Case 003: サニタイジング
気付けばこの世界に来てから、一週間が経っていた。
現実世界の時間がどれくらい進んでいるのかは分からない。
俺は宿の天井を眺めながら、ぼんやりと考える。
「……そろそろ、俺の身体が心配になってくる頃だが」
VRヘッドセットを装着したまま、丸一週間。
水分も食事も摂っていない。
普通に考えれば、脱水症状でとっくに病院送りだ。
由仁からの連絡は、相変わらずない。
「……あいつも、結局俺を裏切ったのか」
口に出すと、少し胸が痛んだ。
唯一信用できると思っていた親友。
だが、この状況を見る限り、俺をこの世界に閉じ込めたのは由仁以外に考えられない。
「まあ……」
俺はベッドから起き上がり、窓の外を見た。
朝日が街を照らし、遠くで鳥が鳴いている。
「如何せん、脆弱性が多すぎる以外は普通に楽しいんだよな」
投げやりに呟く。
裏切られたのかもしれない。
騙されたのかもしれない。
だが、不思議と絶望はなかった。
現実世界に帰っても、待っているのは一人暮らしの部屋と、無職という肩書きだけ。
それならバグだらけのこの世界でセキュリティチェックをしている方が、よほど充実している。
「さて、今日も情報収集に行くか」
俺は黒髪のアドミンの姿のまま、宿を出た。
◆◆◆◆◆
『静寂の杯』
この一週間で、俺の定位置はすっかりこのバーのカウンター席になっていた。
「水です」
いつものように、バーテンダーが無言でグラスを差し出す。
「……ああ」
俺は水を受け取り、一口飲んでからカウンターに肘をついた。
このバーにいる時は、基本的に聞く専門だ。
自分から話しかけることはないが、周囲の会話は自然と耳に入ってくる。
今日も店内には数人の客がいて、低い声で何かを話し合っている。
「……だからよ、もう三日も帰ってきてないんだって」
「マジかよ。 あの商人、結構な護衛をつけてたろ?」
「それでも駄目だったんだ。 森のモンスターが狂暴化してるって噂、本当らしいぜ」
俺の耳がぴくりと反応した。
商人が帰ってこない。モンスターの狂暴化。
「護衛は何人だったんだ?」
「五人って聞いた。 冒険者を五人も雇ってたらしい」
「五人でも駄目か……」
「街に魔物が溢れ出したらやべーぞ」
会話が途切れたところで、俺はバーテンダーに目を向けた。
「……何かあったのか?」
珍しく自分から質問を投げた。
バーテンダーは少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「……仕入れ先の商人が、戻らないのです」
「仕入れ先?」
「酒の材料を運んでくる者です。 このままでは、店の酒も……」
言葉は途中で切れたが、意味は分かった。
商人が戻らなければ、このバーの営業にも支障が出る。
俺の数少ない居場所が、なくなるかもしれない。
「……森は、どこだ」
「東の森でございます。 ですが、危険かと」
「聞いてない」
俺は水を飲み干し、カウンターに金を置いた。
バーテンダーは何も言わず、小さく頷いただけだった。
◆◆◆◆◆
宿に戻り、チェックサムの姿に切り替える。
金髪碧眼の美男子。
この姿で行動する時は、世界に干渉する時だ。
「……だが、この見た目は目立ちすぎる」
先日、冒険者ギルドで絡まれたことを思い出す。
金髪碧眼というだけで、やたらと視線を集めてしまった。
俺は押し入れから黒い外套を引っ張り出し、深く被った。
フードを目深にかぶれば、顔はほとんど見えなくなる。
髪の色も、目の色も、隠せる。
目立たず動くには、これくらいが丁度いい。
「さて……」
まず、装備を整える必要がある。
管理者ツールを開き、所持アイテム欄を確認した。
『鉄の剣 ×1』
『革の鎧 ×1』
『干し肉 ×10』
先日、冒険者として活動するために最低限の装備を揃えておいた。
鉄の剣は、この世界では弱い部類の武器らしい。
中級以上の冒険者は、魔力を帯びた剣や、特殊な金属で作られた武器を使うそうだ。
だが、俺にはまだ魔法が使えない。
