夫の幸せを願っていたのに
こんなに早く、こんなに近いと知っていたなら、生まれ変わりたくなんてなかった。
マリヤのまま、愛されていた妻のまま、永遠に目覚めたくはなかったのに。
息を引き取る時、あれほど願っていた夫と息子の幸せ。それが今、すぐ目の前に在る。私の後に迎えた新しい妻と、新しく授かった子と共に。
絵に描いたような四人家族。あまりにも自然に存在していて、かつては此処に居たはずの自分が幻に思えた。それでも自分の存在を確かめたくて、懐かしい壁を見れば、そこには結婚式の日の私達ではなく、新しい家族の肖像画が掛けられていた。生まれたばかりの子を中心とした、見知らぬ家族四人の。
願ったことなのに。祝福するべきなのに。激しい喪失感と自己嫌悪に襲われる。……私が居なくなっても幸せに暮らして欲しいだなんて。綺麗すぎる世界で眠りに就いた自分を嗤った。
出産で命を落としてから僅か三年後────
私は、私の侍女だったキキと家令との娘『モネ』として、この世に新たな生を受けた。成長するにつれ、徐々に鮮明になるマリヤの記憶。そう、私はマリヤの記憶をはっきり残したまま、生まれ変わってしまったのだ。
6歳の時、初めてオベル伯爵家……かつては自分が女主人だった屋敷に招かれ、そこであの幸せな家族の光景を見てしまった。
夫と新しい妻との間に授かった息子の、6歳の誕生日パーティー。ケーキの蝋燭を吹き消す小さな笑顔の周りには、沢山の愛が溢れていた。夫婦はもちろん、自分が命と引き換えに産んだ9歳の息子も、腹違いの弟を愛しげに見つめていた。
私によく似た息子が、新しい妻にそっくりな弟の頭を撫でる。
ぐちゃぐちゃに淀んだ胸から感情を拾うのに必死で、目の前に置かれたケーキの皿など、少しも手を付けることが出来なかった。
「食べないの?」
夫と新しい妻との子……アシェルに尋ねられるも、何も言葉が出てこない。するとアシェルは自分の皿からケーキを掬い、腕を伸ばして、目の前に座る私へと差し出した。
「はい、どうぞ。美味しいよ」
動けずにいると、アシェルは諦めたのか、自分の口にパクリとそれを入れた。もぐもぐと咀嚼しながら、今度は艶々した苺をフォークで刺し、私へと差し出す。
「はいっ、あーん」
それでも動けずにいると、双方の親達は同時に我が子を窘める。アシェルは苺が刺さったままのフォークを一旦皿に置くと、私が産んだ息子デーヴィドの方を見て言った。
「だって、病気の時とかに、兄上があーんしてくれると美味しいから。モネもあーんしたら食べてくれるかなあって。ね、兄上」
弟の言葉に、「そうだね」と微笑みながら同意するデーヴィド。子供達の純粋で綺麗な心に、自分の醜さが浮き彫りにされる。
涙を堪えれば自然と口が開いてしまい、アシェルはそこに、にこにこと苺を入れてくれた。
ほとんど喋らなかったのに、アシェルは何故か私を気に入り、その後も度々伯爵邸に招かれた。息子には会いたいけれど、仲睦まじい夫婦は見たくない。あの幸せな空間にも居たくない。けれど使用人の娘という立場から、無下に断ることも出来なかった。
『あの娘は妙に大人びていて、心配になるの』
母にそう思われていることは分かっていた。でも、一度は21歳まで生きた私が、今更子供らしく振る舞うことは難しい。母を哀しませたくなくて、本当のことも言えなかった。
『モネ! この絵本面白いよ!』
『モネ! ブランコで遊ぼう!』
『モネ! 今日は苺のおやつだよ!』
無愛想な私に対し、無邪気なアシェルは機嫌を損ねることもなく、いつもにこにこと接してくれる。最初はあの女性にそっくりな笑顔を見ることも辛かったけれど、次第にアシェルはアシェルなのだと、そう思えるようになっていった。
あの女性は、苦しいくらいにいい人だ。使用人の娘だからと私をぞんざいに扱うこともなく、ただの子供として温かく接してくれる。何よりデーヴィドのことを、我が子同然に大切にしてくれていた。
私とは全く違う、明るく気さくな性格と豊かな表情を持つ女主人は、屋敷中に活気と笑顔をもたらしていた。
……夫が惹かれたのも当然だ。元々私なんかじゃなく、彼女みたいな女性が好みだったのかもしれない。そう思えば、ほんの少しだけ心が楽になる気がした。
