悪役夫婦が追放された日
「君との婚約を解消したい」
婚約してから十数年。それはリナローズ・ラディアンが婚約者であるノルツ・オーランドと顔を合わせるたびに幾度となく言われてきた台詞だ。
「俺は君のことが嫌いだ」
「この婚約が幸せなものになるとは思えない」
「君は俺に相応しくない」
ノルツはことあるごとに様々な理由を並べてリナローズを拒絶する。その数だけリナローズもまた、同じ台詞をもってノルツに答えたわけだが。
リナローズは侯爵令嬢。ノルツは一国の王子。二人の婚約は国の力関係を左右する政略結婚であり、ノルツの希望が通ることはなかった。
それは婚約してから十数年が経ったとあるパーティー会場での出来事。
リナローズは今夜もノルツからお決まりの文句を浴びせられていたのだが、いつもと違うのはそこが華やかなパーティー会場であることだ。良識のあるノルツにしては珍しく、人前で婚約の話題を切り出してきたのである。
顔を合わせるなり、ノルツは挨拶もなしにリナローズへ詰め寄った。
「リナローズ・ラディアン。君のような人が婚約者であること、俺はもう我慢ならない。君に俺の妻が務まるとは思えない。俺は君との婚約を破棄させてもらう!」
穏やかなノルツが感情を荒げ、破棄を宣言するのは初めてのことだった。
二人が話しているのは会場の片隅ではあるが、賑やかな社交の場だ。王子と侯爵令嬢という社交界では有名な二人の組み合わせ。それも耳に届くのは婚約破棄という非常に興味をそそる内容である。あくまで遠巻きにではあるが、否応なしに自分たちが注目を集めていることをリナローズは感じていた。
ノルツが婚約破棄を申し出たくだりで周囲には衝撃が走り、賑わっていた会場は静まっている。
これまで二人の婚約は、幸せが約束されたものだと羨まれてきた。リナローズもノルツも、その地位と容姿から社交界では絶大な人気を誇っている。
可憐な姫君であるリナローズを得たノルツは羨まれ、王子の婚約者に選ばれたリナローズは令嬢たちの憧れだった。
そんな二人が何故?
会場は騒然としていた。興味を引くのは当然のことである。
しかしリナローズは慌てもせずに、今日もまたその一言を口にした。
「お断りします」
即答だった。
「……後悔するぞ」
そう告げたノルツの方がよほど後悔を押し殺しているようだった。
リナローズとノルツの婚約破棄騒動は瞬く間に社交界を駆けた。この国の次期国王が発表されたのは、その翌日のことである。
新たな王に選ばれたのはノルツの兄。
ノルツ・オーランドは王位継承権を剥奪され、王都からの追放が決まる。辺境にささやかな領地を与えられ、その地の領主に任命されたのはその数日後のことであった。
ノルツの追放が決まってからのラディアン家の様子は慌ただしいの一言に尽きる。本来手順を踏み、長い月日と情勢を鑑みて行われるはずだったリナローズとノルツの結婚が早まったので当然だ。
本来リナローズは結婚した暁には離宮を与えられるはずだった。けれど追放されるノルツの妻にそれは許されない。妻になる事を約束させられたリナローズもまた、夫とともに追放地へ向かわなければならなかった。
王位争いに敗れたノルツに盛大な結婚式は許されず、リナローズは明日ノルツの迎えで追放地へともに旅立つことになっている。
王子の婚約者から一転、あまりにも惨め極まりない境遇だ。羨望を集めていたリナローズに向けられたのは同情で、彼女を羨んでやまない令嬢たちからは嘲笑されることもあった。
その屈辱に、ラディアン家は混乱の渦中にいる。誰よりも落ち着いているのは嫁入りするリナローズで、本人は慌ただしい空気に目もくれず、部屋で読書に耽っていた。
そんなリナローズの元を訊ねたのは妹のロザリーだ。
「お姉様。支度は順調ですか? 何かお手伝い出来ることがあればと思って、様子を見に来ました」
ロザリーは可愛らしい表情を浮かべてこちらの様子を窺っていた。
「ありがとう。でも大丈夫よ。みんなが頑張ってくれているから。それにわたくし、荷物は多く持って行くつもりはないの」
「そうなのですか? では、持って行くつもりがないものは私がいただいてもいいのですね!」
可愛らしく首を傾げて名案だと言うロザリーに、リナローズは素っ気ない返答をした。
「好きにしていいわ。もうこの家に帰るつもりはないから」
人によっては冷たいと思われるだろう。しかしロザリーから感じるのは喜びだ。
「そうなのですね。では明日からここは私の部屋として使わせていただきます」
二度と会うつもりがないという宣言に悲しむことなく言葉を続ける。それどころか頬を染め、うっとりと語るのだ。
「この人形も、この机も、明日からは私のものになりますね」
なぞるような視線を向け、ロザリーは遠慮無くベッドへ歩み寄る。そこに置かれていたウサギのぬいぐるみを抱き上げ胸に抱えると、一際笑みを深くした。
「好きになさい」
素っ気なく答えれば、ロザリーは嬉しいですと言ってぬいぐるみを高く抱き上げる。そして無残に手を離した。
「……なあんて、私が言うと思いましたか? お姉様のお下がりなんて嫌ですよ」
ロザリーはドレスと揃いの可憐な靴でリナローズが大切にしていたぬいぐるみを踏みつけた。何度も何度も、リナローズの心を傷つけるように目の前で。
家族や他人の目がなければロザリーはたちまち可愛らしい妹ではなくなる。その仮面の下には嫉妬深く欲の深い女が隠されているのだ。
