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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

足の裏側の世界

 鍵をかけて外に出る。ゴミ収集車が曲がり角からやってきた。午前九時を時計の針は指している。ビニール袋を鋭い嘴でついばんでいたカラスが羽ばたく、そして鳴いた。「かあ」と鳴いた。鳴いたカラスの黒真珠をはめこんだ瞳に映るアタシの髪は艶やかに光った。或いはカラスの瞳が美しいのであって、あらゆる実像はあたかも輝いているようなのかも知れない。

 実際に、アタシの髪は指でとかせないほど固まっていた。そんなことより暑い。蝉の声がそこかしこに木霊している。階段を降りて、黒いビニール袋をゴミ収集車に投げ入れた。

 ちょっと、あなた。青いツナギを着た男が咄嗟に手を伸ばしてきた。勝手なことしないでくれませんか。はあ。しかも黒はダメですよ。はあ。

 アタシ急いでるのよ。今度は男が「はあ」と呆れた。男はアタシの茶色のカットソーを掴んだきり放そうとしないので、困った。

 アタシ急いでるのよ。今度は男が「はあ」と苛立ちを見せた。電線に連なるカラスたちがゴミ収集車を睨み、早く行けよとアタシを急かす。ムリよ。この男もアタシを逃がしてくれない。会社に向かうサラリーマンや、近所の主婦たちが立ち止まる。冷笑と奇異の眼差しが渦巻く。

 ガコン。ゴミ収集車から悲鳴が漏れた。男は異変に気づいて動かなくなった車へ駆ける。顔をしかめる男の背中に手を振って、アタシは雑踏に紛れた。


 先週の金曜日。客の注文と間違えて、クリームソーダを出した。コーヒーフロートだったらしい。紛らわしい。そもそもコーヒーフロートは提供していない。だからアタシは言った。

「すみません、コーヒーフロートはありません」

 すると客は笑った。頬をつり上げて笑った。

「ないってよ」クスクス笑った。四人がけのテーブルは嘲りに満ちていた。ネクタイをだらしなくゆるめて、シャツを無造作に捲った高校生たちはクリームソーダをストローで口に含んで、それから思いっきり吹いた。

 緑色の泡や甘い香りがテーブルの中心で花火みたいに弾けた。

「じゃあ作れよ」と斜め分けの青年が吐き捨てる。そうだそうだ。残りの三人も囃し立てる。そーだそーだ。隣のソファの親子もヤジを飛ばす。ソーダソーダ。ガラス窓の外を散歩する老婆も拳を天にかざす。

 肩を叩かれて振り向くと、顔を綻ばせた店長がいた。店長は優しくアタシの鼻に触れた。粘りけの帯びた白が糸を引く。アタシは促されるままに鼻から垂れるクリームを舐めた。苦い味がした。


 高速で去っていく景色の中に、目をひく看板がある。小麦粉で名高い大手食品メーカー、女優を起用した発泡酒、「因果応報」とだけ記載されたもの、多岐に渡る。反対のシートには、母親に絵本であやされる児童がいた。大人しい娘だ。静かに母親の語りに耳を傾けている。

 もしかすると聞いているふりをしているだけで、何も分かっていないかも知れない。聴覚に問題を抱えていて、親は医者から普通の子どもと同じようには育てられませんよと断言された。けれど両親はめげずに様々なメロディーを歌い、本を読み、楽器を奏でる。

 娘は音のない世界で生きているから、反応ができやしない。口をつぐんでいるのも頷ける。立派な大学病院のある駅で降りていった親子はホームに消えた。きっともう二度と会うことはないだろう。


 先週の木曜日。ロッカールームにいたアタシは、背後から抱き締められた。父親のような匂いがした。父親の匂いは、トイレの芳香剤やら、抽斗の樟脳などとは異なり、チョコレートやら、家畜の糞便とも交わらず、一線を画している。はて、何の匂いだったのか。

