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はるのゆめ

作者: 宇航

 1

 「お客さん、降りて下さい」

 目を開けると車掌の制服を着た男性が困ったような表情で立っていた。車窓の外はすっかり暗くなっている。電車の揺れが心地良くて眠ってしまったようだ。男性に謝りながら急いで電車を降りた。僕を待っていたかのように、降りた瞬間に電車の扉は閉まった。走り去る電車の電気は消えず、車両にはバラバラと乗客の姿が見えた。ここは終着駅ではないのか。なぜ僕はここに降ろされたんだ。寝起きだからだろうか、目は覚めているのに頭が上手く働かない。

 辺りを見回すと自分以外の人影はなく、時刻表どころか駅名が書かれた看板も無い。線路の先は真っ暗闇で何も見えない。見知らぬ駅。全く見覚えがない。空を見上げると雲ひとつない星空が広がっていた。

 こんな状況になっても、不思議と不安や恐怖は無かった。むしろ心地良さすら感じた。

 改札の横に、公園にあるような青いベンチを見つけたので、そこに座る事にした。このまま座っていたら、次の電車が来るかもしれない。形だけそう考えたいた。実際、電車の事なんて考えていなかった。

 何故ここはこんなにも心地良いのだろう。そんな事を思いぼんやりと座っていたら、改札を抜ける人影が見えた。視線だけ改札に向けると、そこには男が立っていた。薄暗い駅の中で男の白い肌が目立っていた。男は線路を見てから周囲を見渡していた。僕の存在に気付き、目が合うと眉を少し下げて笑い、軽く頭を下げた。それにつられて僕も頭を下げる。すると男は僕の前へ歩いてきた。

 「電車、もう行っちゃいましたか」

 想像より少し高い、落ち着いた声だ。

 「僕は、さっき降りたばかりで」

 さっき降りたばかり、と言うには時間は経ち過ぎていたかもしれない。そもそも、彼の質問に対して、ちゃんと答えることが出来ていない。何と言おうか悩んでいたら、男は「じゃあ、今日の電車はもう来ないな」と、困ったように笑って言った。

 僕はこの駅の事を、電車の事を色々と聞こうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。頭が混乱しているというよりは、ぼんやりした状態だった。目は開いて、視界もはっきりしているのに、ぼんやりとしていた。男はそんな僕を見て、「明日の朝まで電車は来ないし、もし良かったら朝まで付き合ってくれないかな。駅を出て、この街を案内するからさ」と言った。ぼんやりとした意識の中で、僕は首を縦に振っていた。頭が働かないどころか、警戒心までなくなってしまったのだろうか。

 男は僕の反応を見て優しく笑った。

 僕が立ち上がると男は歩き出した。その隣を歩く自分の足が、軽く感じた。

 

 2

 駅を出ると、大きな商店街が続いていた。夜だというのにも関わらず、多くの人が歩いていた。街灯はないが、店から出た光が道を照らしている。縁日のような屋台もいくつか並び、遠くに視線を移すと、商店街の先には赤い小さな光が何本も並んでいた。近くに海があるのか、ほのかに海の香りがした。

 「今日は縁日なんですか」

 男に聞くと「ここはいつでも、こんな感じだよ」と言って、商店街の中を歩きだした。

 色々な店があり、居酒屋のような店もあれば、駄菓子屋もあった。中には見たことも無いような食べ物を売っている屋台もある。しかし、どの店からも食べ物の匂いはしなかった。駅を出た時に感じた海の香りだけが商店街を覆っていた。

 「こんなに飲食店があるのに、どの食べ物の匂いもしないなんて不思議ですね」

 「店に入るとちゃんと匂いもするんだよ」

 男は少し、歩く速度を落とした。

 「ここを歩く人が、嫌な記憶を思い出してしまったらいけないから匂いは制限されているんだ。嗅覚は五感の中で最も記憶と結びついている感覚だから、少しの匂いで忘れていたことが蘇る」

 男の「記憶」や「忘れていたこと」という言葉に、引っかかった。そういえば、自分はどうやってあの駅に着いたのだろうか。電車に乗る前はどこにいたのだろうか。自分の家はどこだっただろうか。気付いた時には、自分の名前も分からなくなっていた。それでも、不安や恐怖は感じない。心臓も静かで落ち着いている。

 どこにいたのか、どこから来たのか、自分の事なんてどうでもよくなっていた。今は何も考えず、ここを歩くだけで良かった。

 男は歩きながら、商店街に並ぶ店を紹介してくれた。

 「何か、食べたいものがあったら言ってね。付き合ってもらってるんだから、何か奢るよ。ここの食べ物は本当に美味しいから」

 男の言葉に甘えて、レモンケーキを一つ食べた。とても懐かしい味がした。


 商店街が途切れると、石畳の階段が現れた。細く長く続く階段の両脇にはびっしりと店が並び、赤い提灯が並んで灯っていた。商店街から見えた赤い小さな光の正体は、この提灯だったのだと知った。

 商店街に比べて人は少なく、静かな路地だ。並んだ店も古い館のようで、赤い提灯と相まってノスタルジックな雰囲気を出していた。

 「もう少し歩くけど、大丈夫?」

 「大丈夫です」

 無理をしているわけではなく、本当に大丈夫だった。疲れもなく、むしろ体が軽いくらいだ。男は僕の反応を見て、再び歩き出した。

 両脇のレトロな建物の中からは微かに話声が聞こえた。その声はどれも穏やかなものだった。

 暗い夜道、赤い提灯と店の窓から零れる白い光に、既視感があった。その光が目に入るたびに、心臓が大きく音をたて、その振動で体が小さく震えた。時々、呼吸をする事すら苦しくなった。それでも視界ははっきりしていて、歩くこともできた。その光を見たくないと思い、目を閉じようとしたら、強い恐怖と不安を感じた。目を閉じてはいけない、何故かそう思った。