彼女を知る人間がその姿を前にすれば本人であるかを疑うだろう。けれどリナローズだけは、この本性こそが妹のロザリーであると知っている。
それはノルツの婚約者に選ばれた時から始まった。
「どうしてお姉様が王子様の婚約者なのですか?」
夜、寝室に訪れたロザリーはリナローズの腕を力一杯掴み、爪を立てながら詰め寄った。
決めたのは大人たちだと言えばロザリーは狡いと言って泣き出してしまう。そうして涙ながらに寝室を飛び出し、姉に泣かされたと両親に言いつけた。
両親は姉妹の喧嘩だと大事にすることはなかったが、姉なのだからとリナローズだけが諫められた。
あの日からロザリーは姉に対する嫉妬を隠すことがなくなった。姉に贈られた物があればそれを奪い、まるでリナローズが悪いかのように告げ口をする。ロザリーにとってリナローズという人は先に生まれたからという理由だけで自分より恵まれている大嫌いな人なのだ。
両親はいつでも帰ってきて構わないと言ってくれたが、それはロザリーが許さないだろう。いずれ夫を迎えてこの屋敷を支配するのはロザリーだ。そこに自分の居場所がないことくらい想像がつく。こうして部屋を訪ねてきたのも釘を刺すためだろう。
「ねえ、お姉様。私ずっとお姉様が羨ましかったんですよ。この部屋だってそうです。私はこの部屋から見える景色が気に入っていたのに、お姉様の部屋だった」
娘たちに与えられる部屋は生まれた順で決められた。そこにリナローズの意思は関与しておらず、ましてや一度強請られて部屋を変わっている。
だがそんなことは言っても無駄だ。ロザリーはリナローズと言う人の全てが気に入らないのだから。
「お姉様、知っていましたか? 私の婚約者であるミリアム様、お姉様のことが好きなのですよ」
たとえそれが真実だったとしても、他者の心を決める権利はリナローズにはない。
「私はいつだって妹。二番目で、婚約者にも恵まれない。惨めで、我慢を強いられて、もうたくさん!」
もう一度、強く踏みつぶされたぬいぐるみは裂けてしまった。
「私の欲しいものはなんでもお姉様が持っていた。ええ、悔しかったですよ。でも……ふふっ」
ロザリーはその可憐な容姿をこれでもかと見せつけるように鮮やかに笑う。
「明日からお姉様は追放王子の妻! こんなに滑稽なことはありません!」
この話はいつまで続くのだろう。小さな溜息が感情的になるロザリーに気付かれることはなかった。
「お姉様が王子殿下の婚約者に選ばれたと知った時の私の気持ちがわかりますか? みんながお姉様を羨んで、褒めて、憧れて、誰も私には見向きもしなかった。でもその王子様は王位争いに破れて追放! 今ではみんながお姉様を哀れんでいる。ふふっーーねえ、今どんなお気持ち? さぞ惨めでしょうね!」
いい気味だと、好き勝手にわめき散らしたロザリーは満足したのか部屋を出て行った。
翌朝、ラディアン家の前には王家の所有する馬車が迎えに現れる。
見送りに立ち会う侯爵夫妻の表情は暗く、これから辺境に嫁入りする娘の身を案じているのだろう。
貴族としての矜持が高い人たちだった。甘えることに長けたロザリーにばかり構う人だった。
けれど、優しい人たちだ。これまで向けられてきた愛情は本物だったと、そう信じている。
両親の横に佇むロザリーはハンカチを手に時折涙ぐんでいた。これが愛する姉の旅立ちを悲しみ、姉の身を案じているという、自分を可愛く魅せる演技だということは明白だ。
リナローズが乗る予定の馬車では、既に夫となるノルツが待ちわびている。度重なる婚約解消願いを失敗に終え、破棄を宣言したにもかかわらず、リナローズの夫となってしまった可哀想な人だ。
ノルツは姿を見せることなく、馬車の中でリナローズを待つつもりらしい。彼を思えばあまり長い別れ話は避けるべきだろう。
「それではお父様、お母様、ロザリー。あまりノルツ様をお待たせしてはいけませんので、早々ではありますが、わたくしは参ります」
別れの挨拶は昨夜のうちに済ませてある。リナローズは素っ気ない夫の態度にもめげず、笑顔で家族に別れの挨拶を切り出した。
身体に気をつけて。夫に尽くすように。離れていてもお前を愛している。そんないくつかの言葉を交わしてから、リナローズは生まれ育った侯爵邸に背を向けた。
しかし一歩踏み出そうとしたところでロザリーから体当たりのように抱きしめられてしまう。
「お姉様! 私、やっぱり寂しいです! どうか、どうかお元気でいて下さい!」
泣きわめくロザリーの姿に、リナローズの見送りに出ていた者は涙を誘われた。姉妹の感動の別れである。しかしロザリーはリナローズの胸で顔を上げ声を潜めた。
「可哀想なお姉様。どうか最後に聞かせて下さい。今、どんなお気持ち?」
詰め寄られても顔色を変えることのないリナローズの頬にロザリーの手が伸びる。
愛されるために整えられた長い爪が頬を滑り、それは首筋まで下りたところで牙をむく。強く皮膚に食い込む爪はリナローズの白い肌に赤い痕を残した。
ロザリーは澄ました姉の顔が歪み、苦痛に満ちた表情を見ることを望んでいた。そのためにこうして大嫌いな早起きをしてまで見送りに立ち会ったのだ。
けれどいっこうに望んだ結果を得られず、とうとう別れの時が訪れてしまった。だから物理で解決することにしたらしい。
「わたくしは……」
「ええ」
聞かせて早く!
