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駒の学院 儀世界の戦士たち  作者: 明日雪降
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第一話 入学試験と少女

 突如聞こえた風切り音、その直後、無数の爆音がハルトの聴覚を打った。状況を理解する間もなく、新たな飛翔音が頭上を飛び越え、後方で爆音に変わった。

 熱と肉片を伴った衝撃がハルトの体を高々と吹き飛ばす。追い討ちをかけるように次々と爆風が襲いかかり、激流の中の木の葉のように弄んでいく。

 爆風に晒されるたびに、様々な感覚が削げ落ちていった。上下左右の区別はすぐにつかなくなり、温度も痛みも感じなくなり、意識そのものが鈍り始めた時、一際強い衝撃が襲った。

 呆然とするハルトの目の前に、爆炎と土煙に汚れた青空が広がっていた。流れる雲と、一瞬視界を横切る影を無意識に目で追ううちに、自分が地面にいることに気付いた。

 途端、風船が破裂するように口から息が漏れた。それはすぐに大きく息を吸い込み、即座に吐き出す荒い呼吸へと変わった。吹き飛ばされて今の今まで息をする間もなかった。その間、無呼吸で衝撃に耐えていた体が、自らの置かれた状況を忘れるほど酸素を欲していた。

 息をするたびに、少しずつ感覚が戻ってくる。上半身の至る所から伝わるヒリヒリとした熱、指一つ動かすのも億劫な疲労、絶え間なく体を震わす揺れ、それらに遅れて音が聞こえるようになる。

 風切り音とそれに続く爆音、それに混じって、無数の悲鳴がありとあらゆる方向から聞こえた。悲鳴は時に助けを求める嘆願であり、時に痛みや死に対する呪詛であり、時に声にならぬ最後の叫びだった。

 多少体が動くようになっても、ハルトは周りを見ようとは思わなかった。視界に映る青空の外には、凄惨極まる地獄しかないことは見るまでもなく分かることだった。

 その地獄から、不釣合いな声が聞こえてきた。

「そこの人、お邪魔します!」

 焦燥の滲んだ少女の声が聞こえるとほぼ同時に、ハルトの視界を橙色の人影が通り過ぎていった。思わず首を動かしてその後を追うと、橙色の衣服を着た、麦穂色の髪を三つ編みにした少女が地面に突っ込むようにして倒れていた。

 そこでようやく、ハルトは自分が椀状の窪地の中にいることを知った。爆発によって作られた窪地には、同じく爆発によって掘り起こされた柔らかい土砂が堆積していた。

 この土砂が空中から落下した自分を受け止めてくれたのだと理解すると同時に、同じく土砂に受け止められた少女がゆっくりと体を起こした。

 その体には細かな擦過傷や切り傷が無数に見られたが、肌を焼く熱風が吹き荒れ、手足をもぎ取る鉄片が飛び交う砲火の中を駆け抜けてきたことを考えると、奇跡的な軽傷だと言わざるを得ない。

 彼女の幸運に目を見張りながら、ハルトは優しく少女の背中に声をかけた。

「君、大丈夫かい?」

「わ、私は大丈夫……君は……」

 答えながら振り向いた少女は、ハルトの姿を見るなり顔色を変えた。

 それを見て、ハルトは上体を僅かに起こして、自分の体を見た。

 見えたのは、殆ど焼け焦げた衣服。ずたずたに裂け、半分近くの指が切り落とされた両手。そして腿の半ばから完全に失われた両脚。

 文字通り満身創痍の体を見ても、ハルトは動揺しなかった。それどころか、口元には笑みすら浮かんでいた。それは自分の死を悟った、諦観の笑みだった。

 どう考えても助からない重傷だった。傷口の大部分が焼けているのか、傷の割りに出血は乏しかったが、それでも腿から黒ずんだ血が絶え間なくこぼれている。全身に感じていた熱も、既に冷たさへと変わっている。何よりも、これだけの大怪我をしていながらまるで痛みを感じないことが、自身が既に生者から死者に変わりつつあることの証明だった。