魔法を使うには、この世界の「詠唱規則」を理解する必要があるらしいが、生憎まだここに来て1週間だ。
今の俺にできるのは、自分のステータスや所持アイテムを弄ることだけ。
「……なら、これを弄るか」
俺は鉄の剣のステータス情報を開いた。
『鉄の剣』
『攻撃力: 10』
『付加価値: なし』
『強化値: +0』
強化値。
鍛冶屋に素材と金を払えば上げられるパラメータだが、上限は普通+10程度らしい。
「最大は+99みたいだな、じゃあ+99にしてみるか」
俺は強化値を「+0」から「+99」に書き換えた。
『強化値: +0 → +99』
『変更しますか? [Yes/No]』
「Yes」
『変更完了』
『鉄の剣 +99』
見た目は何も変わらない、ただの鉄の剣。
初期ステータスはゴミ同然だが、これで数値上は最強クラスの武器になったはずだ。
「……さて」
準備は整った。
俺は東の森へ向かった。
◆◆◆◆◆
森に入って三十分。
異常はすぐに分かった。
「……瘴気か?」
空気が淀んでいる。
木々の葉は変色し、地面には動物の死骸が転がっている。
明らかに、何かがおかしい。
さらに奥へ進むと、それは突然現れた。
「グォォォォ!」
巨大な毒蜥蜴。
体長は三メートルほど。
紫色の鱗に覆われた体から、毒々しい液体が滴り落ちている。
「……あれが狂暴化したモンスターか」
体のあちこちに傷がある。
おそらく、先に来た護衛たちと戦った跡だろう。
中途半端に傷つけられたせいか、モンスターは異常なほど興奮していた。
「グァァァ!」
俺を見つけた瞬間、毒蜥蜴が口を大きく開いた。
嫌な予感がして、俺は咄嗟に横に跳んだ。
直後、毒蜥蜴の口から紫色の液体が噴射された。
猛毒。
液体は俺がいた場所を直撃し、地面の草がジュウジュウと音を立てて溶けていく。
「危ねえ……!」
だが、完全には避けきれなかった。
飛沫が腕にかかり、焼けるような痛みが走る。
『状態異常: 猛毒』
『HP: 500 → 480 → 460 → ……』
体力がみるみる減っていく。
このままでは数分で死ぬ。
「……ちっ」
俺は管理者ツールを開き、自分のステータスを確認した。
『状態異常: 猛毒』
この値を、消せばいい。
『状態異常: 猛毒 → なし』
『変更しますか? [Yes/No]』
「Yes」
瞬間、腕の痛みが消えた。
体力の減少も止まる。
「俺にそういうのは通用しない」
声に出して言ってみたが、内心はヒヤヒヤだった。
もし状態異常を消せなかったら、今頃死んでいた。
自らのステータスを弄れる能力がなければ、あの一撃で終わっていた。
「グォォォ!」
毒蜥蜴が再び襲いかかってくる。
今度は逃げなかった。
「行くぞ」
俺は鉄の剣を抜き、正面から迎え撃った。
強化値+99の鉄の剣。
見た目はただの鉄の塊だが、その切れ味は異常だった。
一閃。
毒蜥蜴の前足が、まるで豆腐を切るように両断される。
「グギャァ!?」
悲鳴を上げるモンスター。
だが、俺は止まらなかった。
二閃、三閃、四閃。
紫色の鱗を切り裂き、毒々しい血が飛び散る。
最後に、頭部を一撃。
「……終わりだ」
毒蜥蜴は、動かなくなった。
◆◆◆◆◆
モンスターを倒した後、俺は周囲を見回した。
「……いたか」
少し離れた場所に、人影があった。
倒れている。
おそらく、件の商人と護衛たちだろう。
俺は駆け寄り、状況を確認した。
商人らしき中年の男が一人。
護衛の冒険者が四人。
そして――
「……っ」
俺は、息を呑んだ。
そこには、一人の女性が倒れていた。
長い銀髪が、地面に広がっている。
尖った耳が、乱れた髪の隙間から覗いている。
エルフだ。
だが、俺の目を引いたのは、彼女の耳ではなかった。
目元に巻かれた、黒い帯。
盲目。
彼女は、目が見えないのだ。
それなのに、その姿は美しかった。
銀髪は絹糸のように滑らかで、月光を織り込んだかのような輝きを放っている。
目を隠す黒い帯は、むしろ神秘的な雰囲気を醸し出し、彼女の端正な顔立ちを際立たせていた。
