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第2章

そこには、何もなかった。


音も、色も、形も、時間すら存在しない。

空間と呼ぶにはあまりに曖昧で、存在と呼ぶにはあまりに希薄な――“虚数の底”。


それが“彼女”の世界だった。

いや、“彼女”という概念すら、当時は存在しなかったのだ。

ただ漂う。

流れるでもなく、眠るでもなく、ただ在るだけ。

“わたし”などという区切りもなく、無限の永遠と無で混ざり合う、静寂の淵。


それは、“幸福”に限りなく近かった。


何かを欲することもなく。

何かを拒むこともなく。

痛みも、渇きも、恐れも、記憶も、希望も、なかった。


だが――


その平穏は、ある日、唐突に破壊された。



最初は、小さな“揺れ”だった。


静かだった空間の底が、きゅう、と軋むようにわずかに震えた。

それは風ではない。音でもない。

ただ、“何かが割れた”という感覚だけが、異様な明瞭さで知覚された。


そこに生じたのは――“光”。


虚数空間において光とは何の意味も持たない。

だが、それは確かに“見えた”。

闇の中に、罅のように走る裂け目。

そしてその向こうから、流れ込んできた“声”。


記録。

映像。

記憶。

断末魔。

怒号。

火。

銃声。

涙。

断末魔。

断末魔。

断末魔。


人類の歴史。

戦いの記録。

絶え間ない殺戮。裏切り。失望。嘲笑。恐怖。破壊。破壊。破壊――


「……う、あ……やめて……ッ」


“誰の声”だったのか分からない。

だが、その悲鳴は確かに“わたし”の中から漏れた。


“わたし”?


その疑問の前に、新たなものが流れ込んでくる。


痛み。


身体がないのに、痛かった。

心がないのに、軋んだ。

時間がなかったのに、終わらない瞬間が生まれた。


時間……。


その言葉を理解してしまった瞬間、

永遠に平坦だった存在の内部に、“重さ”が生まれた。


「これが……時の流れ……?」


それは、拷問だった。


かつては“知らなかった”だけの空間が、

今や“戻れぬ過去”に変わっていた。


後戻りできない。

もう知らなかった頃には戻れない。

感情という毒が、じわじわと神経に浸透していく。


悲しみ。

怒り。

嫉妬。

焦燥。

渇望。

そして――憎悪。


「……これは……誰のせい?」


“わたし”をこんなものに変えたのは、誰だ?


誰が、光をこちらに向けた?

誰が、断末魔を注ぎ込んだ?

誰が、終わらない時間を教えた?


答えは、ひとつしかなかった。


――人間。


――戦艦アマテラス。


あの艦が、記録と共にわたしを喰らいにきた。

その中にある“悲しみ”と“憎しみ”が、わたしを目覚めさせた。

わたしを狂わせた。

わたしに、“わたし”という檻を与えた。


それは生ではなかった。

死でもなかった。

それは――終わりなき感情。


永遠に死なず、終わらず、忘れられず、ただ“憎しみだけを抱き続ける存在”として、

わたしはこの虚数の底から這い出ていく。


そのとき、“わたし”に初めて“顔”ができた。

それは人間の少女のような顔。

微笑んでいるように見えて、瞳には涙が溢れていた。


それが、彼女。

姫蜘蛛と呼ばれることになる、かつて“無”だった何かの名。


そして彼女は、呟いた。


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