 もう、どうしようもない。ハルトはゆっくりと目を閉じ、冷えた体を温かな土に預けた。

 ハルトの諦めに呼応するように視界の闇が意識に広がり、同時に体の感覚を鈍らせていく。自分自身が土くれに変わって行くような感覚は、しばらくすると凍てつくような寒さに代わり、濃厚な死の気配が感じ取れるようになる。

 気配に誘われるがまま、ハルトは自らの意識を手放そうとした。しかしその前に、別の何かがハルトの手を掴んだ。

 手の平から伝わる熱が、意識を急速に覚醒させた。相変わらず爆音と悲鳴が聞こえてくる中、目を開けると、先程の少女の顔がそこにあった。澄んだ黄金の瞳に涙を滲ませ、あどけなさの残る愛らしい顔に必死の表情を浮かべてハルトの手を取り、暖めるように摩っている。

 ハルトが目覚めたのを見て、少女の顔に喜色が浮かんだ。

「良かった、まだ生きてる……!」

 泣きながら呟いて、少女はハルトの手を摩る速度を上げた。鈍った感覚でも分かるほど、鋭い痛みと共に自身の手に熱が戻っていくのを感じながら、ハルトは少女が摩る自分の手に布が巻いてあることに気付いた。

 僅かに首を起こして体を見ると、腿にも何かの布で止血が施されているのが見えた。

 一体何を使って止血をしたのか、そう考えたハルトが視線を少女に向けると、むき出しになった少女の白い肩が目に入った。

 その細く柔らかそうな艶かしい線を直視できず、ハルトは慌てて目を背けた。殆ど流れ出したはずの血液が顔に集まるのが分かった。血が残っていれば耳まで真っ赤になっていたかもしれない。

 ハルトの内心には気付かず、自らの衣服で止血を施した少女は顔色が良くなったとまた喜んだ。

「止血、間に合ったんだ! 良かった……あともう少しだから、それまで頑張って……!」

「あと……もう、少し……?」

 少女の言葉の意味を理解できず、ハルトは僅かに眉根を寄せた。

「そう、あともう少し。十分って言ってたから」

 十分、と口の中で繰り返して、ようやくハルトは少女の言葉の意味を理解した。

 僅かに口角を上げて、ハルトは少女に応えようとした。しかし、実際には僅かに目が動いただけだった。既にハルトには笑う体力も残っていなかった。

 そのことに気付いた途端、ハルトの意識は再び闇に沈み始めた。全身から力が抜け、目は自然と閉じ、鼓動は弱まり、血液は背中側に集まっていく。

 ハルトの変化に気付いたのか、少女は握った手を一層激しく摩りながら、どうにか意識を保たせようと強く声をかける。

「ダメっ! もう少し、もう少しだから! だから、頑張って! 眠っちゃダメ! 死んじゃ、ダメっ!」

 少女の声が聞こえるたびに、ハルトの意識は僅かに闇から浮かび上がる。それを頼りに、ハルトは意識を保とうと力を尽くした。

 しかし、その努力が結ばれることはなかった。

 いつしか、少女の声も聞こえなくなった。

 何も見えない闇の中で、体の感覚は完全に失われ、思考は停止し、最後に残った意思さえ消え去ろうとしたその寸前。

 闇の向こうから、誰かの拍手が聞こえた。



 

 目覚めたハルトを出迎えたは、光度が押さえられた電灯の明かりだった。見上げるほど高い位置にぶら下がるそれをぼんやりと眺めるうちに、ハルトは自分が椅子に座って天井を眺めているのだと気付いた。

 視線を下に降ろすと、そこは長椅子と長机が段状に並んだ恐ろしく広い講堂だった。長椅子の上には隙間なく人が座っており、そのほとんどがハルトと同じように天井を眺めていた。そして机の上には小さな盤と細い駒が、一人一人の前に並べられていた。

 一体何故こんな所にいるのか。霞がかった頭で思い出そうとしたハルトの脳裏に、突如として最後に見た自分の惨状が鮮明に思い出された。弾かれたようにハルトは机の下を覗き込んだ。

