第5章
午後五時を過ぎた埼玉の空は、やわらかく茜に染まりはじめていた。
近所の小学校からは帰宅した子どもたちの声がまだわずかに聞こえ、
すぐ裏手の林を渡る風が、カーテン越しにやさしく吹き抜けてゆく。
柊家の一軒家は、どこにでもある静かな住宅街の一角に建っていた。
庭には小さな畑と鉢植えが並び、玄関のそばには木製の風鈴が吊るされている。
カラン……と、風が吹くたびに鳴るその音は、控えめで、どこか懐かしい。
そんな家の中、ダイニングキッチンでは、夕食の支度がほぼ終わっていた。
味噌汁の鍋からは、湯気が立ちのぼり、だしの香りが部屋の空気を包む。
テーブルには湯呑と箸が三膳、きれいに並べられ、冷めぬようにと茶碗にはまだ蓋がかけられていた。
そのすべてが、母の帰宅を前提とした温かさだった。
「兄ちゃん……ママ、ほんとに今日帰ってくるんだよね?」
居間のソファの上、ちょこんと正座するように座りながら、
小さな女の子が不安げに兄を見上げる。
柊吹雪。八歳。
黒髪をおさげにし、白いワンピースに花柄のカーディガン。
ほんの少しだけ前歯の抜けた笑顔がまだあどけなく、
けれど今は笑っていなかった。
眉尻を下げて、玄関の方をちらちらと見ながら、
何かを祈るように、両手を膝に置いている。
その視線の先、玄関の靴箱の前には、
きれいにそろえられた母・春香のスリッパが、まるで「おかえりなさい」を言うために待っていた。
キッチンでは、柊テツヤが菜箸を置き、火を止めた。
高校三年生。
長身で、どこか達観したような落ち着きを持ちながら、
妹の前ではできる限りやわらかな声を心がけている。
「大丈夫。日帰りって、朝に連絡きただろ?
ほら、もうすぐだ。……あと十分もしないうちに、車の音が聞こえるさ」
そう言って吹雪の頭を軽く撫でると、彼女はこくりと頷いた。
だが、心から信じているようには見えなかった。
テツヤは、その表情の微かな陰りに胸を突かれる。
無理もない――。
母・春香は、宇宙開発機構の特殊部門に所属している。
彼女の出張は、普通の“出張”とは違う。
行き先も、帰還予定も、しばしば曖昧だ。
そして何より、春香自身がそのことに関して多くを語らない。
それでも、いつだって笑顔で帰ってきた。
疲れていても、夜遅くても、吹雪の頭を抱きしめ、
テツヤの肩をぽんと叩いて、「ただいま」と言ってくれた。
その笑顔が、二人にとっての“日常”だった。
「兄ちゃん、ママ……ちゃんと帰ってきてくれるよね……?」
再び聞かれたその言葉に、テツヤはすぐに答えられなかった。
ただ、吹雪の頭をもう一度撫で、優しく髪を整えてやる。
「当たり前だろ。……あの人、約束は絶対守るからな」
ほんとうに、そうであってほしかった。
だが、どこか胸の奥に説明のつかないざわめきがあった。
昼すぎに届いたメッセージ――「予定通りに戻る」とだけ記された、
あまりに簡潔すぎる一文が、引っかかっていた。
それは、まるで“誰かの手で送られたもの”のように感じられたのだ。
――何を言ってるんだ。疲れてるだけだ。
自分にそう言い聞かせて、鍋の蓋を整え直す。
その手元に、吹雪がすっと傍に寄ってきて、呟くように言った。
「ママが帰ってきたら、ね、みんなで三人で、お写真撮ろうね。
“次の出張の前に、絶対に一枚撮る”ってママ言ってたもん……」
「……ああ、そうだな。……撮ろう。絶対に」
それが、叶わぬ約束になるなど――
そのとき、二人はまだ想像すらしていなかった。
玄関の扉は、まだ静かに閉じたまま。
だけど家の中には、確かに“誰かを待つ空気”が流れていた。
切なく、温かく、やさしい時間が――
このあと永遠に閉ざされてしまうとも知らずに。