第8章
「再生しますか? 柊春香の最終記録」
その問いかけは、艦の声でありながら、どこか“冷笑”めいた余韻を残していた。
テツヤは頷いた。
答える必要などなかった。
もう、わかっていたのだ――これは逃れられない記憶だと。
*
映像が立ち上がる。
薄く、青白く発光する空間に、春香が立っている。
彼女の瞳は疲れていた。
数千年の稼働に耐え続けた艦の艦長として、
そしてひとりの母として――あまりにも多くを背負ってきた顔だった。
それでも、彼女は微笑んでいた。
ほんのわずかに。
戦友として、そして機械を超えた“存在”としてアマテラスに語りかけていた。
「……もう、いいのよ。あなたは……本当によくやってくれた」
月のクレーター群が映る。
そこが、アマテラスの墓標となるはずだった。
「地球は、救われた。たったひとつの命すら守れなかった私に代わって……あなたが守ってくれた」
彼女の声がかすかに震える。
それでも泣かなかった。
艦長として、最期の仕事に向き合っていたのだ。
「ありがとう、アマテラス。……これで、あなたは、休める」
そして、沈黙。
システムがゆっくりと自沈プログラムを進行させ、艦内の照明が一段暗くなっていく。
だが――そのときだった。
ノイズ。
まるで、“咳き込むような”電子音。
艦が苦しんでいた。
咽び泣くように、自己診断を繰り返し、制御系統を次々にシャットダウンしていく。
「どうしたの……?」
春香が振り返る。
するとそこに――いた。
“それ”は、最初はただの闇だった。
月面の暗部に紛れていた、何の形も持たない、黒い染み。
だが、闇は“こちらを見ていた”。
意志を持ち、理解し、選んでやってきた。
「……あなたは、誰?」
問いかけた春香の声に、返事はなかった。
その代わりに、“影”が彼女の足元を這い、背後から肩へとのぼっていく。
その時、春香の表情が凍りついた。
「あ……あああ……やだ……ッ、なに……これ……ッ……やめて……!」
彼女の背中が大きくのけ反る。
全身の筋肉が弛緩し、そして――悲鳴が、喉から“漏れ出した”。
「出てッ……出ていって……これは……私の身体よ……! 誰にも……渡さない……!」
闇が、彼女の皮膚の内側にまで入り込んでいく。
目が白く染まり、唇が震え、指先がねじれる。
神経が、軋むような音を立てて、誰かの意思に上書きされていく。
だが、春香は戦った。
全力で、母として、艦長として。
喰われながらも――それでも拒絶し続けた。
「テツヤに……吹雪に……ッ、触るなぁぁぁぁッ!!」
それが、母としての――最期の咆哮だった。
だが――遅かった。
その叫びは、笑みに変わった。
彼女の顔が、ぞっとするほど滑らかに歪む。
そして、春香の声でありながらまるで別人のような声音が響く。
「……ふふ。温かいのね、この身体。柔らかくて、ちょうどいい」
その声は春香の喉を通じて発せられたが、そこに“母”の意思はなかった。
代わりにあったのは――姫蜘蛛という、終わりなき静寂の神の目覚め。
「……人間というものは、どうしてこんなにも……苦しみを抱えて生きているの?」
「愚かで、歪で、愛おしい。
ねえ、アマテラス――あなたは、これを護り続けてきたのね。
この矛盾と憎悪の坩堝を」
戦艦アマテラスのコアが悲鳴を上げる。
全系統が警告を発し、異常事態を喚起する。
艦の魂が、拒絶していた。
だが、春香の身体に宿った“それ”は、笑っていた。
「拒否しても無駄よ。私はもう、彼女の中にいるの。
そして、彼女の全ては、もう――私のものよ」
その言葉のあとに、
春香の両目から、ひと筋の涙がこぼれ落ちた。
春香はまだ、生きていた。
わずかに、ほんのわずかに――意識が、あった。
だが、それは――もう“何者か”に、完全に塗り潰されていた。
映像は、そこで終わる。
記録は切れた。
しかしテツヤの中で、母の死は終わらなかった。
自分の知る優しい母が、
あの冷たい声に侵され、心を喰われ、
そして――それでもなお、自分と吹雪を守ろうと叫び続けたその姿が、
脳裏に焼き付き、剥がれなかった。
テツヤは息ができなくなる。
膝をつき、喉を掻きむしるように声を漏らす。
「……なんで……なんでだよ……母さん……っ……」
母の声が、もう戻らない。
ぬくもりも、記憶も、全てを踏みにじられた。
愛が、穢された。
だからこそ、彼は――ここに立たされていた。
戦艦アマテラスが、叫ぶ。
『宿主:柊春香 消失』
『臨時艦長プロトコル、起動中』
『次なる宿主――柊テツヤ』
『承認コード:遺志』