 あの地獄で確かに失われたはずの両脚がそこにあった。恐る恐る力を入れると、その通りに脚は動く。続いて机の縁にかけた両手に目を移す。あるはずの裂傷はなく、ないはずの指があった。

 ハルトは自分の手をそっと摩りながら、講堂内を見回した。椅子に座っていた人々も、それぞれ自身の首や腕、腹などに気遣わしげに手を当てている。彼らも現状を飲み込めていないのか、どの顔にも困惑の色が浮かんでいた。

 突如、銅鑼の音が大音量で講堂内に響いた。その場にいた全員が耳を抑え、一斉に音の元へ目を向けた。

 銅鑼は講堂の中心、舞台の上に置かれていた。その前にはスーツに身を包んだ紳士が一人、今しがた銅鑼を鳴らした撥が置かれた講壇の前に立っていた。

 紳士はにこやかな表情を浮かべて、壇上からマイクを取りあげると、聴衆席の全員が手を耳から離すのを待ってから口を開いた。

「皆さまお目覚めになられましたか? これにて本日の試験は全て終了となります。試験の結果は後日、郵送をもってお伝えいたします。試験で使用した駒は盤上に置いたまま、持ち帰らないようお気をつけください。それでは、皆さんから見て右側の扉から、順次ご退場お願いいたします。半年後、学院で皆さんに会える事を心からお祈りしています」

 心持ち早口で口上を述べると紳士、この試験の試験官は足早に舞台袖へと消えていった。

 まるで舞台か逃げ出すように試験管が去った後、僅かに間をおいてから講堂内の雰囲気が一変した。

「……ふざけるなっ!」

 何人かの受験生がそう叫んだ。それに呼応して、講堂の至るところから抗議と非難の声があがった。

 あまりに多くの人間が一斉に声を発したため、ハルトにはどれ一つとして内容を聞き取ることが出来なかった。しかし声に含まれる感情から彼らが激怒していることだけははっきりと分かった。

 ハルトの中にも、彼らと共通の怒りがあった。

 最後の入学試験は、一切説明なしに行われた。駒を与えられたばかりの受験生たちは覚悟を決める暇すらなかった。普段着のまま平原に並べられ、整列したところに、前兆もなく砲弾が打ち込まれた。つまりハルトたち受験生は、戦場ですらないただの地獄に突如として放り込まれたのだ。この理不尽と、それに続く苦痛や恐怖を味わって、怒るなというほうが無茶というものだ。

 だがその怒りを声に出しはしなかった。自身の目指す場所、目指す物は、こういった理不尽と常に隣り合わせの場所だと理解していたからだ。

 ハルトは胸の奥でふつふつと湧き上がる感情を抑えながら、ゆっくりと視線を壇上から机の上の盤に置かれた駒へ移し、青い瞳でじっとそれを見つめた。

 この駒こそ、ハルトが目指す場所で、ハルトがならなければいけない物だった。


 駒。それはハルトが生きる世界と、そことは別の世界を結ぶ鍵であり、またその別世界で戦う戦士の総称でもある。

 別世界は『儀世界』と呼ばれ、そこでは日夜駒による激しい戦闘が行われている。儀世界は別世界であるから、そこでの死は死ではなく、死者は再び元の世界に戻ることが出来る。怪我も同じであり、どんな重傷でも、元の世界に帰れば全て元通りに治癒される。

 ハルトたちが砲火に焼かれたのは儀世界の出来事だった。そのため、元の世界で目を覚ました時には傷は治り、死者は蘇っていたのだ。

 儀世界から元の世界に戻れば全てが元通りになる。しかし儀世界は決して、夢や幻の世界ではない。儀世界は別世界であり、隣り合った現実ともいうべき物。その事実を、この世界の誰もが生まれてすぐに知ることになる。何故なら、儀世界とその鍵である駒を人類に与えたのは、実在する神だからだ。