可憐な令嬢の仮面を外したロザリーは今か今かとその言葉を待ちわびる。それ以外に姉の心はないと決めつけていたのだ。
だってそうでしょう?
姉が王子の婚約者に選ばれたと知った瞬間、ロザリーの目の前は真っ赤に染まった。どうして自分ではないのかと強い嫉妬に駆られた。
それが今や立場は完全に逆転している。
婚約者のミリアムは公爵家の次男。姉に心を奪われていた時期はあるが、両親同様にロザリーのことを甘やかし、なんでも言う事を聞いてくれる。ミリアムを婿に迎えれば、いずれこの侯爵家はロザリーのものになるだろう。
だから自分の方が幸せだ。今度は姉が自分に嫉妬する番だと、ロザリーはこの日を待ちわびていた。首筋の痛みに僅かに顔をしかめた姉の姿にロザリーは高揚する。
離れて見れば妹との別れが辛くて顔をしかめているようにしか見えないだろう。そういう計算だ。そのために日々愛される人間を演じているのだから、そう見えなければ困る。
さあ、言って!
切望するロザリーの目の前でゆっくりとリナローズの唇が動いた。
「わたくし今、とても幸せですわ」
「は――?」
その顔は、まるで抑えきれない幸福を抱えているような、幸せいっぱいの微笑みだった。
きっとミリアムは姉のこの笑顔にたぶらかされたのだと、目的も忘れて場違いな考えがロザリーの頭をよぎる。
ロザリーが惚けた拍子にその腕から抜け出したリナローズは何事もなかったかのように身を引いた。首筋の傷は長い髪によって隠れ、ロザリーの存在などまるで目に入っていないかのように颯爽と生まれ育った家を後にした。
家族との別れを済ませたリナローズは夫となるその人と馬車の中で向かい合う。あの婚約破棄騒動以来お互いに多忙を極め、顔を合わせるのは初めてだ。
「お待たせしました」
「いや」
ノルツは挨拶もなしに、いかにも不機嫌と言う形相でリナローズを迎えた。
夫婦の門出は無言のままに、馬車は進み出す。それは追放地までの長い長い旅の始まりだが、新婚初日にしてはあまりにも情緒のない始まりであった。
ノルツは不機嫌そうにそっぽを向いたきり、こちらに視線を向けようともしない。ノルツの整った容姿を形成する一部、釣り上がった目元に引き結ばれた唇は美しいが、人によっては怖ろしく感じるだろう。
幾度にも渡る婚約解消の申し出に嫌われている自覚はあったが、もはや二人の運命は分かたれない所まで来てしまったので、そろそろ諦めてほしいとリナローズは思う。
「婚約破棄は失敗に終わりましたね」
そう告げれば、無反応を貫いていた唇が僅かに揺れる。その言葉に動揺したのは間違いなかった。
長い旅路なのだから、目的地に着くまで夫婦水入らずでゆっくり話したい。結婚式は挙げていないが書類上、二人はすでに夫婦なのだから話し合いは必要だ。
「俺は君と結婚したくはなかった」
「存じております」
「その顔」
ノルツは忌々しそうに呟く。リナローズの目にするノルツはいつだって不機嫌さを隠そうともしなかった。
「何故君は笑っていられる」
「はい?」
それは初めて聞く疑問だ。
何度も何度も、顔を合わせるたびにリナローズは拒絶され続けた。けれどリナローズはいつだってノルツに笑顔で応える。それはとても自分を否定する男に向けられるべきものではないと、ノルツは不思議でならなかった。
今だってそうだ。まるで傍にいられることが幸せだと言わんばかりの表情を浮かべている。
「幸せだから、なのですけれど」
「なんだと?」
ついにノルツの視線がリナローズに向けられた。その眼差しは信じられないという驚きに染まっている。
「ノルツ様はわたくしを脳天気だと仰りたいのでしょうが、こんなにも幸せなんですもの。頬が緩んでしまうのも仕方がないことですわ」
「理解できない。俺は君を否定し続けた。王位争いにも敗れた挙句惨めに追放され、辺境へと追われる。先のパーティーでは公の場で婚約破棄を言い渡し、君を晒し者にまでしたのだ。そんな相手に嫁がされておきながら何故笑える!」
「それはわたくしがノルツ様の優しさを知っているからですわ」
「君の目は節穴か。俺のどこが優しいなどと」
信じられないという眼差しに責められてもリナローズは臆さない。
「ノルツ様はお優しい方です。口癖のように婚約解消を提案したのはわたくしを追放に巻き込まないためでしょう?」
ノルツはリナローズの言葉が信じられなかった。自身が追放される可能性をリナローズが予期していたとは思わなかったのだ。
「何を言い出すかと思えば、俺は公の場で婚約破棄を申し出るような男だ」
「あの場で婚約破棄を申し出たのは最後のチャンスだからです。今まで通り婚約の解消を願うだけでは手遅れになると焦っていらした。それにあの場で婚約破棄を告げればわたくしに同情が集まります。わたくしに非の無い身勝手な申し出となれば、新しい婚約者も見つかりやすいとの配慮ですね?」
