第4章
――戦艦アマテラスは、拒絶した。
それは奇跡に等しかった。
虚数空間の神、姫蜘蛛を前にしてなお、自我を保ち、
自らの中枢を焼き払ってでも侵入を拒もうとした艦。
けれど、神は“微笑む”。
「ふふ……いいわ。じゃあ、別の道から入ってあげる」
その声が響いた次の瞬間。
艦の中枢に渦巻いていた“闇”は、音もなく方向を変えた。
狙いは――柊春香。
*
春香は、まだ立っていた。
エラーの嵐、艦の悲鳴、目に映る幻のような黒い少女の影。
それら全てを見て、聞いて、理解しきれず、ただ立ち尽くしていた。
そして、気づいた時には――もう遅かった。
「――あっ……が……あぁあッ……!」
胸の奥から、灼けつくような熱と冷たさが同時に湧き上がった。
空気を吸うたび、喉が焼ける。
鼓動は乱れ、耳鳴りが、頭蓋の奥で爆ぜた。
視界がゆがむ。
艦内の照明が、赤と白と黒ににじみ、
その隙間から“言葉にならない声”が滲み出してくる。
『なぜ……なぜあんなにも、戦う……?』
『なぜ私は、時間を知ってしまった?』
『なぜ私だけが、永遠を感じてしまう!?』
その声は、彼女の意識の中に無数の針のように突き刺さった。
記憶でも、幻覚でもない。
それは実感だった。
姫蜘蛛の“意識”が、春香の中に、直接注がれていく。
――それは、異常だった。
流れ込んでくるのは、言葉にならない“想い”の奔流。
まず最初に来たのは――憎悪だった。
狂おしいほどの黒。
万年を超える呪詛。
光を知らぬ空間で、ただ流れ、ただ歪み、ただ存在し続けた者の、
「存在してしまったこと」そのものへの怒り。
「わたしは、知らなかった……何も、知らなかった……!
でも今は、知ってしまった……!
あなたたちが、どれほど醜いかを!」
次に、嫌悪が押し寄せる。
人間という存在への、果てしない嫌悪。
目を背けたくなる醜さ。
口にするのもおぞましい歴史の繰り返し。
裏切り、殺戮、愛を謳いながら他者を踏みにじる矛盾――
それら全てが、姫蜘蛛の中で“真実”と化していた。
「どうして、どうして……そんなにも歪で、儚く、愚かで……それでも生き続けるの……!」
最後に、渇望が流れ込んだ。
それは、春香が耐えきれなかったものだった。
“平穏への渇望”。
“誰かに終わらせてほしい”という静かな願い。
“理解されたい”という狂おしい望み。
それは、あまりにも――人間に似ていた。
「やめて……! やめて……! お願い、出ていって……!!」
春香は叫んだ。
自分の身体が自分のものではないような錯覚。
腕が勝手に震え、足が言うことをきかず、心が“黒”に染まっていくのが分かる。
だが姫蜘蛛は、やさしい声で囁いた。
「やだよ、だって……あなた、とても居心地がいいもの。
あなたの中には、“終わりたい願い”がある。
私の“始まり”に、とてもよく似ているの」
その瞬間、春香の瞳が揺れた。
ひと筋の涙が、頬を伝う。
「……そんな、わけ……」
心の奥底で、確かに一度だけ願ってしまったこと。
自沈の命令を下すほんの直前に、ふとよぎった思考。
“このまま、終われたら楽かもしれない”
それが、姫蜘蛛の入り口になった。
――完全憑依、完了。
*
その時、艦のセンサーが春香の異常を検知した。
【宿主内部に、第三者意識の兆候】
【感情値異常上昇――基準値の3000%】
【主命令系統、応答不能】
アマテラスが叫んだ。
それは、機械の悲鳴だった。
かつて唯一の理解者を失ったことに対する、恐怖と哀悼の叫びだった。
姫蜘蛛は、春香の身体を操りながら、ゆっくりと振り向いた。
「さあ――終わりにしようか。
あなたも、この世界も、あの子も。
全部、全部、壊して、静かにしてあげる」
春香の声で、そう言った。
けれどその目に宿っていたのは、
“人間には到達し得ない”ほど澄んだ、壊れきった静寂だった。