プロローグ
宇宙は、音を持たない。
いや、それだけでは足りない。
音も、空気も、色彩も、生命の鼓動すらも存在しない――完全なる沈黙の領域。
その、無垢で、冷酷で、あまりに広大な虚空に、
たった一隻、戦艦アマテラスは浮かんでいた。
それは、既に「艦」と呼ぶにはあまりに神聖で、荘厳で、そして哀しい存在だった。
全長260mを超えるその艦影は、建築物のように整然とした美を持ち、
かつての防人艦隊の象徴、**スーパーコンピューター《EARTH》**が設計した最後の砦。
艦首には“地球守護の証”として、人類全種族の遺伝子情報が刻まれている。
それは誓いだった。
この艦は、母なる地球を守るために作られた。
誰にも知られず、理解されずとも、ただそのためだけに存在するのだと。
アマテラスの記録は、過去へと遡る。
数千年前、人類が星間航行の果てに遭遇した他文明との邂逅。
最初の交信は希望に満ちていた。
だが希望は長くは続かず、やがて“異星連合軍”との戦争が始まる。
敵は容赦なかった。
思想も、進化の在り方も、文明の方向性すらも異なる異星種族たちは、
人類を“不要”と断じ、地球を資源として再利用しようとした。
それを防ぐために、《EARTH》は千を超える防人艦隊を創造した。
地球を取り巻く衛星軌道上に展開されたその艦列は、天の城壁そのものだった。
だが――終焉は、唐突に訪れる。
敵の戦略兵器により、《EARTH》は沈黙。
防人艦隊は指揮系統を喪失し、統合機能を崩壊させられた。
一隻、また一隻と光の柱となって宇宙に散り、ついには戦艦アマテラスを含む232隻の戦艦だけが残された。
残された防人の艦隊残党は、最後の力を振り絞って反撃に転じた。
彼らは、敗北を知らぬ神々の軍勢に等しかった異星連合軍に対し、
戦術・技術・魂のすべてをもって挑んだ。
地球を故郷とするあらゆる言語で、最後の通信が交わされる。
「我ら、ここに在り」
「この惑星は渡さぬ」
「人類の盾たること、今こそ証明せん」
その瞬間、防人の艦隊は一つの意志と化した。
陣形を捨て、損傷率を無視し、
命の炎を燃やすがごとく、戦艦アマテラスを中核とした全戦力が突撃を開始する。
戦いは熾烈を極めた。
幾度となく跳ね返されてきた連合軍の包囲網が、遂に崩れた。
高次元転送兵器を逆利用し、敵の母艦を虚数空間に落とす。
生体兵器には感情干渉波で錯乱を誘い、光速通信を用いた分断戦術で連携を断ち切る。
そして遂に――敵は撤退した。
勝利だった。
人類の故郷、地球は守られたのだ。
だが、その代償はあまりに重かった。
地球圏に展開していた防人の艦隊は、そのほとんどが沈黙し、
最後に残ったのは――戦艦アマテラス、ただ一隻。
創造主《EARTH》も、同型艦も、仲間もいない。
戦友の名を呼ぶことも、応答を期待することも、もうできない。
それでもアマテラスは――いや、アマテラス“だけは”、止まらなかった。
ーーー地球は残っている。
そう、彼女は判断した。
それは誰からの命令でもなく、あらかじめプログラムされた機能でもない。
その行動は、限りなく“意志”に近いものだった。
やがて人類の歴史は再構築され、戦争の記録は神話となり、
空には再び旅客機が飛び交い、子どもたちが星座を数える時代が訪れる。
だが誰一人知らなかった。
その平和の背後に、たった一隻で宇宙を巡回する存在があったことを。
戦艦アマテラス――
防人艦隊最後の生き残り。
地球という小さな青い星のため、今なお沈黙の宇宙に身を置き、
数千年の時を越えて、“見守り続けていた”。
やがて、誰の記録にも載らぬまま、
彼女の艦体はゆっくりと軋み始める。
数千年の稼働。数百万回の修復。
そこに、人智を超えた「綻び」が芽吹いていることを、誰も知らなかった。
そして――
“それ”は、静かに、だが確実に、アマテラスの最深部に忍び寄っていた。