そうだ。あの夜は婚約を破棄する最後のチャンスだった。だからこそノルツは噂になるのも構わず婚約破棄を告げた。しかし目論見はリナローズに看破されていたという。
ノルツはいずれ自身が追放される可能性に気付いていた。そのため婚約者であるリナローズを巻き込まないよう、遠ざけようとしていたのだ。それなのにリナローズは厳しい言葉や態度の裏に隠された本心を見破っていた。
「子どもの頃の話ですが、わたくしは父と妹と城下へ遊びに行ったことがありました。一緒に食事をして、店を回って、とても楽しい一日だったことを覚えています。ですが楽しさのあまり、わたくしは二人からはぐれてしまいました」
今思えば、あれもロザリーの策略だったのだろう。無事に保護された時、ロザリーはどうして戻ってきたのかと不満そうだった。
「二人とはぐれてしまったわたくしは、ある店の前で父を探して立ちつくしていました」
日が暮れ夜が訪れても、リナローズはその場に取り残されていた。心細くて泣いてしまいそうだった。
そんな時、声をかけてくれたのがお忍びで城下を訪れていた幼い兄弟だ。
「二人のやり取りからして、わたくしを見つけて下さったのは弟さんの方でした。その方はわたくしに上着を差し出し、父が見つかるまで傍にいて下さったのです」
リナローズの言葉によって記憶を呼び起こされたノルツは驚いていた。きっと今まで忘れていたほど、小さな思い出だったのだろう。けれどリナローズにとっては大切な思い出だ。
「そんなにも昔のことを、たったそれだけで俺を信じたというのか」
「もちろんそれだけではありません。ですがあの出会いがノルツ様に惹かれた切っ掛けということは確かです。だからこそわたくしはノルツ様を信じられた」
「馬鹿なことを」
真実を知ってなお、ノルツはリナローズを拒絶する。だがリナローズの正直な物言いに、ノルツは言葉を詰まらせてしまった。こんなにも真っ直ぐな想いを向けられたことはなく、素直な眼差しを相手にどう振る舞うべきか躊躇いを覚える。
たっぷり時間を要してから、ノルツが重い口を開いた。
「俺は、自分が王になれるとは思っていなかった。ずっと、物心ついた時から」
力のない呟きだが、本音を告げる覚悟が決まったのだろう。リナローズは静かに話に耳を傾けた。
「だが周囲は俺に期待を寄せた。選ばれるはず無いことは俺が一番よく知っていたのに、みっともなく足掻いてしまった。その結果がこれだ。王に選ばれなかった人間を兄が傍に置いておくはずがないからな」
「はい。存じております」
「ああ。それで……まて。存じておりますだと?」
誰にも話したことのない胸の内を赤裸々に語ったのだ。存じているなどと言われるのは心外である。
「わたくしノルツ様が王位争いに破れ追放されることを知っていました」
「馬鹿な!」
ノルツは困惑するが、冷静に考えてもみた。これでもリナローズは侯爵の娘。儚げに見えても貴族の情勢には精通しているのかもしれない。
この結果はノルツ自身にも推測することが可能なものだった。王位争いに敗れることは確かな情報網があれば予測することも出来る。まさかリナローズがそれを見越していたとは驚かされたが、そう解釈することでどうにか納得を示した。
「では知っていて何故」
幾度となく自分から逃げる機会を与えた。嫌われるために突き放してきた。それなのにリナローズは最後まで自分から離れることをしなかった。他の貴族たちは勝ち目がなくなったとわかればすぐに離れていったというのに。
あのパーティーで婚約破棄を突きつけたのもリナローズのためだ。
あれが最後のチャンスだった。だから人目もはばからず、彼女の不名誉になるとわかっていても公の場で声を上げた。
一方的に婚約を破棄されたとなれば、同情した誰かが彼女を救ってくれることを信じて。
だが結果は、こうして揃って馬車に揺られている。
「実はわたくしには前世の記憶があるのです」
「今、なんと?」
リナローズは少し得意気に語り出した。
「わたくしリナローズとして生を受ける前に別の世界で生きていたことがあるのですが、そこでとある乙女ゲーム……ある物語を趣味として嗜んでおりまして。その物語に登場する攻略対象……ええと、主人公と恋人になる可能性のある男性の一人なのですけれど、彼の両親の名がリナローズとノルツなのです。ファンたちの間では悪役夫婦と呼ばれておりまして、つまり未来のわたくしたちなのですけれど」
一息に語られたのは、にわかには信じがたい未来の話だった。
「――というのがその物語のあらすじなのです。わたくしたちの息子は乙女ゲームのヒーローになるというわけですわ」
「とても信じられん」
たっぷりとリナローズの乙女ゲーム談を聞かされたノルツはそう答えるだけで精一杯だった。
驚かされることばかりだ。そもそも婚約者がこんなにも饒舌だったことにさえ驚いている。
ノルツの知るリナローズは淑女中の淑女。いつも控えめに笑うばかりで、触れれば折れてしまいそうな儚さを感じさせた。
だがこの女は誰だ?