年月と共に、マリヤだった前世と、モネである今世が溶け合っていく。それでもぽっかり空いた、胸の喪失感は埋められなかった。
伯爵邸に招かれる度に増えていく家族の肖像画には、歳を重ね、私の記憶から少しずつ離れていく夫が居る。どれも皆、幸せそうな笑顔で……
すぐ傍で、今の彼を知ることが出来るあの女性が羨ましかった。
16歳になった私は、アシェルと共に貴族学院に通っている。今では良き親友となった私達。彼は半年後に控えた、デビュタントのパートナーも申し出てくれていた。『幼なじみの僕なら気楽だろう?』と。
……もし私が本当に16歳の若い娘だったら、友達としての好意だと、有り難く受け取っていたかもしれない。けれどそこには、異性としての好意が在ることに、もう簡単に気付いてしまう。
こんな日が来るとは思わなかった。使用人の娘と主人の息子という立場の差はあれど、子爵令嬢と伯爵令息であり身分も釣り合う。何よりも、一番近しい年頃の男女だというのに。
夫を愛したまま、心に穴が空いたまま、誰かを愛したり結婚することなど出来ない。しかも夫とあの女性の義娘になるなど……考えられない。
アシェルを傷付けずにどうやって断ろうかと、毎晩ベッドの上で頭を悩ませる。考えれば考える程、アシェルとの日々や眩しい笑顔が浮かび、忽ち心の穴を埋めてしまう。やがて一杯になった想いは、涙となって一気に溢れた。生まれ変わってから初めて、私は思いきり泣いていた。
デビュタントを二ヶ月後に控えても、まだ答えが出せぬまま伯爵邸に招かれてしまった。……アシェルの16歳の誕生日を祝う為に。
今日こそは返事をしなければいけない。急かされたりはしないものの、彼もきっとそれを待っている。気を抜けばすぐに溢れてしまいそうな胸を抑えながら、あの日と同じ、アシェルの大好物の苺のケーキを囲み皆で祝った。
19歳になったデーヴィドは、心優しい立派な青年に成長していた。こんなに大きくなったのに、弟を見る眼差しは幼い頃と少しも変わらない。来月には遠縁の令嬢との結婚を控えており、あの女性はその話ばかりをしながら、時折ハンカチで目を拭っている。その姿は、産んだだけの私よりも、ずっと本当の母親だった。
……愛してくれてありがとう。
大切なデーヴィドを、慈しんでくれてありがとう。
彼女の背中を優しく擦る夫を見ても、溢れるのは感謝の気持ちばかりで。以前のような喪失感はなかった。
食事の後は、いつも通りアシェルの部屋へ行くはずだった。……が、今向かい合っているのは、アシェルではなく夫である。
『アシェル、モネを少し借りていいかい?』と言われ、応接室へ連れて来られた為だ。
二人きりでなんて、一体何の話だろう。もしかして、私がマリヤであったことに気付かれてしまったのだろうかと身構えていたが、さっきから交わされているのは当たり障りのない会話ばかりで。柔らかなハーブティーの香りも手伝って、大分緊張がほぐれてきた時だった。
「……モネ。君は、私の前妻によく似ている」
脈絡もなく放たれた言葉に震え上がる。危うく手から滑り落ちそうになったカップを何とかテーブルに戻し、彼の目を見つめた。
「顔ではなくて、どこか……ふとした表情や仕草がよく似ているんだ。あまり感情を表に出さない控えめな女性だったが、道端に咲く野菊のように、とても可憐で愛らしかった」
『マリヤ、君は本当に可愛いね』
『モネ、君はすごく可愛いよ』
何度も何度ももらった、夫とアシェルの言葉。
何度もときめき、何度も戸惑った二人の言葉。
カチャカチャと音が鳴ってしまいそうなカップから手を離し、膝の上でスカートをぎゅっと握り締めた。
「だから、一度君と二人で話をしてみたかったんだ。アシェルに妬かれてしまうから、なかなか難しかったけどね」
悪戯っぽく笑う夫に、抑えていたものがスルリと溢れる。
「……旦那様は、前の奥様のことを愛していらっしゃったのですか?」
「当たり前じゃないか。愛していたから結婚したんだよ。今でもずっと愛している」
「では……では何故、前の奥様の肖像画が一枚もないのですか? 」
「大切に飾ってあるんだ。マリヤの部屋に。肖像画だけでなく、彼女が大切にしていたものは全部。会いたくなったら、二人きりで話をしたくなったら、いつもそこで過ごしている」
私は……私はまだ、この人の中に存在していたの?
