表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/89

第8章

「再生しますか? 柊春香の最終記録」


その問いかけは、艦の声でありながら、どこか“冷笑”めいた余韻を残していた。


テツヤは頷いた。

答える必要などなかった。

もう、わかっていたのだ――これは逃れられない記憶だと。



映像が立ち上がる。

薄く、青白く発光する空間に、春香が立っている。


彼女の瞳は疲れていた。

数千年の稼働に耐え続けた艦の艦長として、

そしてひとりの母として――あまりにも多くを背負ってきた顔だった。


それでも、彼女は微笑んでいた。

ほんのわずかに。

戦友として、そして機械を超えた“存在”としてアマテラスに語りかけていた。


「……もう、いいのよ。あなたは……本当によくやってくれた」


月のクレーター群が映る。

そこが、アマテラスの墓標となるはずだった。


「地球は、救われた。たったひとつの命すら守れなかった私に代わって……あなたが守ってくれた」


彼女の声がかすかに震える。

それでも泣かなかった。

艦長として、最期の仕事に向き合っていたのだ。


「ありがとう、アマテラス。……これで、あなたは、休める」


そして、沈黙。


システムがゆっくりと自沈プログラムを進行させ、艦内の照明が一段暗くなっていく。


だが――そのときだった。


ノイズ。

まるで、“咳き込むような”電子音。


艦が苦しんでいた。

咽び泣くように、自己診断を繰り返し、制御系統を次々にシャットダウンしていく。


「どうしたの……?」


春香が振り返る。


するとそこに――いた。


“それ”は、最初はただの闇だった。

月面の暗部に紛れていた、何の形も持たない、黒い染み。


だが、闇は“こちらを見ていた”。

意志を持ち、理解し、選んでやってきた。


「……あなたは、誰?」


問いかけた春香の声に、返事はなかった。

その代わりに、“影”が彼女の足元を這い、背後から肩へとのぼっていく。


その時、春香の表情が凍りついた。


「あ……あああ……やだ……ッ、なに……これ……ッ……やめて……!」


彼女の背中が大きくのけ反る。

全身の筋肉が弛緩し、そして――悲鳴が、喉から“漏れ出した”。


「出てッ……出ていって……これは……私の身体よ……! 誰にも……渡さない……!」


闇が、彼女の皮膚の内側にまで入り込んでいく。

目が白く染まり、唇が震え、指先がねじれる。

神経が、軋むような音を立てて、誰かの意思に上書きされていく。


だが、春香は戦った。

全力で、母として、艦長として。

喰われながらも――それでも拒絶し続けた。


「テツヤに……吹雪に……ッ、触るなぁぁぁぁッ!!」


それが、母としての――最期の咆哮だった。


だが――遅かった。


その叫びは、笑みに変わった。


彼女の顔が、ぞっとするほど滑らかに歪む。

そして、春香の声でありながらまるで別人のような声音が響く。


「……ふふ。温かいのね、この身体。柔らかくて、ちょうどいい」


その声は春香の喉を通じて発せられたが、そこに“母”の意思はなかった。

代わりにあったのは――姫蜘蛛という、終わりなき静寂の神の目覚め。


「……人間というものは、どうしてこんなにも……苦しみを抱えて生きているの?」


「愚かで、歪で、愛おしい。

 ねえ、アマテラス――あなたは、これを護り続けてきたのね。

 この矛盾と憎悪の坩堝を」


戦艦アマテラスのコアが悲鳴を上げる。

全系統が警告を発し、異常事態を喚起する。

艦の魂が、拒絶していた。


だが、春香の身体に宿った“それ”は、笑っていた。


「拒否しても無駄よ。私はもう、彼女の中にいるの。

 そして、彼女の全ては、もう――私のものよ」


その言葉のあとに、

春香の両目から、ひと筋の涙がこぼれ落ちた。


春香はまだ、生きていた。

わずかに、ほんのわずかに――意識が、あった。


だが、それは――もう“何者か”に、完全に塗り潰されていた。


映像は、そこで終わる。


記録は切れた。


しかしテツヤの中で、母の死は終わらなかった。


自分の知る優しい母が、

あの冷たい声に侵され、心を喰われ、

そして――それでもなお、自分と吹雪を守ろうと叫び続けたその姿が、

脳裏に焼き付き、剥がれなかった。


テツヤは息ができなくなる。

膝をつき、喉を掻きむしるように声を漏らす。


「……なんで……なんでだよ……母さん……っ……」


母の声が、もう戻らない。

ぬくもりも、記憶も、全てを踏みにじられた。


愛が、穢された。


だからこそ、彼は――ここに立たされていた。


戦艦アマテラスが、叫ぶ。


『宿主:柊春香 消失』

『臨時艦長プロトコル、起動中』

『次なる宿主――柊テツヤ』

『承認コード:遺志』

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