 「もう少し我慢してね。直ぐに楽になるよ」

 男は足を止めることなく、落ち着いた口調で言った。

 「怖いよね、でも大丈夫。怖いのは一瞬だけだから」

 胸が締め付けられる度に、涙が止まらなかった。


 どれくらい歩いたのだろうか。恐怖と不安に耐える事に精一杯で、周りを見ていなかった。

 気が付くと、かなり上の方まで上がってきたようで、下を見ると商店街の明かりが見えた。涙はとっくに止まっている。赤い提灯や白い光を見ても、もう不安も恐怖も感じない。それどころか、駅や商店街にいた時のような心地よさや安心感が戻ってきていた。

 微かに吹いた風から、また海の香りがした。

 「少し、休憩しようか」

 そう言って男は立っていた階段に腰かけた。僕はその隣で立ったまま、下の商店街を眺めていた。

 下から風が吹き、上着を揺らした。自分の服から、微かに消毒液の匂いがした。その時、忘れていた記憶が全て蘇ってきた。記憶を思い出しても、やはり心は落ち着いたままだった。

 「僕は、死んだんですか」

 視線は下に向けたまま、男に訊ねた。

 「あんなに怖がっていたのに、案外あっけないものですね」

 あんなにも自分を苦しめていた恐怖も不安も、全く感じない。

 「引っ越しみたいなものなんだよ」

 男は優しい口調で言った。

 「生きる世界が変わるだけ。あっちの世界の人の目には見えなくなるだけ。会いたい人にはいつでも会えるし、あっちの世界の人の声もこっちにはちゃんと届くよ」

 そのうえ、不安も恐怖も感じないのならば、こっちの世界の方が居心地はいいじゃないか。もう、あの恐怖を感じなくても良いのなら……。

 「でも、僕らの声は届かないし触れることもできない。目の前にいるのに何もできない」

 男は寂しそうに言った。

 「残念ながら、君はまだ死んでないよ。間違えて電車に乗っちゃったんだよ。あの電車の車掌も適当だよね。間違えて乗せたことに気付いた途端、適当な駅で降ろすんだから」

 男はそう言って腰を上げた。

 「君はこれから、何度も恐怖と不安に耐えないといけないだろうね。でも、大丈夫。怖いのは一瞬だけだから」 

 

 3

 病気が分かったのは、大学に入学して半年が経った秋だった。早期発見が難しく、手術での根治も難しい病で、発覚した時は、もう半年生きる事はほぼ不可能だと言われた。

 その日のうちに入院する事になったが、それでも自分が死ぬという実感は無かった。周囲の人間は、「もしかしたら回復するかもしれない」「治療が成功するかもしれない」と、励まし続けた。両親は、余命半年を宣告されても、奇跡的に回復した人や、余命宣告をされてから10年以上生きた人の本やドラマを見せてきた。その度に、「きっとよくなる」「奇跡は起きる」と僕に言い聞かせた。僕も、初めはその言葉を信じていた。余命宣告なんて、きっと医者の脅しだと、最悪の結果を伝えているだけだと。きっと何事もなかったように退院して、大学に戻れるんだと、そう信じて疑わなかった。それ以外の未来を考えることが出来なかった。

 しかし、細くなっていく身体や、家族や看護師、医者の反応を見る度に、自分は死ぬんだという意識が強くなっていった。何度も何度も痛みや苦しみで目を覚ました。眠る事すら許されない苦しみと、薄く白い靄のかかった視界の中で、何度も死を覚悟した。時には黒と赤い色で視界を奪われた。暗闇の中で、医師や看護師の自分を呼ぶ声と、両親の悲痛な叫びを聞く度に酷い恐怖と孤独感に襲われた。死の直前で見る景色はいつも、あの階段で見た光と、とてもよく似ていた。

 入院して二か月が経つと、痛みや苦しみも減っていった。それでも自分の体はどんどんと痩せ続けていた。その頃には、毎日、病室のベッドの上で死ぬかどうかではなく、既に決定された事柄として、ただぼんやりと、死ぬ、という二文字を頭の中に浮かべていた。それが早ければ早いほどいい、と思っていた。

 死の恐怖から逃げるために、死ぬという現象を受け入れる努力をした。死を受け入れ、死ぬ覚悟さえあれば、それに恐怖する事もなくなるだろうと思ったからだ。死ぬこと自体を喜んで肯定しようともした。自分に差し迫った死の恐怖からなんとか逃れようとした。こんな恐怖に耐え続けなければいけないのなら、もういっそ死んでしまった方が楽かもしれないと、何度も思った。

 それでも自分は生きたかった。その願望は、恐怖と悲しみを助長し続けた。 

 朝、目が覚めた時、泣いている事もあった。自分が死ぬというのに、これからの生を約束されている周囲の人間を憎悪する事もあった。

 

 恐怖に狂いながら死んでいく事だけは避けたかった。それは死に対して、自分が唯一できる抵抗のようなものだったのかもしれない。


 4

 薄い明かりで目が覚めた。起こした身体が重い。

 咳を抑えた骨と皮だけの手から、微かに海の香りがする。

 ベッドの横の椅子では母親が眠っていた。枕元には、友人から送られてきたであろう未開封の手紙があった。

 「大丈夫、僕は大丈夫だから。怖いのは一瞬だけだから」

 繰り返すこの悪夢に呪文をかけた。

 何も怖くない。でも、だけど、もう少しだけこの世界で生きたいと思った。

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