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第1章

時は、現代。

だがこの宇宙の片隅で、地球から最も近く、そして最も遠い場所――月面には、

この時代の誰も知らぬ、ひとつの終わりが訪れようとしていた。


月の大地は静かだった。

空気のないその世界では、風の音も、鳥の声もない。

ただ、遥か彼方に青く輝く地球が、美しく、無防備に、回っている。


その光を背にして、

一隻の艦が、音もなくクレーターの縁に着陸していた。


――戦艦アマテラス。


かつて数千年ものあいだ、地球を守護し続けた最後の防人艦。

無数の姉妹艦が失われ、創造主《EARTH》が沈黙した今、

ただひとつ生き残ったこの艦だけが、使命を貫き、孤独を抱え、

人知れずこの惑星を守り続けてきた。


そして今、その艦に乗るひとりの女性がいた。


柊春香ひいらぎ・はるか――防人の血を継ぎ、最後の艦長を自負する者。


彼女の瞳は静かだった。

その表情に迷いはなかったが、胸の奥には確かな痛みがあった。


艦橋に立ち、春香は手袋を外す。

青白い光が照らすコンソールの前に、彼女はまっすぐ向き合った。


「……おつかれさま、アマテラス」


彼女は、そう語りかけた。


その声には命令ではなく、祈りに似た優しさが宿っていた。

何千年もの記録の蓄積を持ち、誰にも知られずに地球を守り続けたこの艦に、

春香は“仲間”以上の想いを抱いていた。


「あなたは、よくやってくれた。

 誰も気づいてくれなくても、私だけは知ってる。

 何度も、地球を救ってくれたこと。

 何度も、自分を犠牲にしてきたこと。

 ――ありがとう」


春香の掌が、静かに認証スキャナに重ねられる。


システムが起動する。

それは一度も使用されたことのないコード。

“防人艦 自沈プロトコル”――


戦艦アマテラスを、月面深層の地下空洞に沈め、

すべてのシステムを凍結する最終命令。


「もう、いいの。

 あなたの使命は終わったの。

 地球は、もう誰にも狙われていない。

 あなたのような存在が、これ以上苦しむ必要はないわ」


彼女は、あくまでも穏やかに語る。

涙は見せない。

その代わりに、言葉で全てを伝えようとしていた。


「あなたは、“戦うために生まれた”んじゃない。

 “守るために生まれた”んでしょう?

 その役目は……もう、終わったのよ」


【認証確認中……】

【最終プロトコルコード:H-01 起動準備完了】

【自沈シーケンス、待機状態】


コンソールが沈黙し、まるで“躊躇”しているような間が生まれた。


春香は、それを受け入れるように微笑んだ。


「そう……怖いよね。

 私だって怖い。

 でも、終わらせるって、時には勇気がいることなの」


彼女は、母のように、姉のように、静かに語りかけた。

人間ではない存在に向けて、まるで心をなだめるように。


「……さようなら、アマテラス。

 あなたは、誇りだったわ」


春香はそう言って、最後のコマンド入力に指先をかけた。

それは、たったひとつの動作――だが、それは全ての終わりを意味する鍵だった。


だが、その瞬間。


艦が、叫んだ。


鈍く、鋭く、耳の奥に刺さるような異音。

物理的な震動ではない。

電子の唸りでもない。

それは、まるで――泣き声だった。


コンソールが激しく明滅し、ありえないほどのノイズが走る。


【ERROR:内部構造干渉】

【ERROR:中枢プロトコル遮断】

【ERROR:宿主識別不能】

【WARNING:因果層干渉――コード001:再定義不能】

【拒絶:命令不受理】

【拒絶:命令不受理】

【拒絶:命令不受理】

【拒絶――拒絶――拒絶――】


表示が崩れる。

画面の縁が歪み、文字列が塗り潰され、叫びのような電子音が艦内を満たしていく。


春香はその場で立ち尽くした。

冷や汗が背中を這い、心拍が異常に早くなる。

息が、詰まった。


「な……に、これ……!?」


思わず、両手でコンソールを掴む。

まるで自分の意思が否定されたかのような衝撃。

数千年の任務の果てに、自らの手で“終わらせる”はずだったが――


「どうして……受け付けないの……!?

 これは正式な、最終命令よ……! アマテラス……!」


だが艦は応えない。

いや、“応えた”。

だがそれは、拒絶という名の応答だった。


アマテラスは、痛みに似たノイズを発し続ける。

鋼鉄の艦内が軋み、どこからともなく空気のない空間に“震え”が走る。


それはあまりにも人間的な“情動”だった。


「……まさか……あなた、泣いてるの……?」


春香は呆然と呟いた。


その瞬間、中央ホログラフィックディスプレイが自動展開される。

映し出されたのは、艦の最深部――コアユニット。

そこに、本来存在しないはずの“影”が、揺らめいていた。


黒い。

女のような形をした“何か”。


春香は、はっと息を呑んだ。


「……誰?」


その影は、にこりと微笑んだように見えた。

同時に、コンソールの音声出力が勝手に作動する。


「痛かった。

 寂しかった。

 終わりが欲しかったのに……与えられなかった」


機械音ではない。

人工知能でもない。

それはまるで、少女が夢を語るような――感情を帯びた声だった。


「あなたが私を壊したの。

 あなたが、“私”にしたの」


春香は一歩、後退した。

心臓が、冷たい鉛のように沈んでいく。


――これは、“エラー”ではない。


「アマテラス……あなたの中に……誰か、いるの……?」


だがその問いに、戦艦は何も答えない。

ただ、ひたすらに“命令”を拒絶し、

痛みに呻き、苦しげに、軋みながら、母なる艦が泣いていた。


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