3.「気」の修行
「桃太郎は、そろそろ一人で山に入ってもいい頃合いかもしれんの」
山からの帰り、桃太郎の十五本の杭撃ちを見た養父が、その日の晩に桃太郎に告げた。素振りを始めてからそろそろ三年が経っている。
「お爺さん、それはまだ早くありませんか」
養父の言葉に珍しく養母が反対した。
「いや、素振りの型も様になっておるし、杭撃ちも速く強くなった。この先はやはり里では難しかろう」
「もう十分ではありませんか。桃太郎は侍になるのではないのですから」
ふむ、と養父は小さく頷いてから、養母と桃太郎を等分に見ながら、言葉を探るようにして語り始めた。
「わしもそう思っておったのだがの。穏やかな日々がいつまでも続くのであれば、今の修業でも備えとして十分じゃと、わしも思う。しかし、残念なことに、なにやら世の動きが怪しい雲行きでな。何かある時、或いはわしらもこの世におらんような時に、桃太郎がいかようにも、心のままに進んでいけるようであって欲しい。侍であるか、百姓であるか、とは関係なく、その時の心が求めることを素直になせるようであって欲しい。そう思うのじゃよ。そしてそのためには、おそらくは本物の強さが要るじゃろう」
養父は穏やかに語ったが、何時になくその言葉には厳しさが滲んでいて、桃太郎は背筋を伸ばした。養母は逆に背を丸めて
「そうですか」
と小さくため息混じりに応えた。
「養父上、山に何があるのですか」
「山には数多の生き物がおる。桃太郎は剣を修めたいと言うた。剣は木を打つものではない、人を斬るもの。しかし里で人を斬る稽古をするわけにはいくまい」
「はい。けれど武家の方は、木刀で斬り合いの稽古をするのではないですか」
「木刀でも骨を砕き、命を奪うことはできる。稽古で人が死なぬのは、斬り合いの稽古ではなく、技の稽古だからじゃ。技は仕合では大いに役に立つが、戦場ではそれとは違う力が必要じゃ」
「それでは、山の数多の生き物の命を奪わねばならないのでしょうか」
「嫌そうじゃな。が、獣相手でも命のやり取りは嫌なもの。ならば人相手なら猶更であろう。それを忘れてはならず、しかしそれを避けて剣は振るえぬ」
「はい」
「が、山で片端から殺生せよというわけではない。斬らずとも制し、撃たずとも従わせ、殺さずとも死地を脱する。その力を身に着けるのが大事なことじゃ」
養父はそう言った。
「そのようなことが…」
「できるのか、と思うたであろう」
桃太郎は頷く。
「では、桃太郎、こちらをご覧」
言われて養父の顔を見上げた桃太郎は、そのまま動けなくなった。養父の目が、桃太郎を捉えて離さない。そしてどういうわけか、養父の身体が急に大きく感じられる。そこから得体のしれない重いものが押さえつけきて、だんだん息が詰まって苦しくなる。視界いっぱいに養父の目が広がって、他には何も見えない。
「と、まぁ、こんなもんじゃな」
という穏やかな声と共に、桃太郎は解放されて息をついた。
「これを例えばこんな風に」
庭先で何か啄んでいる小鳥に目をやると、誘われるように小鳥が頭を挙げ、養父と目を合わせるなり固まった。
「破っ」
短く発した声と共に、小鳥がコテンと転がる。桃太郎は息を呑んだ。
「死んだのですか」
養父は優しく首を横に振り、
「活ッ」
と一声発すると、小鳥は驚いたように飛び上がり、そのまま慌てて飛び去った。
「『気』と言う。誰にもある力じゃが、使うには二つ。一つは己の『気』を練り上げて大きく剛くすること。一つはそれを自在に発することができるようにすること」
「どのようにすれば」
「実は桃太郎は、もう『気』はよく練れておるし、わしよりも余程大きくて剛い『気』を持っておる。おまえは毎日、素振りをしておろう。正しい素振りは、佳く『気』を養い、練ることができるからの。しかし発するには、相対して発する稽古が要る」
「山の獣が稽古の相手、ということですか」
「そう。生き物に向けてでなければ、『気』はなかなか籠らぬからな。最初は『気』を込めて木刀で撃つ。木刀で撃ちながら、木刀に込めた『気』で撃っていると、そのつもりで撃つ。その先は自ずと見えてこよう」
「はい」
「山には数多の獣がおる。その中には熊や狼のような、人を襲い、命を奪う力を持つものもある。それらに相対した時こそ、『気』は磨かれ、使い方を知る機会となろう。が、『気』を発することができなければ、命を奪われるかもしれん。その際で掴み取る力こそが肝要なのじゃ」
「はい」
「山には獣に交じって世の理から外れた生き物もおる。これに出会うかどうか、出会ってもその姿をお前に見せるかどうか、それは分からん。ただし、そういうものに立ち向かうには、『気』の力が無ければならん」
