5.癒しの業の伝承
「弥生様、いかがでしょうか」
弥生は、お結びを一口、ゆっくりと噛みしめ、味わい、飲み下し、腹中に収まった感触までを確かめるように、しばしじっと瞼を閉じた後、目を開き、菊姫の顔に向かって優しく微笑んだ。
「申し分ございません。癒しの業は十分に籠められております」
硬かった菊姫の顔がほっと緩んだ。
「良かった」
「よう修行なされました。菊姫様らしい温かな『気』がたっぷりと感じ取れます。このお結びを食せば、疲れは癒え、気力は漲り、ふだんの倍ほどの力も振るえるでしょう。病の者も快方に向かうに違いありませぬ」
「何もかも、弥生様の御蔭です。弥生様がここまで丁寧に教えて下さらなければ、私だけでは何をどうして良いのかも分かりませんでした」
「いえいえ、私の方こそ、力がもう少し残っておれば、もっともっと姫様の目の前で、業の使い方をお見せして、お教えできましたのに。すっかり老いぼれてしまって、口先でやかましく言うばかりで、申し訳なく思っておりました」
「そんな。癒しの業の遣い手は決して多くはございません。弥生様のような導き手が近くにおられて、私は本当に幸せ者です」
「幸せ者ですか…」
弥生はぽつんと呟くように、菊姫の言葉を繰り返した。
「癒しの業は確かに人を救う善き業ですが、全てを救えるわけではない。御屋形様からも頼まれましたからお手伝いさせていただきましたが、菊姫様が幸せになられるのに、癒しの業が障りになるのではないかと、私は案じておるのです」
「覚悟しております、弥生様。弥生様は食べ物や飲み物に癒しを籠めるだけでなく、戦場に出て傷ついたものを癒したこともあったと」
「そのようなこともございました。けれども菊姫様は戦場に出てはなりませぬ。そもそも癒しの業と言えど、命を落とすほどの傷を癒すことは出来ませぬ。切り離された手足を元に戻すことも適いませぬ。恐ろしい命の奪い合いの中で、癒しの業はほんのささやかな力に過ぎぬのです。それなのに、この業を、遣い手を我が物にしたいがために、戦さえ仕掛けようという、愚かな者もいるのです」
「そんな」
弥生はしばらく言葉を止め、案ずるようにしていたが、迷いを振り切るように一度頭を振って、また言葉を続けた。
「このことは余り公にはなっておりませぬが、菊姫様は知っておかれた方が良いでしょう。私が最後に癒しの業を使った時のことです」
「はい」
菊姫が居住まいを正して、弥生の言葉を一言たりとも聞き逃すまいと、ひたっと顔を見つめてくるのに頷いて、弥生は話し始めた。
「国境の村で、井戸の水に毒が湧いて、村の人たちが苦しんでいる、という知らせが届き、先代の御屋形様は私を遣わすことを決めました。癒しの力はこのような流行り病によく効きますし、上手く力を伝えることができれば、井戸の水を清めることもできます」
「それほどの力が…、弥生様に」
「私一人ではそこまでは。ただ達人の域にある『気』の遣い手の助けがあれば。剣の道で達人とされる方が使われる『気』の技は、癒しの業の力ととても近いもの、根は同じものなのです。ですから『気』の遣い手の力を私が受け取り、それを癒しの業の力に転じて注ぎ込む。そのようにして、大きな力を使えることが分かっておりました。その時も、私と共に護衛も兼ねて、五人の侍が共に行きましたが、そのうちの一人が御屋形様のご子息たちの剣の師範、佐藤義三郎殿で、『気』の遣い手でした。また女子衆も私を含めて五人でした。私は当時、もう四十を越えておりましたが、女子衆も十五から五十過ぎまで、年恰好はばらばら。癒しの業は私しか使えませぬ。後の者たちは病人の介護の手伝いでした。と、言うより、癒し手が誰かを分かりにくくするための隠れ蓑でございました」
「隠れ蓑とは」
「あの頃、京からは、癒しの業の遣い手を差し出せと、様々な方から幾度も求められておりました。御上ではございませんが、京のお偉い方々が、御上の為だと仰って。御屋形様はそれを拒んでおられましたが、それでは、と力づくで攫いにくることもあったのです。それ故、私の年恰好や身なりは伏せられ、何人かの女子衆と、同数の護衛の侍衆が共に動くことになっておりました」