生き生きと語る姿に目が離せない。
しかし困惑しているうちにリナローズの眼差しが陰りを見せた。
「ノルツ様。わたくしノルツ様に謝らなければならないことがあるのです」
そう告げるリナローズの表情は見ていられないほどに痛々しい。追放されようと微笑んでいた女が何を憂うのか、ノルツには検討もつかなかった。
「ノルツ様が追放される未来を知っていながら、わたくしは未来を変えることが出来ませんでした」
しがない侯爵令嬢に王位争いは難問過ぎた。未来を知っていながら上手く立ち回ることが出来なかったことを、リナローズは悔やみ続けていたのだ。
「ノルツ様にはわたくしを非難する権利があります。力の足りなかったわたくしを罵って下さいませ。さあ!」
リナローズはドンと自らの胸を叩くが、ノルツは呆然とする。
どんな暴言も受け入れようと覚悟していただけにリナローズも反応に困った。
おかげで二人して妙な沈黙が生まれてしまった。
「君……」
いよいよその時が訪れると、リナローズは固く目を瞑る。膝の上で握りしめた手は衝撃に備え、身を固くしていた。
しかし耳を打つのは優しい声だ。
「俺が王位につけなかったのは俺の責任だ。誰かに責任をなすりつけるつもりも、ましてや君を責めるつもりはない」
優しいノルツが他者を責めるはずがないと、どうしてわからなかったのだろう。
「申し訳ございません! わたくしノルツ様に対する理解が及んでおりませんでした!」
そうだ。この娘は理解が及んでいなかったと、ノルツはリナローズの言葉を胸中で繰り返す。
しかし二人の思いの先は違っていた。
「君は兄を選んでいれば良かったんだ。そうすれば幸せになれた」
あり得ない未来だということはわかってる。だがそう願わずにはいられない。せめて関係のない婚約者には幸せになってほしかったのだ。
それなのにリナローズは容易く願望を打ち砕く。
「いいえ。わたくしの幸せはノルツ様とともに。言いましたでしょう? わたくしはノルツ様の優しさを知っていたと」
リナローズはゲームを通してノルツの真実を、ノルツの秘めていた優しさに触れた。
ゲームでは悪役夫婦の片割れとして実の息子を愛さず、攻略対象の心に闇を作り、主人公に試練を与えユーザーの不興を買うノルツだが、その心には妻への思いやりが眠っていた。
――あれが歪んでしまったのは私のせいだ。私が王位を奪われ追放される形でこの地に追いやられてから、あれには肩身の狭い思いをさせてしまった。申し訳なかったと思っている。
悪役として描かれていたが、追い詰められたノルツが最後に溢したのは妻への秘めた想いだった。
ゲームのリナローズがそれを知ることはなかったが、自分はノルツからリナローズへ向けられた心があることを知っているのだ。
「あの日わたくしを見つけて下さったのはノルツ様。わたくしを救って下さったのも、一緒にいて下さったのもノルツ様です」
心細さに涙が出そうになった時、最初に声をかけてくれたのも。
助けを呼びに行った兄に変わって一緒にその場で待ち続けてくれたのも。
寒くなってきたからと上着を貸してくれたのも、手を握ってくれたのも全てノルツだ。
結局はゲームと関係ないところでノルツを好きになっていた。理不尽なことがあろうとノルツとの未来を思えば頑張ることが出来た。
ゲームのリナローズは望まない婚約、不本意な嫁ぎ先、冷酷な夫に心を病んでいたが自分は違う。この婚約がリナローズの心の支えだった。追放されることなんて関係ないと思えるほどに。
「愛する方の傍にいられるのですからこれ以上の幸せはありません。わたくしどこへだって喜んで一緒に参ります。ノルツ様、貴方に愛する女性がいらっしゃるのならわたくしは身を引きましょう。ですがわたくしのことを想ってのお言葉でしたらわたくしが頷くことはありません。わたくしはノルツ様の妻。それ以外の人生なんて嫌です!」
「馬鹿なことを……」
先ほどと同じ台詞ではあるが、ノルツの表情に先ほどまでの驚愕はない。そこに在るのは純粋な呆れと、理解に苦しむという困惑だ。そして最後には諦めのような空気を感じさせた。見ようによってはどことなく微笑んでいるような気もする。
眼福だと、リナローズの心は欲望に忠実だった。正直に言って、ノルツの凛々しい顔立ちは大変好みである。それをこんなにも傍で、これからは毎日見られるというのだから幸せだと、また喜びを噛みしめていた。
そんな二人を乗せた馬車は順調に追放地へと進んでいく。しかし当人たちは晴れやかな表情を浮かべているため、ロザリーが目にすれば悔しさに苛立っただろう。
リナローズはノルツを退屈させまいと、馬車に揺られている間、自分が知る限りの乙女ゲームのストーリーを語った。
ノルツには未だ信じられないかもしれないが、自分ばかりが未来を知っているというのも狡い気がしたのだ。ゲームのように殺伐とした悪役夫婦にはならないとの決意も込めている。
