帝都の火種
中佐は帝都に戻ると、直ぐに軍務省へと向かう。
「中佐。本には一体何が。」
「あの樹に関することさ。」
中佐が指差したのは煉瓦の街並みの向こう。大きな樹が霞む塔のように立っていた。
「世界樹……」
世界樹については三国にそれぞれ神話のようなものが残っているだけで、ほとんど禁足地として足を踏み入れる者もいない。それだけこの島の人間にとっては神聖視されている物だった。
「詳しくはいずれ話す。ひとまず今夜、湊忠一中佐と会食の約束を取り付けてくれ。」
「軍令部のですか?」
突然飛び出してきた名前に姫川大尉は困惑する。
「士官学校か軍大の同期に帝道派の人間が何人かいるだろう。そのツテから探ってくれ。」
帝道派とは、近頃帝国軍を二分する派閥の一つだ。帝を中心とした親政を目指した、軍部の若い将校が多く属する派閥で、形上は第一艦隊の喜崎義尚司令が領袖ではあるが、実質的に音頭をとっているのは、何人かの若手将校であった。その中の1人が軍令部作戦局兵站計画課長の湊中佐だ。
「なんとか辿ってみます。」
「よろしく頼む。」
帝都中央駅から軍務省舎まではさほど時間はかからない。直ぐに煉瓦でできた閑静な建物が見えて来る。
「そうだ、場所は藍華楼で頼む。」
「仰せのままに。」
姫川大尉は車から降りた中佐を、敬礼をして見送ると直ぐに電話をかけながら走り出す。中佐はそれを見送ると直ぐに軍務局の執務室へと戻ってきた。
「おぉ、宇佐美。直帰するかと思ったぞ。どうだった南東は。」
「あの古狸に遊ばれてきましたよ。ですが収穫はありました。」
脂っこい笑顔が印象的な、丸顔で愛嬌のある中年男性こそが、軍務局長の原詩音大佐だ。いつ見ても名前負けしているなと思いつついそいそと資料を探し出す。
「お前、野田閣下とやり合おうってのは、10年早いよ。」
「そのようでしたね。」
「で、やっぱりMID-01ってのは凄いのか?」
「えぇ。あれは"鍵"ですよ。」
「そうかそうか。」
「是非あれは、軍務局で確保したい。」
「うーん。そうだなぁ。」
原大佐は、腕を組んで首を捻る。
「納得いただけたのであれば、橿原春綺の帝都への召喚命令書に花押を。」
「それはダメだよぉ。宇佐美くん。」
原大佐は突き出された書類を押し返す。
「何故です?」
「前線と揉め事抱えると上から突かれるからね。そう言った書類にはサインできないな。」
「……原大佐が、その決裁の印を持っている間は、そうかもしれませんね。」
宇佐美は自分で出した書類を掴むとゴミ箱へ投げる。そうしてそのまま、軍務局の執務室から去っていく。
「いやぁ、怖い部下だねぇ。」
原大佐はその様子をニコニコと眺めると受話器をとった。
藍華楼は帝都の中でも国会議員や官僚、そして高級将校達が集う名の知れた料亭であった。その中の菖蒲の間の下座に、宇佐美中佐は綺麗な姿勢で正座している。そこに現れたのはスーツ姿の彫りの深い端正な顔立ちをした男。
「突然呼び出して申し訳ありません。湊中佐。」
「一体、軍務局がなんの用ですか?」
「いえ、ちょっとした意見交換ですよ。」
湊中佐に掛けるように促すと、宇佐美は早速お猪口を持たせて冷酒を注ぎ込む。手元を見れば蛍烏賊の沖漬けを始めとした、湊中佐の好物が並んでいる。再び宇佐美に視線を戻せば、ニコニコと不気味に笑っていた。
「私と宇佐美中佐では、あまり交換する意見というのもないと思うが。」
「いや、今日は帝道派の皆さんに良いご提案をお待ちしましてね。」
「いい提案?なんだ、うちの親父を総理大臣にでもしてくれるってのか?」
「ええ、その通りです。」
宇佐美の回答を聞いて、思わず湊中佐は冷酒を吹き出しかける。
「なんだって?」
ちなみに親父というのは第一艦隊の喜崎司令のことである。第一艦隊の司令は実質的な名誉職で、その差配はほとんど副司令の鶴見中将が行なっている。つまり喜崎大将はすでに"アガり"の人間で、このまま行っても首相どころか、軍務大臣になる目すら万に一つもないだろう。