 人に駒と儀世界を与えた神はデウスと名乗った。神でありながら、人類とデウスの接触は僅か千年前の出来事である。

 その時の様子は、次のように現代に伝わっている。

『神は、軍民の区別なく多くの犠牲を出していた大戦争の最中に突如現れた。予兆なく空は暗雲に包まれ、雷が次々と兵士たちを打った。敵対する国家同士の国境に沿って溶岩の壁が噴出し、あらゆる戦場を緑の竜巻が蹂躙した。そして天変地異に怯える全ての人々の頭の中に、直接声が届いた』

「我はデウス。闘争の神なり。我は人の闘争を憂う者なり。汝らは戦士と戦士ではなく、人間と人間の闘争を始め、戦士にあらざる者を数多く犠牲にした。真に受け入れ難い闘争なり。よって、これより汝ら人間に、この世界で生命を奪う全ての闘争を行うことを禁じる。代わり、我の用意した新たな世界で思う存分争うが良い」

『デウスの声が消えると同時に、溶岩の壁は消え、竜巻は収まり、雷に打たれた兵士たちは次々と息を吹き返し、まるで何事もなかったかのような平穏が戻った。しかし人々の中にはデウスの声がはっきりと残り、それまで知りもしなかった物の知識が深く根付いていた』

 それが駒と、戦いのための世界である儀世界の知識だった。この日から、それまで唯一の世界だった現実は真世界と名前を変え、その姿を大きく変えたと言われている。

 デウスの言葉に嘘はなく、それ以後真世界で人が人を殺すことは出来なくなった。殺意の有無にかかわらず、相手に死をもたらす行為はすべてデウスによって止められる。夫婦喧嘩の最中に握られた包丁や花瓶は粉塵と化し、致命傷となる打撃や蹴りは外れ、不注意な人間による事故死すら未然に防がれる。戦うためには、駒となり儀世界に行くほかなくなった。

 それから千年経った現在、駒と儀世界は社会の基盤となっている。

 儀世界はあらゆる揉め事の最終的な決着の場となり、駒はそのための戦力として広く求められるようになった。その過程で生まれたのが、駒専門の教育機関、通称『学院』である。

 駒を志す者は、学院を出なければならない。駒を目指すハルトは、学院の中でも特に古い歴史を持つ名門、パーセラ学院の入学試験を受けた。

 筆記試験の後、儀世界での体力試験が行われ、最後に事前説明のない三つ目の試験が待っていた。

 その内容が、あの降り注ぐ砲弾の雨だった。


「あの、退室始まってますよ?」

 肩を揺すられてハルトは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。声の主に顔を向けると、主は困惑と躊躇が入り混じった表情でハルトの肩から手を引いて、ハルトの向こう側を指差した。

 指に従って反対側を向くと、ハルトから通路までの席が全て空席になっていた。もう一度声の主のいる方へ顔を向け、ようやく自分が退室の邪魔になっていることに気付いた。

「あ、ごめんなさい! すぐにどくよ!」

 その声に驚く受験生に気付かず、ハルトは少ない荷物を手にとってすぐさま席を立った。

 普通に歩くには狭い椅子と机の間を横歩きで通りつつ、目を講堂内に向ける。そこそこの時間眠っていたようで、既に講堂内の人数は半分以下になっていた。先程までの怒りの爆発も既に治まっており、静かに出口に向かう受験生たちも大分落ち着いた様子だった。

 階段状の通路に出たハルトは、他の生徒が通路を下る中、逆に通路を上り講堂の最上段を通って出口に向かった。出口は七つあったが、最上段の出口だけが渋滞を起こしていなかった。

 混雑する他の出入り口を横目に、スムーズに講堂から退出したハルトを待っていたのは、多くの受験生たちがひしめき合うスロープ状の通路だった。

「あれ……? 出口って他にもあったような……」

 呟きながらスロープ脇の扉を見る。その先には外階段があり、講堂に入る時はそれを利用することが出来た。

 しかしハルトの目に飛び込んできたのは、全ての扉に張られた『強風のため閉鎖中』の張り紙だった。次いで通路に設けられた窓の外へと目を向けると、快晴から曇天へと表情を変えた空を背景に、風に煽られて大きくしなる樹木の頭が見えた。

