4.九郎との出会い
初夏のある日、桃太郎は思いついて川沿いの道を上り、湖に向かった。
滝のある岩壁をよじ上ると、視界が広々と開ける。
岸辺を歩いていると、水面に魚が跳ね、鳥がそれを狙って空から飛び込んでくる。飛沫が上がり、湖面が波立つ。湖にも数多の生命がある。
まずは水の中の魚に気が当たるか。
否、その前に水の中の魚の気配が感じ取れるか。
桃太郎は、心を鎮め、木刀を中段に構えて、湖中の気配を感じ取ろうとする。
難しい。
気配はある、と思う。
けれども、それは数多く、薄く、常に動いている。
陸の生き物は止まる。こちらを窺う。その時、気配が濃厚になり、発する場を感じ取ることができる。魚たちは、こちらをほとんど意識しない。たまに感じ取っても、止まることが無く動いている。しかもその動きは上下左右、深浅、遅速が融通無碍だ。それでも、ゆっくりと様子を見るかのように近付いてきた気配に向けて、
「破ッ」
木刀を振り下ろす。が、気配は直前に向きを変えており、『気』は当たらない。が、
「面白い」
『気』は木刀五本分くらいの長さに渡って水面を一瞬割ったのだ。深さは木刀一本分くらいだろう。これは『気』の強さと軌道が見えるということだ。
もう一度、木刀を振りかぶり、気合と共に振り下ろす。今度は微かに感じ取れる、湖面近くの浅いところに揺れる気配に向けて。
ざわっと水面が波立ち、湖面に裂け目が走る。先ほどより浅く、ずっと遠くまで。
次は、ずっと手前の湖底近いところに潜む気配に向けて。深々と、湖が切り裂かれ、深い緑に苔生した石が瞬間、顔を出した後、また水の中に隠れる。
これまで『気』は生き物、それも動物にしか発したことは無い。岩や木に向けては、発せるという手応えが無い。今も湖の中のおそらく魚の気配に向けてだから発することができる。しかし、湖を切り裂く『気』の力を目にすると、『気』が生物だけでなく森羅万象に力を振るうことができることが分かる。
この湖で『気』を発する稽古を続ければ、『気』をいつでも自在に、振るうことができるようになる、と思った。
日が暮れるまで、桃太郎は湖岸で木刀を振るい、『気』を発し続けた。
そして三尾の魚を獲ることができた。『気』が当たった魚は七尾だったのだ。当てられた魚は水面に浮かび上がるので、それを泳いで取りに行かなければならない。面倒な上に、時間が立つと魚は勝手に蘇って逃げていってしまう。冬であれば、泳いで取りに行くこともできなかっただろう。魚を獲るだけなら、釣りをする方が楽だ、と思った。
魚をたき火で炙って夕飯にし、桃太郎は火の前で胡坐をかき、目を閉じた。
虫の音、木々のざわめき、湖の波立ち。
山は気配と音に満ちていて、それでいて静かだとも感じる。
グォーンという低い低い大地の音が、全ての音を支えるように鳴っているのを感じる。その音を感じているうちに、桃太郎は自分の中にある『気』がひたひたと漲って増していくのを感じる。
と、桃太郎は振り向いた。
体が森の一点に向いた時には既に、立ち上がってぴたりと木刀を構えている。相手は樹上にいる。
「ほうほう、気が付くか。臆病者の野兎でも気づかぬほど気配を消しておったのにの。さすがだ」
とたんに気配はぬぅっと大きく膨らんだ。その気が桃太郎を圧してくる前に、木刀に『気』を込める。と、気配はふっと軽くなった。
「はっはっ、やめよう、怪我はしたくない。いやに強い『気』を発しておるものだから、様子を見に来たまで。争い事は好まん」
バサバサと羽音を立てて、漆黒の鳥が舞い降りる。
「烏の物の怪か」
「さよう、烏。物の怪かどうかは知らぬが、我が身は烏に間違いない。さほど大きくも強くもない、山にも里にもおる当たり前の鳥。おぬしに危害など加えようもない」
「足が三本ある」
「それこそ由緒正しき烏の証よ」
「喋る」
「喋ってはおらん。おぬしの心に語りかけておる。何せ烏の嘴は喋るようにはできておらんからな」
「烏は喋らないし、夜はねぐらで眠るもの。おまえは世の理から外れている。やはり物の怪じゃないか」
「ま、確かに羽の色は黒で同じだが、そこらの烏とはちょいと毛色が違うことは認めよう。物の怪と呼ぶも勝手。が、物を考え、話をするのが物の怪なら、人は皆、物の怪であろう。おまけにおぬしは『気』も使いこなす。ならば正真正銘の妖と言ってもよかろう、どうだ」
「ん、そうかもしれん」
「そうかもしれん、か。気に入ったぞ、若いの。妖と言われて怒らずに、そうかもしれん、と言う奴は初めてだ。よし、おぬし、わしを下せ」
「下す、とはどういうことだ」
「おぬしの家来にするということよ。このまま別れれば、わしとおぬしの縁は切れる。するともう一度会うことは難しくなる」
「ここへ訪ねてきてもか」