「ですから、喜崎閣下に首相の座にお付きいただきたいと思っているんです。そうすれば帝道派の目指す親政は叶ったも同然。」
湊中佐は宇佐美が思ってもない事を言っているのは直ぐにわかった。だが、同時に策は硬いものを用意しているに違いないという直感もあった。
「一体どうやるんだ……」
「閣議中の清白首相を襲撃し、宮城におわす陛下を、我々の手でお救いするのです。」
緊縮財政を標榜する清白首相は、今の軍部には特に人気が無かった。軍部の予算を削ろうとする今の政府の姿勢に怒りを覚える将校は多くいた。
「正気で言ってるのかっ……それはクーデター……失敗すれば死罪では済まないぞ。」
湊中佐の手が段々と震え出す。しかし、宇佐美は涼しい顔をして話を続ける。
「失敗しなければいいのです。私の指示を受ければ即応する兵士は5000人はいます。帝道派の動ける将校の部隊を合わせれば人数は一万を超えるでしょう。勝てば官軍。その為に帝を同時にお救い参らせるのです。」
「だが、帝宮警察はどうするんだ……」
「帝宮警察と侍従武官達の当日の配置は簡単に手に入ります。そのうちの要所を守る人間に小銭を握らせて最小限の犠牲で済ませます。」
「そんなものが本当にわかるのか?」
「えぇ。」
宇佐美は湊中佐の好物ばかり並べられた御膳を指差す。湊中佐はそれを見てこめかみに冷や汗を流した。
「お前の目的はなんだ。」
「皆様と志を同じくしているだけですよ。一緒に君側の奸、清白首相を討ち果たしましょう。ただ。」
「ただ?」
「喜崎閣下が首相の大命を受けた暁には一枚軍令書に花押を押していただきたいのです。」
ここできたかと、湊中佐は乾いた口を開く。
「それで軍令書の内容は?」
「それは秘密です。いいんですか?軍令書を一枚通すだけで帝道派の天下ですよ?」
湊中佐は頭を抱える。一体どうしたものかと考えても直ぐには答えが出なかった。
「……すまない。時間をくれ。」
「ええ、お待ちしますとも。高階中佐や喜崎大将ともお話しが必要でしょうし。」
「あぁ。」
「では、3日間お待ちします。それまでにお返事を。私がいては寛げないでしょうから、そろそろお暇させていただきます。」
宇佐美は立ち上がり、鞄を取ると部屋の襖を開く。
「あぁ。そちらの御前は特別に作らせたものなので、是非ご堪能ください。」
宇佐美が去ると、湊中佐は御膳を見つめる。とても美味しく味わえる気はしなかったが、蛍烏賊の沖漬けを一口だけ口に入れた。
藍華楼の外では、姫川大尉が車を停めて待っていた。宇佐美は見送りを適当にあしらい、車へ乗り込む。
「如何でしたか。」
「あの提案を呑まなければ帝国軍人失格だな。まぁ、その時は統治派の西条元帥にでも声をかけるさ。」
「上々のようで何よりです。これからどちらへ。」
「流石に疲れた。家まで頼む。」
「はっ。」
夜の帝都を眺めながら、宇佐美はこれから先のことを考え込む。元々そこまで酒の強くない宇佐美の体には少量の冷酒も頭を薄ぼんやりとさせる。
「姫川。この先、この国……いや、この島は変わるぞ。」
「本当ですか?」
「全てが変わる。それだけの力が手に入る。」
「中佐は見つけられたのですね。」
「あぁ。それまでお前には苦労をかける。」
「いえ、苦労など。」
「最後まで、私を信じて付いて来て欲しい。」
その言葉に、姫川大尉は笑顔で答える。
「尽未来際、お供いたします。」
車は既に、宇佐美の自宅へと着いていた。
***
場は侃侃諤諤の議論で埋め尽くされていた。
「そんな不確かな軍令書なんて抱えて大事が為せるのか。」
「しかし、これしかチャンスはないのかも知れないんだぞ。親父ももう歳だ。」
「だからって、あんな訳のわからん軍務局の若造に全てを委ねていいのか。」
「いや、宇佐美はなかなかの実力者だ。奴が味方につくのは大きい。」
「あんな奴の手を借りて恥ずかしくないのか。」
「では、貴様らだけで事を成してみろ。」
「なんだと!」
「まぁまぁ、みなさん落ち着いて。」
ノーカラーのシャツを着て、目を大きく見開いた男が、いきり立つ将校達の中に割って入る。
「北村先生……」
