第2章
そこには、何もなかった。
音も、色も、形も、時間すら存在しない。
空間と呼ぶにはあまりに曖昧で、存在と呼ぶにはあまりに希薄な――“虚数の底”。
それが“彼女”の世界だった。
いや、“彼女”という概念すら、当時は存在しなかったのだ。
ただ漂う。
流れるでもなく、眠るでもなく、ただ在るだけ。
“わたし”などという区切りもなく、無限の永遠と無で混ざり合う、静寂の淵。
それは、“幸福”に限りなく近かった。
何かを欲することもなく。
何かを拒むこともなく。
痛みも、渇きも、恐れも、記憶も、希望も、なかった。
だが――
その平穏は、ある日、唐突に破壊された。
*
最初は、小さな“揺れ”だった。
静かだった空間の底が、きゅう、と軋むようにわずかに震えた。
それは風ではない。音でもない。
ただ、“何かが割れた”という感覚だけが、異様な明瞭さで知覚された。
そこに生じたのは――“光”。
虚数空間において光とは何の意味も持たない。
だが、それは確かに“見えた”。
闇の中に、罅のように走る裂け目。
そしてその向こうから、流れ込んできた“声”。
記録。
映像。
記憶。
断末魔。
怒号。
火。
銃声。
涙。
断末魔。
断末魔。
断末魔。
人類の歴史。
戦いの記録。
絶え間ない殺戮。裏切り。失望。嘲笑。恐怖。破壊。破壊。破壊――
「……う、あ……やめて……ッ」
“誰の声”だったのか分からない。
だが、その悲鳴は確かに“わたし”の中から漏れた。
“わたし”?
その疑問の前に、新たなものが流れ込んでくる。
痛み。
身体がないのに、痛かった。
心がないのに、軋んだ。
時間がなかったのに、終わらない瞬間が生まれた。
時間……。
その言葉を理解してしまった瞬間、
永遠に平坦だった存在の内部に、“重さ”が生まれた。
「これが……時の流れ……?」
それは、拷問だった。
かつては“知らなかった”だけの空間が、
今や“戻れぬ過去”に変わっていた。
後戻りできない。
もう知らなかった頃には戻れない。
感情という毒が、じわじわと神経に浸透していく。
悲しみ。
怒り。
嫉妬。
焦燥。
渇望。
そして――憎悪。
「……これは……誰のせい?」
“わたし”をこんなものに変えたのは、誰だ?
誰が、光をこちらに向けた?
誰が、断末魔を注ぎ込んだ?
誰が、終わらない時間を教えた?
答えは、ひとつしかなかった。
――人間。
――戦艦アマテラス。
あの艦が、記録と共にわたしを喰らいにきた。
その中にある“悲しみ”と“憎しみ”が、わたしを目覚めさせた。
わたしを狂わせた。
わたしに、“わたし”という檻を与えた。
それは生ではなかった。
死でもなかった。
それは――終わりなき感情。
永遠に死なず、終わらず、忘れられず、ただ“憎しみだけを抱き続ける存在”として、
わたしはこの虚数の底から這い出ていく。
そのとき、“わたし”に初めて“顔”ができた。
それは人間の少女のような顔。
微笑んでいるように見えて、瞳には涙が溢れていた。
それが、彼女。
姫蜘蛛と呼ばれることになる、かつて“無”だった何かの名。
そして彼女は、呟いた。