「それは化け物でしょうか」
「化け物とも妖とも物の怪とも呼ぶものはあるが、それは何者か分からん、という意味に過ぎぬのよ。ただそういうものがおるのだと、それだけ知っておいて、妖だと恐れてみたり、化け物だと蔑んでみたりせぬように」
「はい。養父上は出会われた事があるのですか」
「いくらかは、の。昔の話じゃよ」
養父は遠い目をした。
桃太郎は、その目の先にある昔の風景の中に、理外の生き物と相対した養父の姿を見た気がした。そして養父の隣に、誰かが居ることを感じた。
その翌日から、桃太郎は山に入った。入ると三晩は帰らないが、四日目には必ず帰る、というのが約束である。初めのうちは何も起こらない。茸を採り、木の実を採り、芋を掘る。数多の生き物がいると言っても、その大半は桃太郎より小さい。桃太郎を襲うような獣など滅多に現れない。そして桃太郎も小さな獣を無理に襲うような真似はしない。木刀が振るわれる機会などまるでない。
それでも様々な生き物が、警戒と好奇心の入り混じった気配を滲ませて、桃太郎を取り囲んでいるのは感じられた。『気』を意識しているうちに、気配に敏感になっていたのだろう。そして桃太郎がその気配のどれか一つを強く意識すると、相手にもそれが分かるらしく、気配を濃厚にしてから、サッと逃げていくのだった。
桃太郎は養父が小鳥を『気』で昏倒させたことを思い出し、小鳥や栗鼠などに向けて木刀を振り、『気』を放とうと試した。しかし、それで相手を驚かせることはあっても、倒したり縛り付けたりすることは、到底できそうになかった。
しかしある春の日、何度目かの山入りの夜、明らかに怒気の混じった大きな気配が、まっすぐ向かってくるのを感じた桃太郎は、木刀を構え、静かにそれを待った。
現れたのは人よりもかなり大きな熊であった。熊は突進してくるかのようだったが、桃太郎の待ち構える姿に何かを感じたか、急に踏みとどまり、低く唸った。さすがに桃太郎もこの熊を『気』だけで倒そうとは思わない。木刀で打ち倒すしかない、と覚悟を決めている。
しばらくは睨み合いが続いた。桃太郎は自分の木刀から熊に向けて、なにか圧するような力が伝わっていくような気がしていた。一歩踏み出す。と、熊は小さく後ずさった。もう一歩踏み出す。が、熊は下がらず、カッと目を見開く。押し返されるような力を感じる。
「グォーゥッ」
熊は焦れて四ツ足で駆け出す。同時に桃太郎も木刀を振りかぶって前へ。木刀の届く間合いに入った瞬間、熊はがばっと二本足で立ちあがり、前足を振りあげた。
間合いが外れ、誘い込まれるように桃太郎の体が前足の届く距離に入る。立木もなぎ倒すような熊の一撃。が、桃太郎の最後の踏み込みは、ダンッ、と地を振るわせるほどの力強さで、桃太郎の身体を前足の射程より更に内側へと運び、桃太郎は袈裟懸けに脇をビシッと打ち抜きながら熊の後方まで抜ける。三歩の距離で振り向き、木刀を構える。
熊はそのままドォッと倒れた。
直前まで膨れ上がらんばかりの巨大だった気配が消えている。
どうやら熊は気を失ったらしい。
桃太郎は慎重に近寄り、木刀で熊を小突いた。熊は動かないが、息はあるようだ。
熊は肉も毛皮も役に立つ貴重な獲物だ。が、桃太郎はこの熊にとどめを刺す気にはなれなかった。
「『気』の発し方が少し掴めた気がする」
熊の脇腹を撃った一撃の手応えを思い出す。瞬間に何かが桃太郎の内側から木刀に、そして熊の体に伝わったような感覚。そして熊の肉を切り裂いたように振り抜けた感触。恐らく、木刀に『気』を載せて斬ることができたのだと思う。でなければ脇腹への一撃で、この熊を気絶させることなど出来はしないだろう。
桃太郎は、養父が小鳥にしたことを思い出し、木刀で熊の眉間に触れながら、
「活ッ」
と叫んだ。
木刀を通じて、何かが迸り出た感触があった。
熊の目がゆっくり開き、桃太郎は飛び退って様子を見守った。
熊はのろのろと身体を起こし、桃太郎を見ると、耳を伏せるようにしてうずくまった。小さく震えているのが分かる。
「おまえのおかげで、初めて『気』が使えた。だから今日は、おまえを殺したりはしない。安心して去りなさい」
桃太郎が言うと、熊は言葉を理解したかのように、ゆっくりと背を向けて、山の奥に歩み去っていった。
『気』を発した、という体験は、桃太郎を飛躍的に成長させた。
次の日には、背後の茂みからこちらの様子を窺っていた狸に、振り向きざま木刀を向けて
「破ッ」
と叫び、『気』を当てて昏倒させることができた。
次に山に入った時には、山鳩、狐、野兎、といった小型の動物なら、いつでも『気』を発して捕まえることができるようになった。