親友の婚約者に恋をする
それは偶然で運命だった。
親友のシャーロットから婚約者を紹介したいと言われ、私も彼女の未来の旦那様を見てみたいと思った。でもそれがいけなかった。
シャーロットの横に立つ男性を一目見て私は彼、ジョシュア様に恋をした。生まれてこのかた一度たりとも経験した事のないような激しく燃え上がるような恋心だった。
騎士団に所属しているというジョシュア様は体つきも逞しく、色白で線の細いシャーロットと並び合っていると、まるで姫を守る騎士そのものだった。
燃えるような赤い髪は短く整えられ、切れ長の目は人によっては冷めた印象を与えると思うが、私にはそんな事関係なかった。
彼の事が頭から離れない。シャーロットと隣り合って座っている彼の視線がいちいち気になってしまい、茶会の最中も全然会話に集中出来なかったくらいだ。
ジョシュア様が好き。シャーロットを大切にする彼が好き。シャーロットに向けるあの優しい眼差しがもしも私に向けられたなら、どれだけ幸せな事なのだろう。
でもこの恋心が実る事はない。だって私にも親が決めた婚約者がいるのだから——。
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婚約者であるイーサン様は一言で表すと“軽薄”だろうか。
彼は社交界きってのプレイボーイとして浮き名を流し、彼目当ての令嬢も多いと聞く。そんなイーサン様は綺麗に遊べる相手を好み、その遊び方もスマートで令嬢達から人気の理由の1つなんだそうだ。
イーサン様は見た目だけ見ればずいぶん整った顔立ちをしてる思う。金髪碧眼という、いかにも物語に出てくるであろう王子様のような風貌や、180はゆうに超えているであろう身長。それに加え彼は頭脳明晰だと父が以前話していたのを聞いた事がある。
でも私はイーサン様を好きだと思ったことは一度もない。ただ政略の駒として彼に嫁ぐだけ。
正直シャーロットが羨ましくてしかたない。お互い政略という括りは同じなのに、彼女は婚約者であるジョシュア様から愛されている。そしておそらくシャーロットも同じくらい彼を愛してる。
なのに私は一般的な令嬢達と同じように政略の駒としての人生を辿るしかない。私とシャーロットの、何がそんなに違うのだろう?
「もう少し愛想良くしたらどうなのかなぁ、私の婚約者殿は」
シャーロット達の事を考えていると、目の前に座るイーサン様から笑顔でそんな事を言われた。
今は婚約者同士の茶会の最中。本来ならば目の前の婚約者に愛想の1つくらい振り撒くべきなのだろう。
だけどどうしても私はイーサン様に微笑む事が出来なかった。そもそもイーサン様を好ましく思った事がないのに、どうしてこの人に愛想良くしないといけないのか。婚約者がいながらあちこちで浮き名を流し続ける相手に、どうやったら愛嬌なんて振り撒くことができるのか、私には疑問でしかなかった。シャーロット達を見た後だからか、そんな考えが露骨に態度に出ていたのだろう。イーサン様は私を見て小さくため息を吐いた。
「……君はいつだって私を見てはくれないね」
イーサン様が何かを呟いたけれど、彼に興味がなかった私はそのまま聞き流してしまった。もしあの時問いかけていたら、この先の未来が少しは違うものに変わっていたのだろうか?
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──頭が重い。どうしてこんなにも全身が怠いのか。動かす事が精一杯の体を無理矢理起こすと同時に、ジャラリと聞き慣れない音がした。
何かが私の足に絡まりついている気がする。いまだに働かない頭を何とか動かし、私は足に絡みついている何かにそっと手を触れた。それは鎖だった。細い鎖などではなく、以前家族で見物に行ったサーカスで、飼育されていた大型の動物を繋いでおくような太く頑丈な鎖だった。私は一体自分の身に何が起きているのか分からず、辺りを必死で見渡した。
この部屋に見覚えはなかった。でも調度品などからしてずいぶん裕福な貴族の屋敷なのではないだろうかと推察した。未だ自分の身に何が起きているのか理解できずにいる私は、この部屋に来る前の出来事を必死で思い出そうとした。
そう、そうだ。とうとう私はジョシュア様への想いを抑える事が出来ず、彼の姿を一目見ようとジョシュア様のお屋敷へ馬車で向かっていたのだ。その道中で突然襲われて、それで——。
「おや、お目覚めかな?」
なぜか聞き慣れた声がした。その声を頼りにゆっくり振り向くとなぜか婚約者のイーサン様が部屋の扉の壁にもたれ掛かるように立っていた。
(どうして彼がここに?いや、それよりも人がいるならこの鎖を外してもらわないと!!)