尖った耳は、まるで体のバランスを取るかのように左右対称の美を描いている。
エルフ特有の繊細な造形が、彼女の横顔に気品を与えていた。
そして、目を逸らそうとしても逸らせなかったのは、その体つきだった。
護衛用の軽装鎧の上からでも分かる、豊満な胸。
くびれた腰から続く、丸みを帯びた臀部。
すらりと伸びた手足は、しなやかでありながら確かな筋肉を備えている。
美しさと色気と戦士としての実用性が、矛盾なく同居している。
「……いかん」
俺は頭を振った。
こんな状況で何を見ているんだ。
彼女たちは瀕死なんだぞ。
気を取り直し、管理者ツールを起動する。
彼女のステータスを確認しようとして――
「……は?」
俺は固まった。
『ラムダ』
『種族: エルフ』
『年齢: 30』
『性別: 女』
『身長: 168cm』
『体重: 52kg』
『スリーサイズ: B92 / W58 / H89』
『HP: 102/350』
『状態異常: 猛毒』
『職業: 冒険者』
『スキル: 魔力感知』
『出身: シープラ帝国・モジーラ侯爵家』
シープラ帝国って、いかにもオブジェクト指向な名前じゃねぇか。
それにモジーラ侯爵て……どこぞの丸い狐のマークが家紋になってたりしないだろうな……?
いや、それより。
スリーサイズ。
なんでステータスにスリーサイズが入ってるんだよ。
というか、B92って。
いや、見れば分かるが、数値で突きつけられると余計に気まずい。
「……いや、今はそれどころじゃない」
俺は動揺を押し殺し、状況を整理した。
商人も、護衛たちも、全員が「猛毒」状態だ。
HPも残りわずか。
このままでは、全員死ぬ。
だが、俺が弄れるのは、自分のステータスだけだ。
……いや、待て。
本当にそうか?
さっき毒蜥蜴を倒した時、俺は自分の「猛毒」を解除した。
自分のデータを書き換えられるなら、他人のデータも書き換えられるのでは?
「やってみるか……」
俺は恐る恐る、ラムダのステータスに手を伸ばした。
案の定、編集マークが右下にあった。
『状態異常: 猛毒 → なし』
『変更しますか? [Yes/No]』
編集できる。
他人のデータも、編集できる。
「Yes」
瞬間、ラムダの顔色がわずかに良くなった。
苦しそうだった呼吸が、少し楽になる。
「……できた」
俺は急いで、他の全員の「猛毒」も解除していった。
商人、護衛一、護衛二、護衛三、護衛四。
全員の毒を消し終えた後、次はHPだ。
一人ずつ、体力を回復させていく。
『HP: 102/350 → 350/350』
『HP: 25/200 → 200/200』
『HP: 33/180 → 180/180』
「……よし」
全員のHPが、最大値まで回復した。
俺は大きく息を吐いた。
他人のステータスを弄れる。
これは、俺の能力が一段階上がったということだ。
自分だけでなく、他人も救える。
「……まあ、だからって何も変わらないがな」
俺は立ち上がり、周囲を見回した。
遠くから、複数の足音が聞こえる。
おそらく、救援の冒険者たちだろう。
モンスターが倒されたことを確認して、近づいてきたのかもしれない。
「……行くか」
俺はその場を離れた。
誰にも見られないように。
誰にも感謝されないように。
それが、俺のやり方だ。
◆◆◆◆◆
数日後。
俺はいつものように、アドミンの姿で『静寂の杯』のカウンターに座っていた。
「……そういえば、商人は無事だったのか」
何気なく呟くと、バーテンダーが小さく頷いた。
「ええ。 ……酒も、届きました」
「そうか」
それだけで十分だった。
俺はエールを一口飲み、カウンターに肘をついた。
すると、バーの扉が開いた。
入ってきたのは、一人の女性だった。
銀髪。尖った耳。そして、目元に巻かれた黒い帯。
ラムダだ。
俺は思わず顔を背けた。
「……っ」
なぜここに来る。
いや、冷静に考えろ。
俺は今、アドミンの姿だ。
あの時のチェックサムとは、髪の色も目の色も違う。
バレるはずがない。
だが、俺の目は別のことに引きつけられていた。
ラムダは迷いなく店内を歩いている。
