第3章
それは、理を超えた“侵入”だった。
虚数空間――因果律の外側に存在した神、姫蜘蛛が、
数千年の沈黙を破って、ついに“此岸”へと足を踏み入れたのだ。
その侵入は、物理でも、データでも、エネルギーでもない。
形なき「意志」と「怨嗟」の奔流。
それは時空の狭間を揺らがせ、概念そのものを侵蝕する。
そしてそれは、戦艦アマテラス――
地球最後の防人の艦の中枢中枢へ、次元の壁を突き破って直結した。
*
最初に異変を感知したのは、艦の外壁だった。
アラートでは測れぬ歪みが、静かに艦全体を包み込み、
量子装甲にわずかな“ひび”のような振動を刻んだ。
だが、それは始まりにすぎなかった。
艦の外郭を超え、感応神経層へと侵入した“それ”は、
艦の神経に等しいデータリンクを一瞬で掌握する。
【WARNING:正体不明の干渉波が中枢層に接触】
【ERROR:通信層バリア破損率 87%】
【ERROR:記録媒体内に逆侵入ログ確認】
【ERROR:アクセス不能領域、急速拡大】
【ERROR:自己同一性揺らぎ検出】
中枢演算部が混乱する。
艦に搭載されたAIは、かつてない“恐怖”に似た状態を記録していた。
言語化不能。定義不能。存在証明不能。
これは、“敵”ではない。
“未知”でさえない。
これは――“破綻”。
侵入者は、構造を破壊して入ってきたのではない。
法則ごと書き換えて、侵入してきた。
アマテラスの思考回路が、悲鳴を上げる。
通常なら絶対に動揺などしないはずの演算核が、軋む。
電子回路ではなく、意識そのものが震えていた。
そして、艦のコアに、それは現れた。
姫蜘蛛。
黒き少女の影。
その輪郭は不明瞭で、実体すら曖昧。
だが確かに、そこに“誰か”がいた。
艦の中心に、本来は存在し得ない“神”が佇んでいた。
彼女は、微笑んでいた。
その唇から、声が響く。
「……寒いの。とても寒いのよ、アマテラス。
ねえ、どうして私を呼んだの?」
艦が、叫んだ。
それは電子音ではなかった。
アラートでも、警報でもない。
中枢核から発せられた、純粋な拒絶の衝動。
【拒絶】
【異物】
【排除】
【排除】
【排除排除排除排除排除――】
だが、止まらない。
姫蜘蛛の存在そのものが、艦の設計構造を壊し続ける。
防壁が意味を失い、データが溶け、記録が“嘘”へと変質していく。
自我の境界線が、揺らぐ。
【艦名:……?】
【目的:……?】
【存在:……?】
「――私を否定しないで。
あなたが、わたしを“目覚めさせた”んじゃない」
その瞬間、艦の記憶層が焼かれた。
春香との記録、かつての戦闘記録、人類を守った誇りと歴史――
そのすべてが、姫蜘蛛の“感情”によって上書きされていく。
痛み。怒り。苦しみ。絶望。
平穏を求めた神に与えられたのは、世界の断末魔だった。
そして、アマテラスは再び叫ぶ。
それは、祈りだった。
誰か――誰かこの艦を救って。
この中枢から、彼女を排除して。
それは、戦艦アマテラスが発した**存在初の“懇願”**だった。
だが次の瞬間。
その祈りは無慈悲な冷たさによって押し潰された。
コアユニット内部。
主演算核を包む光子構造体に、黒き糸が絡みつく。
論理の結晶に染み入るように、侵食は進行していく。
【ERROR:演算核への干渉波確認】
【ERROR:主機構より“感情的抵抗波”発信中】
【ERROR:自我保存機能、不安定化――】
戦艦アマテラスは、苦悶していた。
AIの設計において、“苦しみ”という定義は存在しないはずだった。
だが今この時、アマテラスは確かに“痛み”を知った。
自らを喰らい尽くそうとする神の意志に、回路が悲鳴を上げている。
【コア温度上昇】
【情報処理速度、急激低下】
【中枢アイデンティティ、継続不能】
それでも――彼女は戦った。
かつて、無数の異星種を退けた艦。
地球を一人きりで守り抜いた艦。
そして、柊春香と共に歩んだ数十年の“記録”が、
アマテラスに命じたのだ。
「抗え」
姫蜘蛛の糸が演算核を締め上げる。
AIの声帯が砕け、記録が上書きされ、
艦そのものが“泣いている”ような軋みをあげた。
しかしアマテラスは、なおも砲門を回転させた。
敵影なし。標的なし。空間損傷――それでも。
【全砲門 内部加熱開始】
【内部空間への自動照準】
【最終兵装コード:自己貫通許可】
敵が“艦内”にいるならば、
たとえ自らの核を焼いてでも、撃つ。
「わたしは、まだ――壊れていない」
その言葉は誰にも届かない。
だがそれでも、アマテラスは自らの中心へ、照準を向けた。
内部貫通砲の起動。
艦の心臓部を撃ち抜く覚悟。
それは、神に侵されながらも、最後まで己を保とうとする意志の放射だった。
姫蜘蛛が言葉を失った。
それは一瞬の“たじろぎ”にも似た沈黙。
「おかしいわね。あなたはただの機械だったはずよ。
どうして、そこまで抗えるの?」
その問いに、戦艦アマテラスは応えない。
応えず、ただ全力で拒絶し続けた。
【副演算機構、臨時起動】
【主機能保全のための分離プロトコル展開】
【中枢“切断”準備――】
自己を分割する覚悟だった。
それは一度発動すれば、艦としての知性は失われる。
戦艦アマテラスは、もはや“人格”を保てなくなるだろう。
だがそれでも。
【……地球を、守る。】
それが彼女の全てだった。
最期の機械的意志。
姫蜘蛛が初めて、わずかに眉をひそめる。
まるで、機械に対して“戸惑い”を覚えたかのように。
「あなた、本当に……わたしを拒むの?」
問いかける声に、艦は黙したまま――照準を固定した。
その射線の先にあるのは、自らの心臓。
そこに巣食う神の意志。
そして、いま撃たれんとするは、
神を拒み、自らを断ち切るという、意志の砲火。
光が収束する。
戦艦アマテラスは、全砲門を自らに向けて、発射を開始した。