 今更になって下の出入り口が混雑していた理由に気付き、ハルトは額を手で打った。

「しまった……どうしよう、戻って別の出入り口に行く? いや、でも下に行った人数はすごく多いし、今から行っても大して変わらないんじゃ……」

 迷うハルトの横を、次々と人が横切っていく。その行き先は人で詰まったスロープではなく、出てきたはずの講堂だった。

「今の人たち、諦めて別の出入り口に行ったのかな? もし同じように考える人がいたら、下の出入り口はもっと混むはず……うーん、仕方ない。素直に並ぼう」

 溜息をついて、ハルトは列に加わった。そのすぐ横に、同じように溜息をつきながら他の受験生がやってくる。

 ハルトは特に気にせず、暇つぶしに前方の人の頭を数えていたが、受験生の方はそうではなかった。

「あっ!」

 急に声が上がり、ハルトは反射的に声の元に顔を向けた。

「あっ!」

 隣に立つ人の顔を見て、ハルトも同じように声を上げた。振り向いた先にあったのは、見覚えのある黄金の瞳と長い三つ編みだった。

 驚きの表情のままこちらを見つめる少女に、ハルトは丁寧に頭を下げた。

「さっきは、どうもありがとう。おかげで試験が終わるまで生きていられたよ」

 ハルトの言葉に、少女は胸に手を当てて、深い安堵の篭もった息を吐いた。

「良かったぁ……。どんどん冷たくなっていくから、間に合わなかったんじゃないかって心配だったんだ!」

 目を潤ませながらも柔らかな笑みを浮かべる少女に、ハルトも微笑み返した。

 本当は、最後まで自分が生きていたのか、ハルトには分からなかった。体の感覚を失った時点で、あるいは思考を失った時点で死んでいたのかもしれない。しかしハルトは自分の生存を望んだ少女のために、生きていたと思うことにした。

 そうとは知らず、純粋にハルトの生還を喜んだ少女は、次にハルトの体をしげしげと眺め始めた。

「火傷の跡はないし、指もちゃんとあるし、脚も大丈夫、だよね。あの大怪我、嘘みたい……ってごめんね! こんな風にじろじろ見るのは良くないよね」

「そう? 僕は別に気にしないよ? よくあることだし」

 少女はその言葉の意味を掴み損ねたようで首を傾げたが、ハルトの顔を見て得心したように頷いた。

「あぁ、そっか。君ってそういえば男の子だったね。すごく綺麗な顔してるから、女の子に間違えられる」

「そうなのかな? 確かに女性と間違えられることはあるけど……」

 眉をひそめ首を傾げながら、ハルトは通路の窓ガラスに映った自分の顔を覗き込んだ。

 それはハルトにとっては毎日見ている自分の顔であり、特筆するようなものには思えなかったが、少女から見れば男女の区別に迷う整った顔立ちだった。

 輪郭の緩やかな瓜実顔。ぱっちりとした釣り目がちな大きな目は長い睫毛に縁取られ、その中央で海のような濃い青を湛えた澄んだ瞳が静かに揺れている。細く鋭い眉は濃く、唇はやや幅広で薄い。首筋に掛かる程度で切られた髪は、深い艶のある青みの帯びた黒で、顔が動くごとにサラリと揺れた。

 少年と少女の境界線上から、少女のほうへ一歩踏み出したのなら、きっとこうした顔になるのだろう。唯一声だけが低く太く、ハルトが少年である証拠だったが、黙っていれば分からない。

