◆◆
冒険者ギルドの受付です。
「申し訳ございません。 冒険者の情報は、ギルド規定によってお教えすることができません」
受付嬢の声は、丁寧ですが冷淡でした。
「金髪で碧い目、黒い外套を着た男性です! 何か、手がかりだけでも――」
「規定ですので」
「護衛の報酬を受け取りに来たはずです! 少なくとも、名前だけでも――」
「お客様、規定は規定です。 これ以上お話しできることはございません」
門前払いでした。
私は唇を噛みました。
「……分かりました。 失礼いたします」
ギルドを出ると、夕暮れの空気が頬を撫でました。
いや、空気の温度が下がっているのを感じただけです。
夕暮れの色など、私には分かりません。
「どうすれば……」
命を救ってくれた人に、お礼も言えません。
その人がどんな姿をしているのかすら、自分の目では確かめられません。
「金髪で、碧い目……」
商人の言葉を反芻します。
ですが、その色が、どんなものなのか。
もうずっと昔に失った私にとって、それはもう思い出せるものではありませんでした。
◆◆◆◆◆
宿に戻り、湯船に身を沈めました。
傷ついた体を労わりながら、私はぼんやりと考えておりました。
金髪。
以前、点字の本で読んだことがあります。
太陽の光を閉じ込めたような、明るく輝く色。
碧い目。
澄んだ空の色。
あるいは、深い海の色。
「……どんな方なのでしょう」
お湯の中で、私は呟きました。
あの一撃で毒蜥蜴を倒すほどの実力者。
名乗りもせず、礼も求めず、去っていく潔さ。
きっと、強くて、優しくて、どこか寂しげな方なのではないでしょうか。
そんな想像が、頭の中で膨らんでいきます。
「背が高くて……凛とした佇まいで……」
妄想が止まりません。
「きっと、声も落ち着いた低い声で……」
そこまで考えて、私は湯船の中で硬直しました。
「……何を考えているのですか、私は!」
顔が熱いです。
お湯のせいだけではありません。
「これではまるで、恋する乙女のようではありませんか……!」
そんなはずはありません。
私はただ、命を救ってくれた方にお礼を言いたいだけです。
借りを返したいだけです。
恋愛感情など、あるはずがありません。
相手の顔も知りません。
声も聞いておりません。
「……声」
そう、声です。
私は目が見えない代わりに、耳はいい方です。
一度聞いた声は、忘れない自信があります。
「せめて一言くらい、声を聞かせてくれていれば……」
ぼそりと、呟きました。
声さえ聞ければ、いつかその方を見つけた時に、確信を持てます。
あなたがあの時の方ですねと、間違いなく言えます。
「……未練がましいですね」
私は苦笑しました。
お湯に顔を半分沈めて、ぶくぶくと泡を立てます。
命を救われたのだから、お礼を言いたいのは当然のこと。
それ以上でも、それ以下でもありません。
……はずです。
◆◆◆◆◆
数日後。
私は街外れにあるバー『静寂の杯』を訪れました。
情報屋がいるという噂を聞きつけたのです。
店内に入ると、静かな空気が漂っておりました。
客はまばら。
話し声も小さいです。
魔力感知で店内を「見渡す」と、奥のテーブル席にフードを被った人影がありました。
あれが情報屋でしょう。
「こちら、空いてますか?」
私は情報屋の向かいに座りました。
「空いてるのは席だけだ」
「では席を借ります。 口は借りません」
「……何が知りたい?」
合言葉を口にすると、情報屋が身を乗り出す気配がしました。
「金髪で、碧い目の男を探しています」
私は静かに告げました。
「黒い外套を羽織っていたので、それ以外は……」
「ほう。 そいつは、何かしたのか?」
「いえ……助けていただいたのです。 私と、商人たちを」
情報屋が興味深そうな気配を漂わせます。
「助けた? それなら礼を言えばいいだろう」
「それが……目が覚めた時には、もう姿がなかったのです」
私は事情を説明しました。
毒蜥蜴との戦い。
意識を失う直前に見た黒い影。
気付いた時には傷も毒も消えていたこと。
「ふむ……。 それで、礼が言いたいと?」
「ええ、それもそうですが」
私は一度言葉を切りました。
「……必ず、お礼を言いたいのです」
その言葉に、どれほどの想いが込められているか。
情報屋には、おそらく伝わっていないでしょう。
「分かった。 心当たりがあれば、連絡する」
「お願いいたします」
私は情報料を置いて、席を立ちました。
◆◆◆◆◆
店を出ようとした時、カウンター席に座っている男の気配を感じました。
「……彼は?」
「ん? ああ、嬢ちゃんは見えねぇのか。 ありゃ最近ここに来るようになった男だな。 細身だが、黒髪だよ」
魔力感知では、凹凸以外の特徴は分かりません。
分からないのなら、しらみつぶしに探していくしかありません。
きっとまだ、この近くにいるはずです。
「――絶対に探し出してみせます」
私は、誰に言うでもなく呟きました。
いや、店内にいる誰に対してでもなく。
「借りは、必ず返します」
それは、宣言でした。
あの日、私を救ってくれた人への。
「必ず見つけて、お礼を申し上げます」
私は扉に手をかけました。
「……待っていてください」
最後にそう呟いて、バーを後にしました。
金髪で、碧い目の男。
その声を、私はまだ知りません。




