(3)中編その2
ー(3)ー
詩音は走る自分は嫌いじゃない。むしろ自信がある方だし、以前はよく追っかけてくる警官やギャングの手先を裏路地に誘い込み、フェンスを駆け上がり、ビルの屋上を飛び越え撒いたものだった。
ところが今の詩音はすこぶる不機嫌だ。
その一、背中に担いでいる箱と姉の時雨が重いわ、角っこが体に当たって痛いわ、走りづらくてたまらない。
その二に今追ってくる相手は見せしめの不当逮捕にくるのでも、不法入国の斡旋を迫るのでもない。捕まったら明日はない、という点では似ているが、理由も聞いてくれずに激しく噛まれるところは想像したくない気分だった。
追ってくるのは《ダスペーヒ》。詩音はまだ姿をよく知らない。
だが、後ろから迫る金属音は加速度的に大きく速くなっていった。
速く走れば走るほど、鋭い葉が手をすねを斬り刻んだ。
《ブレイド・ステップ・ロード》
まさにこの草原の特徴である葉が《刃》となって詩音と、そしてさっきまで詩音に決闘を仕掛けてきたバッカスの2人に襲いかかっていた。
でもどこまで逃げればいい?
音が近い。もうすぐそばまで来てる⁈
迫る金属音は3つ、‥‥‥だったはず。
あれ、音が近すぎてわからなくなってる。走りすぎて頭おかしくなった?
いや、横?、ちがう!
「前からっつ⁈」
と感づいた次の瞬間、前を走っていたバッカスが声も出せず吹っ飛んだ。
詩音は走りを止めず凝視した。
ダスペーヒ。四つ脚でバッカスに覆いかぶさったその姿は文字通り《鎧》そのものだった。
2、3メートルはあろうかというその巨躯は頭部から胴部、足先に至るまで鎧兜で覆われ、まるで弓矢も刀剣も通さない立派な武者姿だ。これならこの《刃》の草原を駆け抜けるのも納得だ。
前脚で押さえつけられたバッカスは跳ね除けようにも身動きを取れず、ダスペーヒの幾つもの牙が眼前を何度も交差した。
でも、走りをやめられない。
詩音は勢いそのままバッカスの前をやり過ごし走った。
だが、その時、背負っていたつづらの肩ベルトがズレ、箱が落ちた。
まるで、中で寝ている時雨が「このまま見捨てて行っちゃダメ」と諫めているようだ。
「くっそ〜! やっぱこうなんの? またあんたのせいで」
詩音は姉に毒づきながらも腰ホルスターからピッケルを抜いた。今にも噛みちぎられそうなバッカスを救うために。
「ゔぉおらあ〜〜!」
詩音はピッケルを振り下ろした。
だが、野獣の鎧は通らない。難なくはじき返した。
当たり前だが、それ以外に詩音は思いつかず、必死に繰り返すしかなかった。
だが刹那、もうひとつ音が迫り詩音の背後からのしかかってきた。
「しまった!」
詩音たちを追ってきたのは一頭だけではないのだ。こちらは西洋鎧に似たタイプのダスペーヒ。
タックルを喰らった格好で刃の草原の上を激しく転がった。
痛い、と感じる間も無く大きく引き裂かれた真鍮色の野獣の口が迫った。
「にゃあああーー!」
詩音は咄嗟に地面に散らばる草刃を掴み、血だらけの手で迫るダスペーヒの喉元に押し込んだ。流れた血が宙を舞った。
詩音の身体が丸呑みできそうなほどの野獣は詩音を振りほどき暴れ回った。
鎧で覆われたダスペーヒも内側は生身だったのだ。
詩音は両手いっぱいに草刃を集め、バッカスに、
「おっちゃん避けろ、口開けて!」
バッカスは残る力を振り絞り、野獣の口を押さえながら、自慢のダブルアックス(斧)を縦に口に押し込み固定した。
詩音はその喉元に飛び込み、草刃を力いっぱい押し込んだ。
もがき苦しむ野獣から離れられた2人は立ち上がり走り出した。
が、詩音はその場に崩れ落ちた。手も足も出血し、力が入らない。
「ひいいい‥‥‥」
最後の一頭が向かってきた。
「ダメ、ヤられる‼︎」
今度はバッカスが間に立ちふさがった。落としたつづら箱の肩ベルトをひっかけ振り回し、野獣に一撃。
その隙に、恐怖で強張った詩音をバッカスが脇に抱き上げた。
「お、おっちゃん」
バッカスの両腕は詩音とその姉2人を抱え、引きづるように逃げた。
必死で。
バッカスの腕は毛深いのだが、血で染まりあまり見えなかった。
詩音は腰から下がなくなった気がしていた。斬られすぎて足の感覚がない。
次、襲われたら反撃もできない。
そんな絶望感の中、野獣の迫る音と反対側に水の音が聞こえた。
「川? 」
どころではなかった。
草原が開けると目の前には広大な空が広がっていた。
そして、その先には広大な海が。ただし、数十メートルの崖の下に。
「いいっつ、ちょ、ちょっと! 落ちる‼︎」
バッカスも同じものを見ているはずだが、走るスピードを変えなかった。
「いいか、肚くくれ。栓抜いて一日置いた気の抜けたビールと浮気がバレて顔真っ赤にして本気でグラス投げてくる女とどっちがいいか。選ぶ暇ないだろ」
「その例えがわかんねえーー!」
3人は飛んだ。
正確にはもう走れずジャンプできる力も失い、崖から雪崩うってそのまま落下した。
詩音はすごく高い場所から落下するあの感覚、下半身がなくなった時のイヤな感覚はもうすでに感じなかった。
このあと、どおなるのか?
バッカスのヘタな例えの言わんとするところは全く理解できなかったが、どちらの未来かを選べないまま3人は海に落ちた。
※ ⑷に続く