ノルツは短く相づちを打ちながらではあるが、黙ってリナローズの話を聞いてくれた。
「きっと新しい生活も楽しいですよ」
「そうだろうか」
「わたくしが楽しくしてみせます」
「そうか」
そう答えるノルツは、いつしかリナローズから暖かさを感じるようになっていた。窮屈に感じていた馬車も苦ではない。この笑顔がずっと隣にあるのなら、悪くないと思えてくるから不思議だ。
ところが自覚すると、たちまち目の前の相手を直視出来なくなった。照れくさかったのだと気付いたのは少し経ってからで、気まずさから窓の外へと視線を移しまう。自分はもう長い間、その笑顔から逃れ続けていたのだ。
しかしリナローズにとってそれは深い呆れとして映った。
「ノルツ様、わたくしうるさかったでしょうか……」
「いや」
「本当ですか?」
「本当だ。俺はこの通り、人を楽しませるような会話には通じていない」
リナローズは慎重にノルツの反応を窺っていた。
「……だからこそ、俺には君のような人がちょうど良いのかもしれないな」
それはノルツの本心だった。少なくともリナローズとともに馬車に揺られているこの現状に苦痛を感じていないと告げたつもりだ。
しかしリナローズにとっては違う。初めて傍にいることを認めてもらえたのだ。
その言葉がリナローズの胸を締め付ける。激しい衝動に破裂してしまいそうだ。
胸を抑え、あげく感極まって泣き出すリナローズに動揺したのはノルツである。
「どうした!?」
胸が痛むと誤解させてしまったようだ。目にもとまらぬ速さで向かい合っていたはずが隣に座られてしまう。
「え? あ、いえ、これは」
「痛むのか!? すぐに医者を」
「ち、違うのです! これはその、ノルツ様があまりにも嬉しいことを言って下さったので、胸が苦しくなってしまって」
「……は?」
本気でわけがわからないという顔をするのでリナローズは初めから丁寧に説明してやった。
「わたくしはノルツ様が優しいことを知っていました。だからこそどんなに否定されても貴方を信じていられた。ですがその、先ほど、初めて一緒にいて良いと、そのように認めて下さったものですから……嬉しくなってしまって……」
頬を染めるリナローズの温度が伝染したのか、それはノルツの胸中まで染めていった。
「そう、か」
やっとの思いでその言葉を口から絞り出す。しかし近づいたことで目に入ったそれに、ノルツは再びリナローズの肩を掴んだ。
「君、それはどうした」
隠れていた傷がノルツの目に付いたらしい。幸せのあまり失念していたが、そこにはロザリーによってつけられた傷があったことを思い出す。
「痛むか?」
赤く腫れた線は痛々しい。しかしリナローズはけろりとしていた。
「大丈夫ですよ。幸せに胸がいっぱいで、指摘されるまで忘れていたくらいです」
ロザリーが聞けば憤っただろう。結局妹の存在はリナローズにとって影を落とすには至らなかったのだ。
「血は乾いているようだが」
覗きこまれ、労わるような声音が直接耳を震わせる。
「大丈夫ですよ!? 本当です!」
距離が近い。今までこれほどまでにノルツの傍を許されたことはなかったので刺激が強かった。
「怪我をしているのなら早く言え。念のため宿に着いたら手当をしよう」
「あ、あの、ご心配いただき、ありがとうございます。お見苦しいものを……必ず、すぐに隠しますので!」
ノルツはリナローズの他人行儀な反応を気に入らないと思ってしまった。これまでずかずかと自分の領域に踏み込んできたくせに、急に距離を置こうとするのだ。しかしリナローズにとってはノルツに迷惑をかけたくはないという心配りである。
ノルツは自身から身を引こうとするリナローズをつい追いかけてしまった。
「この俺の妻だというのなら、俺以外に傷をつけられるな」
「はいっ!?」
幾度とない婚約解消にも動じなかったリナローズは動揺した。突然かけられた甘い囁きに今度はリナローズがどうしていいかわからなくなってしまう。
ノルツでさえ、どうしてそんな独占欲の塊のような台詞が自分の口から飛び出してきたのかわからなかった。
馬車にぎくしゃくとした空気が漂いだした頃、ちょうどその日の宿に到着したことは幸いだ。
休憩を挟みながら馬車を進ませ、ついに二人は目的地へとたどり着く。到着を知らせる声にリナローズはある提案をした。
「せっかくですからお屋敷まで歩いてみませんか? これからわたくしたちの暮らす土地です。その土地を知るには実際に歩いてみるべきかと」
「そうだな。君の言う通り、領地の様子を知ることも領主にとっては大切なことだ」
ノルツにとってこの地に足を踏み入れることは不名誉なことのはずだった。それなのに、こうもすんなり状況を受けいられるようになっていたことには少なからず驚いている。リナローズの前向きな性格が移ったのだろうか。