「やっぱり、綺麗だよ」

 少女の呟きには深い感嘆の念が込められていた。

 しかし、ハルトはその言葉に首を振り、窓ガラスに映る顔から目を逸らすと、振り向いて少女の顔を見る。

「僕は君の方がずっと綺麗だと思うな」

「ふぃえっ!? え、な、えぇ……あっ、も、もう……お世辞はいいよ!」

 ストレートなハルトの言葉に、少女は顔を真っ赤にしてわたわたと取り乱した後、頬を膨らませてぷいと顔を背かせた。

「お世辞じゃないんだけどなぁ」

 実際、世辞ではなくハルトは少女のほうが綺麗だと思っていた。単に見目の麗しさだけで言えばハルトの方に分配が上がるが、見る人に好感を抱かせるという点では少女のそれには叶わない。

 白い歯を見せる笑顔が良く似合うあどけなさの残る顔立ちに、その時の感情に応じて多彩の輝きを見せる黄金の瞳。そして揺れるたびに人に郷愁を感じさせる金色の麦畑のような髪。

 少女の姿を見ているだけで、ハルトは失ってしまった何かを取り戻せそうな気さえしていた。

「もしかして、気に障った? それなら、ごめんね」 

「そんなことない、けど……綺麗って言ってもらえて、嬉しいけど……ううう……」

 言葉を継げなくなった少女は恥ずかしさと嬉しさに赤くなった顔を隠すように顔を伏せて両手で覆い、そのまま感情の行き場を求めて身悶えした。

 少しの間そうして悶えていた少女だが、やがて思い立ったように両手で両頬をぴしゃりと叩いた。

「もういいや! この話はここでお終い! はい!」

 まだ赤い顔を上げて、勢い良くそう言い放つ。そしてそのままの勢いで少女はハルトの顔を見上げた。

「それよりもまだ君の名前聞いてなかったよね!? もし良かったら教えてくれる!?」

 話題の転換のためか、少女の口調はやや早い。そのことに内心苦笑しつつ、ハルトは姿勢を正した。

「僕はハルト。君の名前は?」

「私はリーン、リーン・ウェルネス! よろしくね、ハルトくん! って、今更言うのもなんだか変な感じがするね!」

 照れ臭そうに笑うリーンにつられてハルトも笑う。そうしていると既に一年分の笑い声を上げた気がして、これにまた笑った。

 まるで草原に横たわって青空を見上げているような爽やかな気分だった。緊張していた心が解れて、余裕が生まれてくるのが分かる。

 ハルトはいつの間にか自分の目が潤んでいることに気付いた。

 笑いすぎたかと思い袖で目を拭うと同時に、そういえば、とリーンが声を上げた。

「ハルトくんはさ、今日の三つ目の試験についてどう思う? 私は、まだ気持ちの整理が追い付いてなくて……うまく言葉に出来ないんだ……」

 既にリーンは笑顔を潜め、憂いに眉を寄せていた。

 第三試験の内容を考えれば無理もない。ハルト自身も、自分の両脚が失われた光景を思い出して笑みを消した。

 けれどもすぐに微笑を浮かべなおすと、腕を組み、考えながら言葉を発した。

「第三試験は、正直驚いたし、怒ったよ。完全に不意打ちだったし、意味が分からないままボロボロにされたし……けど、きっとあれが駒の日常なんだと思う。儀世界で戦って、ボロボロになって、死に掛けたり死んだりして、でも目が覚めたらなんともなくて、その後日常に戻ったり次の戦いに向かったりする。きっとそれが駒の日常で、さっきの第三試験はその予行演習だったんじゃないかな」

 もし第三試験が本当に試験としての意味を持つのなら、あまりにも運の要素が強すぎる。平原に整然と並べられた状況で無数の砲弾が突然降って来るような試験で、知力や体力、あるいは対応力を見れるとは思えず、例え何か見れるものがあるとしても、受験生の姿は砲撃による土煙で隠され、安全な場所にいるであろう試験官から一人一人を見れるとは思えない。そもそも最初の砲撃で吹き飛んだ受験生は試験の開始すら分からなかったはずだ。こんな試験で能力を見れるとは思えない。