もたもたしていたら私を鎖で繋いだ人物が戻ってくるかもしれない。未だ状況が掴めないまま、イーサン様に鎖を外すのを手伝ってくれるようにお願いすると、彼は私の酷く焦った姿をみておかしそうに言葉を発した。
「いやぁ、婚約者殿は本当に面白いね。この状況に私という存在がいても何も不思議がらないなんて本当におかしい」
そう言ってイーサン様は肩を震わせて笑った。
どうしてこんな場所にイーサン様がいるのかはわからない。でも今の私はそんな些細なことよりも、この状況から逃げ出すことばかりを考えていた。
本当は目の前にいるイーサン様に対して借りを作りたくはなかった。だけど非力な私ではこの鎖を外す事は現実的に考えて無理だ。だからこそ私は恥を忍んでイーサン様に手伝ってくれるようにもう一度頼むしかなかった。
「イーサン様、どうして貴方がここにいるのかは知らないけれど、この鎖を外すのを手伝って下さらない?」
私は再度イーサン様に向かって頼むと、目の前の彼は耐えられないというように声を上げて笑いはじめた。
「私が?君を助ける?それは無理な相談だ」
「なぜ?」
「君はこの状況になってもまだ理解出来ないのかい?」
「……」
何も言えないでいる私を見て、イーサン様は幼い子どもに話すようにゆっくりと種明かしをしてくれた。
「君はこの部屋から出る事は出来ない、二度とね」
「……もしかして貴方がこれを?」
「やっとその答えに辿りついたのか。遅いくらいだよ」
そう言ってゆっくりとこちらに向かって歩みを進めてくるイーサン様から逃げようと、私はできる限り距離を取ろうとした。しかし鎖が想像より短く、距離を取ることが出来なかった。あっという間に距離を縮められた私は、気付けばイーサン様に寝台へと押し倒されていた。
「何の冗談ですか。こんな真似をして、父が知ったら貴方は無事では済まないわ」
「私の心配をしてくれているのかい?優しいね」
「貴方の心配をしているのではないわ。この事はお父様に報告させていただきます」
「ははっ。君は本当に面白いね。この状況を君のお父上が承知していないとでも思っているのかい?」
「……まさか承知していると?」
「もちろんだよ。ついでに言うと君は僕から逃げる事は叶わない。未来永劫ね」
「……」
私が言葉に詰まっていると、彼はそっと私の髪を持ち上げ、まるで恋人にするかのように優しく口付けを落とした。
「君は僕に買われたんだよ。君のお父上はもう随分と長い事財政難に苦しんでおられた。それを私が君を差し出すことで資金援助を提案したんだ。本来なら君との婚約は君有責で解消の予定だったんだ。だからかな。君のお父上は二つ返事で了承したよ。君の家はこれからも貴族としての面子を保っていられる」
「何それ……」
「よかったじゃないか。君一人の犠牲で君の家族はこれからも貴族として、人として生きていける。君は自らを犠牲にして愛する家族を守ることができる。ははっ、まるで喜劇だ」
「何も良くないわ!私を家に帰して!!」
私はありったけの力でイーサン様を退かそうとしたけれど、所詮女の力ではびくともしない。私が無様に足掻けば足掻く程、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「私を家に帰してよ!!」
「私の話を聞いていなかったのかい?ダメじゃないか、人の話は最後まできちんと聞かないと」
「助けて、誰か助けて!!」
私はありったけの力を振り絞って助けを求めた。この屋敷にだってきっとイーサン様以外の人間はいるはず。彼だって貴族だ。使用人の一人や二人いるに違いない。
私は何度も扉の外に向かって助けを求めた。
「君は本当に愚かだよね。ジョシュア殿を好いていてもその想いが叶う事なんてないのに。彼の屋敷へ行ってどうするつもりだった?一目見て何を言うつもりだった?」
「あなたに関係ないわ」
「冷たいな。私たちは婚約者同士じゃないか。ああ、それにもう婚姻は済んでいるんだ。私たちは正式に夫婦になったんだよ。もっと気楽に話してほしいものだけどね」