やはり自分には彼女のような存在が必要なのかもしれないと、リナローズの存在が大きくなっていくのを感じた。
だがノルツの驚きは現地に着いても止まることはない。
「みなさんこんにちは!」
「ようこそ奥様!」
馬車から下りるなり、リナローズはあっという間に人々に囲まれてしまった。みながリナローズと親しげに話し、来訪を歓迎する。しかも彼らはノルツにまで好意的だった。
「新しい領主様、ようこそおいで下さいました」
「遠いところ、良く来て下さいました! あたしらは領主様を歓迎しますよ」
掛けられる声はリナローズとノルツを祝福している。活気がないと言われていた市場も賑わいを見せ、城下と遜色のないほどだ。
「奥様! お花飾りをどうぞ! 花束も、奥様のためにみんなで用意したんです」
「まあ! 素敵なプレゼントをありがとうございます」
つい先日まで侯爵令嬢であったはずのリナローズは庶民と同じ目線で喜びを分かち合っていた。
花冠を乗せたリナローズはまるで花嫁のようである。
「ほら、旦那さんは奥さんを褒めなきゃ! 綺麗だろ?」
「なっ!」
強く背中を押されるが、なかなか足が前に進まない。柄にもなく、あの輪の中心で祝福される美しい人の傍に行っても許されるのかと躊躇いを覚えた。自分の知らない顔ばかりを見せるリナローズを先ほどから遠く感じているらしい。
「君たちは彼女と親しいのか?」
「そりゃあね。リナちゃんはもうずっと前からここらに顔を出してくれて、あたしらと運営を手伝ってくれているからね」
「なんだと!?」
「あの子がいつも言ってたよ。私の旦那様は素敵な人だから、きっとこの地を今より住みよくしてくれる。自分はその手伝いをしに来たってね」
その事実を知ってノルツはますますリナローズが知らない人のように思えてきた。
するとリナローズは自らノルツの隣へとやってきて腕を引く。
「ま、待ってくれ。君は、一体!」
「ノルツ様。わたくしはしがない侯爵令嬢。貴方を王にすることは叶いませんでした。しがない侯爵令嬢に出来るのは、夫の追放に備えて準備をしておくことくらいなのです。誰にもわたくしたちを悪役夫婦とは呼ばせません」
孤独にはさせないと、そう言ってノルツを輪の中心へと導いた。
愛されないことを嘆くのではなく、思いきりこの人を愛したい。それが許される関係にあるのだから、この心を余すことなく伝え、尽くしたい。
たとえこの運命で愛されなくてもかまわない。傍にいられるだけで幸せだとリナローズは思った。あの時ロザリーに告げた言葉に嘘はないのだと。
手厚い歓迎を受けた二人だが、もう一度馬車へ乗り込むことになった。
歩く先であまりにもたくさんのプレゼントをもらい、挨拶をしてはリナローズが会話を弾ませるため、このままでは夜になっても屋敷にたどり着かないという判断だ。
「君には驚かされてばかりいる」
「わたくし何かノルツ様の気に障ることをしてしまったのですか!?」
「いや、そういう意味ではない。ただ俺は、君を誤解していたと」
「誤解?」
「その、いつまでも俺の婚約破棄を受け入れない楽天的な人だと、そう思っていた。君に対して苛立ちを覚えたこともある。だが君は、俺を想って行動してくれていたのだな」
告げられた言葉をかみしめるとリナローズの瞳に涙が溢れた。
「わたくしはノルツ様の妻なのですから、当然です」
涙を拭い、笑顔を取り戻したリナローズにノルツは安堵する。こんなにも一人の女性に心をかき乱されたのは初めてだ。
そうして屋敷に到着したところ、またもやノルツの瞳は驚きに染まる。
リナローズはすでに勝手知ったるといった様子で屋敷を取り仕切っていた。どうやら自分が追放の悲嘆に暮れている間にも、前だけを見て突き進んでいたらしい。ここでもリナローズは人気者だった。
結婚式さえ挙げることの許されない婚姻だが、追放地では多くの人が祝福をしてくれる。それは他でもないリナローズの人柄だろう。追放された夫が快く迎えられるよう、妻として環境を整え待っていてくれたのだ。
ノルツは溢れていく愛しさをかみしめる。これがリナローズの言った愛しさが溢れそうという現象だろうか。この想いをどう伝えたものかと、ノルツは初めて抱く感情に振り回されていた。
しかしリナローズはこともなげに言うのだ。
「ノルツ様。お部屋の支度が調っておりますので、ゆっくりお休みになって下さい。部屋は別々に用意させてありますので、ご安心下さいね」
「は?」
「他人であるわたくしと一緒では気が休まらないでしょうから」
彼女にとって自分はまだ他人の域を出ていないと思われているらしい。もう突き放すのではなく愛そうと覚悟を決めた矢先にこれである。やはりこの女は思い通りにならないとノルツは苦い想いを携えた。