北村紘輝。帝道派の論理を支える思想家で、喜崎司令と並ぶ帝道派の重要人物だ。北村の執筆した「帝国改造法案大綱」は帝道派の聖典とも呼ぶべき存在になっている。北村自身はどちらかと言えば帝政については否定的であったが、現在特権階級となりつつある支配階級への痛烈な批判が多くの将校達の心を掴んで離さなかった。今回の件にもあまり関わる気は無かったが、熱心な将校に担ぎ出されこの議論の場へとやって来たのだった。
「国を変える機会というものは、そう転がってくるものではありません。私の理想とする国とあなた方の標榜する国では、少し違いがありますが、少なくとも今の国よりかは理想郷へと近いものになるんじゃ無いかと、私は思うんですよ。」
北村の言葉に、将校達のそうだそうだの大合唱が始まる。
「おい、お前ら落ち着け。」
荒れ狂う若人達を高階中佐が諫める。高階耕市中佐は、軍務省人事局の次長で、軍務省内の帝道派のまとめ役の様な立場だ。軍令部の湊中佐と2人が帝都の帝道派の顔役であった。
「わかった。決を取ろう。」
未だ治らぬ場の空気に耐えかねて、湊中佐が声を発する。その提案に辺りからは拍手が起こる。
「いいのか、そんな決め方で。」
「ここに至っては、全員の総意が一番大事だ。」
そこには、湊中佐の自分で決めきれない弱さがあったのかも知れない。
「宇佐美中佐の計画に、賛成の者は手を挙げて欲しい。」
湊中佐が手を挙げると場の8割程が手を挙げる。ふと、高階中佐の方を見れば彼は手を挙げてはいなかった。
「決まりだな。」
湊中佐の言葉に歓声と拍手が湧き上がる。
「さて、今回の決起の指揮官だが、」
「お前以外誰がいるんだ。」
高階が湊中佐の肩をポンポンと叩く。
「お、おい。」
「はっきり言って俺は責任取れん。決起当時は、人事局で電話番でもしている。指揮は任せた。」
「そうか……」
それも仕方あるまいと、湊中佐も高階の肩を叩く。
「ありがたくも、今回の指揮官は俺が務める事になった。皆んな、厳しい戦いになるかも知れないが着いて来て欲しい。」
中佐が拳を掲げると、一堂のえいえいおうという勝鬨が聞こえてくる。
「さて、俺は親父に挨拶に行ってくる。皆は決起の日までこの事を決して漏らさない様に。」
将校達の大歓声に押されて湊中佐は帝都司令部へと向かった。軍務省の程近くに建てられた帝都司令部は皇族軍人が稀に所属する事もあってか絢爛豪華な作りとなっている。圧倒される様な調度品を尻目に司令室へと向かう。
「親父。湊です。」
「おぉ、どうした?」
扉の外から声を掛ければ、立派な髭を蓄えたつぶらな瞳の老人がひょっこりと出てくる。
「お話しがありまして。」
湊中佐が頭を下げると喜崎司令は中へと案内をする。
「深刻な顔をしてどうした。忠一。」
「実は、親父にお願いがありまして……」
そう切り出すと、湊中佐は計画の全てを喜崎司令に打ち明けた。話を全て聞くと、喜崎司令はおいおいと泣き始める。
「ついに、遂に思い立ってくれたか……」
「えぇ、親父を男にする時が来ました。我々のために、どうか、どうか首相になってください。」
「かわいい息子の頼みを断る親が何処におる。わかった。帝都司令部は当日一つも手出しはさせん。存分に暴れてこい。」
「はい……」
「これを持って行け。」
そういうと喜崎は一本の扇を湊中佐に渡す。
「これは……」
「これは私が帝都司令部の司令に就任した際に、帝より直々に賜ったものだ。」
「そんな、良いんですか……」
「大将はデンと構えとりゃいんだ。箔を付けるためにも持って行きなさい。」
「ありがとうございます。」
湊中佐は、扇を受け取ると深々と頭を下げた。
***
軍務局の執務室で宇佐美は電話を受けていた。
「えぇ。湊中佐なら乗っていただけると思っていました。当日の作戦に関しては、また藍華楼で。えぇ。ではまた。」
「どうした、宇佐美。随分嬉しそうな顔してるじゃないか。」
「局長。山が動きますよ。」
「山?」
「えぇ、大きな山が。」
「そりゃ……楽しみだな。」
原大佐は不敵に笑うと、執務室を後にした。