テーブルの角を避け、椅子の脚をかわし、他の客にぶつかることもなく、まっすぐ奥へ向かっていく。
……おかしい。
彼女は盲目だ。目元に巻かれた黒い帯は、あの時と同じ。
なのに、まるで見えているかのように歩いている。
倒れていた時には気付かなかった。当然だ、動いていなかったのだから。
だが今こうして歩く姿を見ると、その不自然さが際立つ。
「……魔力感知、か」
俺は小さく呟いた。
あの女のステータスを覗いた時、スキル欄に「魔力感知」と書かれていた。
周囲の魔力を感知することで、障害物や生き物の位置を把握しているのかもしれない。
視覚の代わりに、魔力で「視て」いる。
この世界ならあり得る話だ。
ラムダはカウンターではなく、奥のテーブル席に座った。
そこには、フードを被った怪しげな男が座っている。
情報屋だ。
このバーには時々、そういう輩が出入りしている。
「こちら、空いてますか?」
「空いてるのは席だけだ」
「では席を借ります。 口は借りません」
「……何が知りたい?」
映画で見たような合言葉の応酬に、思わず古き厨二心がくすぐられてくる。
だが、その後に発された言葉で俺ははっと現実に引き戻された。
「……金髪で、碧い目の男を探しています。 外套を羽織っていたので、それ以外は……」
ラムダの声が、静かな店内に響いた。
外套。
俺は心の中で頭を抱えた。
あの時、フードを深く被っていた。顔の造形までは見えなかったはずだ。
風でフードがめくれた一瞬に、髪と目の色だけは見られたのかもしれない。
いやだが、奴は目が見えないんだよな?
どうして色がわかったんだ?
「ほう。 そいつは、何かしたのか?」
情報屋が興味深そうに身を乗り出す。
「いえ……助けていただいたのです。 私と、商人たちを」
「助けた? それなら礼を言えばいいだろう」
「それが……。 目が覚めた時には、もう姿がなかったのです」
ラムダの声には、切実な響きがあった。
「気付いた時には、毒も傷も治っていました。 まるで、魔法のように」
「ふむ……。 それで、礼が言いたいと?」
「ええ、それもそうですが……。 必ず、お礼を言いたいのです」
俺は黙ってエールを飲んだ。
礼など、いらない。
俺は自分の居場所を守るために動いただけだ。
このバーの酒がなくなったら困る。
それだけの話だ。
「分かった。 心当たりがあれば、連絡する」
情報屋とラムダの会話が終わったようだ。
俺はカウンターに金を置き、席を立った。
今日のところは、帰るか。
これ以上ここにいると、何かボロが出そうだ。
扉に手をかけた、その時だった。
「――絶対に探し出してみせます」
背後から、凛とした声が聞こえた。
振り返ると、ラムダがまっすぐこちらを向いていた。
いや、違う。
彼女は目が見えない。
こちらを「見て」いるわけではない。
だが、その言葉は確かに、この場にいる誰かに向けられていた。
「借りは、必ず返します」
それだと仕返しするように聞こえるぞ、おい。
「……」
俺は何も答えず、バーを出た。
◆◆◆◆◆
夜風が頬を撫でる。
「……はあ」
俺は大きくため息をついた。
美人に追いかけられている。
これは本来、喜ぶべきことなのだろう。
銀髪のエルフ美女。スタイル抜群。盲目という神秘性。
ラノベの主人公なら、喜んでフラグを回収するところだ。
だが、俺は全く嬉しくなかった。
むしろ、胃が痛い。
「なんで俺を探すんだよ……」
金なんて増やせるからいらねぇし、そいつが礼を求めてないことだってあるだろうが。
「クソ真面目なヤツめ……。 大人しく助けられて、『生きててラッキー』で、それでいいじゃねぇかよ……」
人間不信な俺にとって、美人だろうがなんだろうが、関わりたくないんだ。
「……面倒なことになった」
俺は宿への道を歩きながら、頭を掻いた。
「慣れないことは、するもんじゃないな……」
だが自分が受けたあの猛毒の痛みと、あの死屍累々の光景が。
どうしても現実世界で起きていることのように思えてしまって、嫌だったんだ。