だが元はと言えば自身の招いた失態だ。たとえそれが優しさ故の気遣いであったとしても不満が募る。そうさせてしまったのが自分であることもさらに拍車をかけていた。
「君。俺は君が嫌いだ」
「はい。存じております」
案の定、傷つくそぶりも見せずに頷かれ、それがたまらなく気に入らない。
――ああ、言ってやろうとも。
「ああ、嫌いだとも。俺の心を知りもしないで無邪気に笑いかける君がな」
「ノルツ様?」
「俺たちは夫婦なのだろう。君は夫を一人で眠らせておくのか?」
ノルツの言わんとするところを察したリナローズの顔が瞬時に赤く染まる。いい気味だとノルツは思った。
「は、え? あの、少し……意味が……?」
しかしまだ信じきれずにいるのだろう。幼い頃の思い出一つを信じてここまで来ておきながら、目の前の自分のことは信じられないと言う。
ならばもう一度告げるまでだ。今度ははっきりと。
「君に傍にいてほしいと、そう言っている」
伸びた指先が薄くなったリナローズの傷跡を撫でていく。あの時馬車の中で告げられた言葉が頭をよぎると、さらにリナローズの体温を上昇させた。
リナローズはノルツを愛していた。幼い頃に抱いた恋心は成長するにつれて増すばかり。ノルツのことを想えば幸せを感じられた。
だがしかし、そこに自分が愛されることは想定していなかった。急に心を向けられたリナローズの動揺は、これまでのシナリオを一転させる。
冷静だったリナローズの慌てふためく様子を見てノルツは満足そうだ。
「は、はいっ、すぐにっ……参ります!」
「ああ。待っているぞ……リナローズ」
「――っ!?」
初めて名前を呼んでもらえた気がする。言葉にならない悲鳴を堪え、リナローズは顔を真っ赤にして逃げ出した。
遠ざかる後ろ姿をノルツは愛しそうに見つめている。その心の内は、夜が訪れればあれが手に入るという喜びだ。
ノルツの傍を離れ浴室に駆け込んだリナローズは扉を背にずるずると崩れ落ちる。
それを見たメイドは旅の疲れで倒れたのかと慌てて抱き起そうとしたが、主人の顔は湯あたりでもしたように赤い。発熱だろうかと心配が深まったところで震える唇から紡ぎ出されたのはなんとも平和なものである。
「わたくしの旦那様、かっこ良すぎ……」
お屋敷は今日も平和だなとメイドは思った。
だがこの平和な屋敷も激しい混乱に揺れたことがある。新たな領主が王子殿下であると聞かされた時だ。
たちまち屋敷は不安に包まれた。直接的な言葉はなかったが、それが追放であることを誰もが感じ取っていたからだ。よほど無能なのか、あるいは傲慢なのか。様々な憶測が飛び交い、今のうちに辞める方が賢明だとまで囁かれていた。
そんな時、単身屋敷を訪れたのはリナローズだった。
こちらの不安を察し、辛抱強く話を聞いてくれたのだ。侯爵令嬢でありながら働く者に気を配り、同じ目線で寄り添ってくれる。とても貴族の令嬢とは思えなかったが、そのどれもが夫となるノルツを想っての行動らしい。
「ここはノルツ様にとって心休まる場所であってほしいのです」
何故そうも頑張るのかと聞けば、リナローズは嬉しそうにそう答えた。ひたむきな想いに心を動かされたからこそ、屋敷の人間はみなノルツを歓迎すると決めたのだ。
そんな頼もしさ溢れる女主人が少女のように頬を染めている。主人と仕える者でありながら、今では友人のような距離にあるメイドは微笑ましいものに触れた気持ちだった。
「さあ、旦那様がお待ちですよ」
メイドは確信する。この地と屋敷が安泰である事を。二人の子どもに会える日が近いことを。
夫婦の活躍により、辺境と呼ばれないがしろにされていたこの地は発展していく。愛されるリナローズの未来もまた、ゲームとは異なる運命を辿るだろう。
いずれ二人の間には子が宿り、新たな物語を紡ぐ役割を担う。
しかしそこに悪役夫妻は存在しない。愛情たっぷりに育てられた攻略対象は、同じだけの愛を周囲に与えるだろう。
旅立ちの日、辺境に嫁がされるリナローズをロザリーは可哀想と言った。けれどリナローズがこの先も自身を可哀想などと思うことはない。
それはまさに現在のロザリーを指す境遇なのかもしれない。
婚約者は自分を見てくれない。遊び歩いてばかりで、ちっとも構ってくれなくなった。
寂しさから、ロザリーは両親の声にも耳を貸さず浪費を続ける。それでもまだ足りない。満たされない。
優しさから諌めてくれた姉はもういない。ラディアン家を影から支え続けた娘は嫁いでしまったのだから。
リナローズが去ったラディアン家は荒れた。ロザリーの浪費と事業の失敗により、財政はひっ迫するばかりだ。
あれほど嫌い、追い出して清々したはずの姉の支援がなければ家が立ち回らないなど、ロザリーにとっては屈辱的なことだろう。
最後まで閲覧いただき、読んで下さいましてありがとうございました!
こういう二人もいいなと思っていただけましたら幸いです。