「そう。わしの住まう場所とおぬしの住まう場所は、同じようで同じでない。時折、つながることはあるが、自由に行き来はできぬ。だが、主従の契りを結べば、おぬしが呼び出したい時に、わしを呼ぶことができるようになる。わしがおぬしを従えても楽しいのだが、まぁ、おぬしの方が強い。わしが仕えてやろう」
「ふふっ、仕えてやろう、とは仕える者の言葉ではないな。分かった。家来になれ」
「いやいや、言葉だけでは何ともならん。良いか、わしが今からおぬしを『気』で押す。おぬしはその『気』を押し返して、わしの中におぬしの『気』を押し込む。いいか、全力でやるのだぞ。でないと、わしがおぬしを従えることになるやもしれん。おぬしの『気』がわしを捉え、従わせることができたら、わしは下る。その時に、おまえは好きな名でわしを呼べ。わしはその名でおぬしに仕える」
桃太郎は烏がまくし立てる言葉に首を傾げたが、烏は
「では、いくぞ」
という言葉と共に、『気』を大きく膨らませ、桃太郎の頭上に押被せてきた。桃太郎は咄嗟にを込めた木刀でそれを打ち払うと、上段から一振り、烏に向けて真っ直ぐに打ち込む。
「破ッ」
湖の稽古で繰り返したように、『気』が一直線に迸り、烏の中に吸い込まれていくのを感じた。烏の体がカクっと弛緩して、目が虚ろになる。
「九郎ッ、従え、我にッ」
桃太郎の声に、びくりと大きく震えた後、烏は生気を取り戻した。
「フ~っ。いやはや、おぬしの『気』は強すぎるわ。もう少し、こう、押し合いになるかと思っておったのに。危うく消し飛ぶところであった」
「すまない。力の加減までは分からなくて」
「いやいや、全力でやれと言ったのはわしの方。それに、もはやおぬしはわしの主人。わしに謝る必要など無いわ。で、わしは九郎か」
「あぁ、私は桃太郎だから、郎がつくのがいいなと。後は、まぁ羽の色と」
「黒いから…黒いから、黒で九郎…」
「あ、あの急で考える閑もなかったから。気に入らないなら、他の名前を」
「変えられんよ、主従の契りが切れるまでは。つまり、どちらが死ぬまではな。死ぬまで黒の九郎というわけよ。ま、分かりやすいわな。黒の九郎」
九郎はため息をついてみせる。
「で、これからどうするか。家来になったからには、常に身近について参れと言われればそうするが」
「それは困る」
桃太郎は慌てて言った。普通より一回りほど大柄な烏が四六時中一緒に居る。しかも三本足の烏だ。どう考えても異様だ。養父上は許すかもしれないが、養母上はきっと嫌がるだろう。里の人も怖がるに違いない。
「困ると言われると少々傷つくが…、では、用のある時に呼べば、参上するとしようか。わしもその方が役に立てる」
「役に立つと言っても、何をしてもらえばいいのか」
「ふむ。わしは物の怪かもしれんが、大して強くはない。おぬしの『気』に吹き飛ばされる程度の、まぁただの黒い烏よ」
「いや、それは…」
「が、まぁただの黒い烏はどこにでも飛んで、どこにでも居られる。足はほれ、このように上げておけば二本しか見えん。ただの黒い烏のことなど誰も気にはせん。
里に下りれば人の話は聞き放題。森では鳥たちの噂話も聞き放題。わしほどのものしり、早耳はそうはおらんだろう。その中からわしはおぬしに役に立つ話を選んで教えることができる。まぁ、忍びを雇うておるのと同じかな」
「うーん、面白そうではあるけど、それに九郎の話は聞いてみたいから、言う通りに主従の契りは結んだんだけど。でも、特に知りたいとか役に立つ話とかはないかな。だから、主従とか気にせず、山に来たときたまに呼ぶから、話をしよう」
「知りたいことがないなどと言わせぬよ。例えば菊姫の話などどうかな」
「えっ」
「桃太郎が菊姫のために剣の道を選んだのは、そこそこ有名な話ぞ」
まさかここで、物の怪から菊姫の名を聞くとは思ってもおらず、不意を衝かれた。桃太郎は顔が火照るのを感じた。
「それとも、おぬしの真の親の…」
「その話は不要」
顔の熱さが一気に冷めた。
「私の親は、養父上、養母上のみ。桃から生まれた桃太郎に、真の親など無用だ」
「あい分かった。この話は終わりとしよう。だが、菊姫の話は聞きたかろう」
「あぁ。まぁ、菊姫様の話なら、聞きたい、かな」
「そうだろう。菊姫は今、癒しの業の修行に励んでいるらしい」
「癒しの業というのは何だ」
「言葉の通り、病を癒し、疲れを癒す。そういう力を持つ者が、稀にいる。その力を飲むもの、食べるものに籠めることで、多くの者を癒すことができる」
「菊姫様にそのような力が」
「あったのだ。そして幸いにもそのような力の持ち主が身近にもおり、力の養い方、使い方を学ぶことができたのだ」
「なるほど、私が養父上から剣と『気』の使い方を教わるようにだな」
「よく分かっておるではないか」
九郎は烏なのに、確かににやりと笑ったのが分かった。
「菊姫にそれを教えておるのは、おぬしの養母だからな」
「えっ、それは」
「弥生殿は癒しの力を使い果たしてお引きになったが、かつては高名な癒しの業の遣い手として、都からも求められるほどであったよ」