「誰があなたなんかと気楽に話すものですか!!」
気づけば私はイーサン様への怒りで体が震えていた。自分の家が長年財政難だった事も、そのせいで目の前にいるイーサン様にお金と引き換えで買われた事もなにもかもだ。
「ああ、そういえば君に1つ伝えたい事があったんだ」
「……」
「ジョシュア殿は先日無事にシャーロット嬢と婚姻を結んだそうだよ」
「……何を言っているの?彼女達の式はまだ半月も先の話だわ」
「子が出来て早めたそうだよ。半月なんて誤差みたいなものだしね」
「子ども……」
知らなかった。あの貞淑なシャーロットと騎士の鑑とも言えるジョシュア様が婚前交渉をしていたなんて。いつかあの二人は夫婦になる。夫婦になったならば後継ぎの事もあるからそういった事もあるのは覚悟していた。でもまさか婚姻前にそんな事になっているなんて……。自分が想像していたよりもずっとショックが大きかった。
イーサン様に対して何も言えずにいると彼は、恍惚とした表情で小さく微笑んだ。
「君は本当に可哀想だね。好いた男は君ではない女性を孕ませ、君は今から大嫌いな私に抱かれるんだから」
「いやよ。やめてちょうだい。お願いだから今は一人にして」
「それも無理な相談だ」
いくらなんでもシャーロット達に対する気持ちの整理も出来ていないのに、ジョシュア様に抱かれたくない。私はなんとか彼から逃れようと必死で抵抗した。でもいくら泣き叫んでもイーサン様は止めてはくれなかった。
行為の最中もずっと彼はシャーロット達の事を口にした。二人の幸せそうな式の話や、産まれてくる子を心待ちにしている二人の話を繰り返し私に話して聞かせた。私は目にしていないはずなのに、その姿がありありと目に浮かぶようで、気づけば私はイーサン様の前で子どものように泣きじゃくっていた。
「人のものに横恋慕なんてするから。当然の罰だと思うな。こうなる事は最初からわかっていただろうに。それともそんな簡単な事すら理解できない頭の持ち主だったのかな、私の奥さんは」
もうどのくらい時間が過ぎたんだろうか。連日に及ぶ行為で、私は時間の感覚を失っていた。今日も目覚めるとそばには侍女が一人控えていた。最初の頃は彼女にここから出してくれるよう頼んだ事もあった。でも彼女は必要最低限しか言葉を発しず、私の世話が終わると早々に部屋を後にしてしまう。
外との連絡手段を完全に断たれてしまっている私は、なんとか逃げ出す事が出来ないか必死で考えていた。抵抗すればするほどイーサン様は私を厳しく監視した。昨夜も逃げ出そうとした私を見つけ、彼は私が気絶するまで何度も抱き続けた。
知らない、こんなイーサン様を私は知らない。私の知っている彼はいつだって飄々としていて、他の令嬢達の間をまるで優雅な蝶のようにひらひらと舞っていたじゃないか。
この人は誰だ。怖い、今すぐここから逃げないと。
その後何度も逃げようと試みてもすぐに侍女やイーサン様に見つかってしまって、その度にお仕置きと称して激しく抱かれた。
抱かれる度にジョシュア様とシャーロットの仲睦まじい話を繰り返し聞かされ、もう私の心は限界だった。
もう何も聞きたくない、見たくない。心が死ねればどれほど楽なのだろう。でもその日は近いのかもしれない。私の心の限界はとうに超えている。
今夜もまたイーサン様に抱かれる。それがどうしようもなく恐ろしい。
泣いて暴れてもイーサン様がこの行為を止める事はない。今夜もまた意識を飛ばしかけた時、彼が何かを呟いた。でも私にはもう聞き取るだけの力は残っていなかった。そして意識を手放す直前、絶対に届かない相手に向け、私は助けを求めた。
(助けて、ジョシュア様)
「ジョシュア、ジョシュアうるさいなぁ。そんなに彼に会いたいなら会わせてあげるよ。もちろん、君が妊娠して完璧に壊れた後だけど。私はどんな君も愛しているよ、誰よりも何よりも。未来永劫変わらずにね──」
end.