 無骨な指先が、何度もアタシの輪郭を往復する。途端に意識が覚束なくなる。ロッカールームの壁には、「いらっしゃいませ、こんにちは、ありがとうございました」と快活に発声する店員のキャラクターがいた。匂いのことは忘れた。

 キャラクターは店の制服を着ていて、円らな瞳をしている。

 印刷された真っ黒な瞳が蛍光灯を反射して、アタシの額に垂れた髪を映した。荒い吐息が間断なく、誰もいない事務所やホールの暗がりに流れていく。

 事務所の電話が鳴った。社長からだ。深夜にかけてくるのは社長しかいない。汗ばむ指先が、アタシの頬に食い込む。爪がめりめりと皮膚に埋まっていく。柔らかい肌が掬われて、生温い感触が伝う。

 床に落ちた雫は赤かった。でもアタシの勘違いで、近くに置いてある消火器の色だった。キャラクターが無表情で笑う。アタシも少しはにかんだ。


 平たい石を積んでいるとき、アレはクリームソーダの匂いだったことを思い出す。苦い味がした、クリームソーダ。鮮烈な翡翠を閉じこめたグラスを傾けてしまったら、美しい緑が河となって大地を削る。そんな岸にアタシは座っている。

 すっかり日が暮れて、辺りは闇に包まれた。月の丸い夜。国内でも指折りの観光地は、赤い提灯が風になびいて、浴衣の男女の寄り添う姿がひしめいている。うってかわってアタシの登ってきた丘は静寂が横たわっている。

 アタシの石を重ねる音と、河のせせらぎしか聞こえない。月が雲に紛れると、それさえ聞かれない。完全な「無」が口を開けている。

 河面から白い湯気が上がる。足元の地下深くの源泉から沸く奔流が冷まされてなお熱いのだ。源泉を熱する地球の核。その遥か下方ではジャングルの繁茂する国に、顔形の少しずつ違う人々が暮らしている。

 銃の乱射事件。残虐なレイプ。日常茶飯時の強盗。マフィアの巣窟。根拠のない差別。餓えの苦しみ。政治的な暴力。

 きっとアタシの知らないことが勃発している。こちら側の人間が寝ているときに起き。産声を上げたときに息絶える。毎日が繰り返されていく。だからアタシは許されたい。アタシなんてちっぽけで、何をしても許されそうだ。

 マシンガンで肉体を突き破ったり、金銭目的で少女を脅かしたりしないから。石の塔はついに下腹部の高さにまで到達した。


 石を積むアタシの手の甲に蛍が乗った。青白い光が明滅する。それは美しかった。

 アタシの手の甲に涙が落ちた。透明な月光の輝きを内包している。それは美しかった。

 アタシの手の甲の付け根に銀色の輪がかけられた。「分かっているよね」

 ご同行お願いします。警察官はこともなげに言った。

 すりきれたスニーカーの裏と、茶色のカットソーから、青い蛍光が迸る。頷くアタシの全身は青に染まっている。まだ明らかになっていない、アタシの秘密の光。鑑識官がアパートに走っていく。

 警察官の後ろで男が鼻を摘まんでいる。アタシを囲む雑踏は目を血走らせて、揃って鼻を摘まんでいる。ゴミ収集車の回収口に引っ掛かった黒いビニール袋が破けていた。袋からクリームソーダの強い匂いがしていた。

 電線のカラスが舞い降りて、袋の裂目から白い塊をくわえて飛翔する。小さく砕かれた白いモノは、帯のように連なる。青天を貫いて、どこまでも昇っていく。宇宙へ向かい、銀河を越えて、永遠に届かないところへいなくなってしまう。

 アタシは最後の声を振り絞り「ごめんね」と呟いた。小さな呟きは「かあ」の鳴き声に覆われて喉から出る前に失われた。もう一度口の中で「ごめんね」と言うと、蛍の青い火がスッと消えた。


(了)

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