 しかし駒がどんなものかを体験させる目的なら、運の要素があろうとなかろうと関係ない。むしろ空から突然暴力が降り注ぐ砲撃は最適といえる。人や獣に襲われるならば抵抗も出来るが、何時何処に降るかも分からない砲弾には抵抗のしようもなく、しかも例え直撃しなかったとしても四方に飛散する破片や爆風に容赦なく体や命を奪われるのだ。

 それは恐ろしく理不尽なことに思えたが、しかし駒になる以上、それが日常になる。

「そっか、あの試験が駒の日常か……」

 怯えが滲んだ声で、リーンが呟いた。

 そのまま枯れた向日葵のように悄然として肩を落とし、しばらく黙り込んでいたが、やがて堪えかねたように溜息を漏らして、黄金の瞳に弱々しい光を揺らしながらハルトを見上げた。

「ねぇ、ハルトくんはまだ、学院に入りたいって思ってる? あれが駒の日常なら、すごく辛い日々が待っているってことだけど、それでも駒になりたいって思える?  私は、迷っちゃってる。というか、怖くなってる」

 語る言葉に先程までのはきはきとした調子はない。微かに肩を震わせ、素直に恐怖を吐露する姿は、今にも消え入ってしまいそうなほど弱く見える。

 このままじゃいけない。ハルトが強くそう思うと、自然に口が動いた。

「気持ちは分かるよ。僕も怖い。きっと学院に入ったら、血を見ない日も痛みを知らない日もなくなるんだと思う。毎日さっきの試験のような地獄が待っているって考えれば、怖くならないわけがないよ。けど、駒だって永遠に戦い続ける訳じゃないと思うんだ。今みたいに、戦いが終わった後に誰かと話したり笑ったり出来るのなら、駒の日常はただ苦しいだけの日々じゃない。それなら僕は耐えられる。耐えられるから、駒になれる。うん、僕はまだ、駒になりたいって思えてるよ」

 言って、ハルトは殊更明るく笑ってみせた。

 リーンはしばらくハルトの顔を惚けたように見つめていたが、はっと我に返ると赤くなった頬に手を当てて目を逸らした。少し間をおいて、再びハルトの方へ目が向いた時、黄金の瞳には強い光が戻っていた。

「強いなぁハルトくんは……うん、私もその強さ、見習おう!」

 感心の言葉を口にしながら、両手で頬を叩いて意気込むリーンに、ハルトは何も言わなかった。

 本当はハルトも怖かった。儀世界でとはいえ、両脚と何本かの指を失い、感覚や思考が抜け落ちると共に少しずつ自分が消えていく体験をしたのだ。胸を締め付ける不安と恐怖は、恐らくほぼ無傷で第三試験を終えたリーンのそれよりも遥かに強い。更に言えば、ハルトは自らの意思に関係なく駒にならなければならない立場にあった。どれだけ恐怖があろうと不安があろうと、意思とは関係なく進まねばならない苦痛は、首に食い込む刃から逃れるため炎の中を進むようなものだ。

 それでもハルトが精一杯の虚勢を張って笑ってみせたのは、ただリーンにまた笑ってもらいたかったがためだ。

 このコロコロと表情を変える感情豊かな少女はその時の感情で実に多彩な姿を見せてくれる。その中でもハルトが一番見ていたかったのは、今のように太陽のような全力の笑顔を見せる明るい少女の姿だった。

 ふと気が付けば、二人の並ぶ列はスロープを下りきり、一階にまで進んでいた。一階はそこそこの広さのエントランスだったが、本来なら広々としているはずの空間は完全に人で埋まっていた。

 ハルトとリーンは顔を見合わせ、揃って肩を落とした。まだ列が続くのかといい加減泣きたくなったが、そこで列の中に動きがある事にハルトは気付いた。左右に分かれ、あるいは移ろうとする人々が列の中を行き交い、その場に留まる人間は周り合わせて協力的に道を作っていた。