「あぁ、そういうことなのですね」
「けれど無駄でした。その程度では何の役にも立たなかったのです。井戸から毒が出た村に着くと、私たちはさっそく病の者を村長の家に集め、私が用意してきた癒しの業が籠められた団子を配りました。それから病が篤く動かせない者のところを手分けして訪ねました。急を要する時は、私が直に手当てをしなければならないからです」
「直に。直に手当てする方法もあるのですね」
「それを菊姫様にお教えするつもりはありませぬ」
「えっ」
「お教えすれば、菊姫様の身に危険が及びます。あの日のようなことが菊姫様や菊姫様の回りの人々にも起こるからです」
弥生は語り続ける。
「あの時、私は義三郎殿の力も借りて、手当てを続けていました。私の力も、義三郎殿の『気』の力もほとんど使い切って、それでもようやく病人をあらかた看終えた頃合いで、村が山賊の襲撃にあったのです。五十人を超える荒くれ者を、五人で迎え撃つのは困難でしたし、義三郎殿は『気』の技を遣えません。それでも、せっかく病から助けた村をむざむざ見捨てられぬと奮闘し、賊が引き始めた時、一本の矢が私に向かって放たれ、庇った義三郎殿の胸を貫きました。すぐに横にいた護衛の武士が矢を射返し、敵方を射殺しました。倒れた義三郎殿に飛びついた私は、最後の力を振り絞って癒しの業を手当てで施しました。私の胸の何処かで、確かに何かが尽き果てたのを感じ、私は体を起こすこともできず、義三郎殿の横に倒れ伏しました。癒しの業は不十分ではありましたが、義三郎殿は辛うじて生命を繋ぎ留めました」
菊姫は聞きながら、ほっと胸を撫でおろした。
「そこへ京の御旗を立てた武士どもが現れ、山賊どもを皆殺しに切り伏せました。そして村に降りると、一本の矢を掲げて、これを射たものは誰か、と尋ねました。『気』の込められた特別な矢、それは義三郎殿を射たものを射返した矢でした。名乗り出た我が方の護衛の武士を彼らは取り押さえ、いきなり切りつけたのです」
「えっ」
「『この者が射たのは、帝より直々に弓を賜った方である』と。『例え誤射であっても決して許されない』と。もちろん、そんな馬鹿な話はありません。私は這いつくばったまま、それでも何とか手当てをしようと試みました。手当てをせねばなりませんでした。何故なら切られた方は御屋形様のご長男、今の御屋形様の兄上に当たられる方だったからです。けれども、私にはもう何の力も残ってはおりませんでした。私の目の前で、若殿は息を引き取られました」
「そんな、ひどいではありませんか」
菊姫が今、それを目の前にしているように震える。弥生は淡々と言った。
「その時、御旗を立てた武士の頭らしき者が言ったのです。『癒しの業の者の力はこの程度か。無駄足であったのか』と」
「ッ」
「山賊に襲わせたのも、あるいは井戸水に病の素を潜ませたのも、全ては癒しの業の者をおびき寄せ捕えるため。けれど、彼らは結局、癒しの業の者を手に入れることはできなかった。私の力が枯れ果ててしまったから」
「酷い。酷すぎます」
「だから、あなたは癒しの業を外で振るってはいけない。この国の者、この里の者にも教えてはならない。でないと、また、あのような惨く、愚かなことが繰り返されて、多くの人が傷つくのです。約束してください」
「……はい」
けれども、その約束は、十分には守られなかった。
菊姫は外で直接癒しの業を使うことはなく、癒しの業を持つことも口外はしなかった。屋敷内でお結び等に癒しの力を籠めることに留めていたが、それを携えて領内の病人を訪ねたり、不作で飢えに苦しむ村や、大水などの災害に苦しむ村を慰問して回った。また慰問先の長老の家などへ、持ち込んだ米を炊いて結びを拵えることもあった。
菊姫のお結びで病が癒えた、一個のお結びで飢えに倒れ伏していたものが働けるまでになった、という噂は、たちまち領内に広がった。
領主はこれを憂い、菊姫の外出を制限しようとしたが、菊姫を待ち望む声は多く、菊姫もそれに応えることを、自らの務めと思い定めているようで、なかなか控えようとはしなかったのだ。