私はまだ生きていたの?
押し寄せる歓喜の波は、意外にも長くは留まらない。尖った砂粒を残し、さっと引いていく。
「では、今の奥様のことはどう思われているのですか?」
「もちろん愛しているよ。マリヤを失い、壊れそうだった私を……デーヴィドにも上手く笑いかけることが出来なかった私を、彼女が救ってくれたんだ」
「前の奥様を愛しながら、今の奥様を愛することなど出来るのですか?」
やや責めるようになってしまった口調を咎めることもなく、彼は笑顔で話し続けた。
「私も正直難しいと思ったよ。でも、彼女が言ってくれたんだ。『人は、本当に大切なものなら幾つでも持てる。だから一つも捨てなくていい。一つも手放してはいけない。もしも溢れてしまったら、その分を私が持ってあげるから』と……」
……なんて広いんだろう。なんて温かいんだろう。
あの女性が、イヴォンヌ様が彼と結婚してくれてよかった。本当によかった……
頬を濡らす私に、彼は慌ててハンカチを差し出してくれる。少し色褪せたそれは、遠い昔に、私が刺繍をしたものだった。
しょっぱい涙をこくんと飲み込み、震える口を開く。
「旦那様は……旦那様は今、幸せですか?」
「ああ、幸せだよ。素晴らしい妻に、立派な息子達。心にはいつも、大切な愛がある。これで君がアシェルと結婚して家族になってくれたら、もっと幸せなんだけどな」
笑い皺の増えた愛しい目元が、言葉以上に彼の本心を物語っていた。
「どうか長生きしてくださいね。奥様の為にも、御子様達の為にも……私の為にも。いつか、お義父様になってくださるかもしれないのですから」
パッと輝く元夫の笑顔が、昼下がりの眩しい陽に溶けていった。
────真っ白に溶けていった。
応接室の外では、アシェルが廊下の壁に凭れながら立っていた。私を見て嬉しそうに笑うも、すぐに口を尖らせ不満気に言う。
「あんまり遅いから迎えに来たんだ。……まったく、父上は酷い方だ。せっかくの誕生日なのに、二人きりの時間を奪うなんてさ」
真っ直ぐに感情を表すアシェルに、自分もマリヤではなく、16歳のモネになる。くすりと笑うと、彼の大きな手に指でちょんと触れ、そのまましっかりと絡めた。
「モネ……」
ほんのり赤い顔に浮かぶ、熱を宿した瞳。きっと自分も同じ顔をしているのだろう。熱くなる互いの手が照れくさくて、私は少しだけ回りくどい言い方をした。
「そろそろデビュタントのドレスを仕立てなきゃ。貴方の礼服も合わせてもらわないとね」
新しい家族の肖像画に、私がもっと新しい家族として加わる。今はただ、そんな幸せを願っている。
ありがとうございました。
* イラスト作製・瑞月風花様 *