 ただ出口を目指していた先ほどとは明らかに違う様子に首を傾げていると、出口の方から男性の声が聞こえてきた。

「受験生の皆さん今日はお疲れ様でした! 現在強風の影響で当施設敷地内では集中した混雑が発生しています! さらなる混乱を避ける為、ここからは係員の指示に従い、各入場口毎に分かれて施設からのご退出して頂きます! 出入口によって最寄りの公共交通機関が異なりますので、こちらの掲示を良くご確認の上分かれて下さるようお願いします! また、混雑防止の為、現在第一講堂から順次ご案内させて頂いている他、一度にご案内する人数は三十人前後となっていますのでご了承ください! 」

 恐らく職員であろう男性が一旦そこで言葉を切ると、出口のほうで一斉にプラカードが立ち上がった。それぞれ担当の出入り口、そこからの最寄の交通機関について張り出されており、人の流れもそれに従って動いていた。

 二人は揃って目を細めて前方のプラカードの文字を読み、ほとんど同じタイミングでお互いに向き直った。

「私は西側出口に向かうけど、ハルトくんは?」

「僕は東側の出口なんだ。だからここでお別れだね」

「そっか……」

 別れと聞いて少女は一瞬表情を暗くしたが、すぐに明るい笑顔に戻り両手でハルトの手を取った。

「今日はありがとうね! 酷い目にもあったけど、ハルトくんに会えて良かったよ!」

 握ったハルトの手ごと腕を振って喜びを伝えてくる少女に、ハルトも自然と頬を緩ませて頷いた。

「うん、僕も君に会えて良かった。色々とパワーをもらえた気がするよ。おかげで、あと十一ヶ月頑張れるよ」

「そっか、いま五月だもんね。次会えるのは四月かな?」

 ハルトは頷いて、僅かに表情を曇らせて目を逸らした。

 学院の入学試験は普通科の受験と重ならないよう、五月とかなりに早い時期に行われる。合格発表は六月、そこから四月の入学式まで合格者が顔を合わせる機会はない。だが四月になったからといって必ず会えるわけではない。パーセラ学院には毎年一万人近い人数が入学し、広大な学院敷地内で暮らすことになる。その中で再会することが果たして可能なのか、ハルトには自信がなかった。そもそも入学試験に受かることが出来るのか、十一ヶ月後までお互いのことを覚えているのか。

 次々と思い浮かぶ障害に、ハルトはますます再会の可能性を絶望視し、憂いの表情でリーンを見た。

 しかしリーンは屈託なく笑っていた。

「大丈夫、きっとお互いに合格しているよ。だから今度学院で会えたら、その時はまた楽しくお喋りしようね!」

 確信に満ちた口調で断言して、リーンは手を握る力を強めてきた。その声と力が、ハルトの心から不安を吹き飛ばす。

 再びハルトは頬を緩ませる。今度は虚勢ではなく、心から明るく笑う。

「ありがとう、本当に、今日君に会えてよかったよ。また今度、学院で会おう」

「うん! それじゃあ、名残惜しいけど私はもう行くね」

 列の動きは徐々に収まりつつある。あまり遅くなれば、移動することが出来なくなるだろう。

 リーンの手が離れる。残った熱が薄れていくのを惜しみながらも、その手を追うことはしない。

「気をつけてね。また会う時まで、お元気で!」

「ハルトくんもね!」

 最後に元気よく言葉を交わして、リーンは背を向けて列の中に消えていった。

 その後ろ姿を見送ってから、ハルトも移動を始めた。

 やがて前方のプラカードが下がり、職員の合図で列が進み始める。建物を出たところで列は目的地ごとに分かれ、強風に煽られながらそれぞれ違う方向へと進み始める。

 ちらりと、ハルトは反対側へ去っていく集団を見やったが、そこに麦穂色の髪を見つけることは出来なかった。

 そのことを残念に思いながらも、口元の笑みは消さず、吹き荒ぶ風を受けながら曇った空を見上げる。

「大丈夫、きっとまた会える」

 確信を込めてそう呟くと、ハルトは前を向いて帰路に着いた。



 ハルトの元に合格の通知が届いたのは、それから一ヵ月後のことだった。

続きは五月下旬に投稿予定です

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