きっと幻想
あるいは青の時代に
ひたすらに描くしかなかった画家に
あの青は幻想ではなかったのか
あるいはバニラスカイに
ひらすらに追い続けた空に
変わることのない幻想が見えたのか
あるいは湧き上がる交響曲に
聾唖の音楽家に
降りてきた音階は幻聴ではなかったのか
あるいは文学賞の詩人に
透明な風の虚しさに
詩に匂う叢の薫りは幻想ではなかったのか
日々の暮らしよ
暖かな苦しみよ
締め付ける息苦しさよ
肉体的すぎる暮らしのなかで
幻想は軽んじられているが
わたしは回帰せねばならない
深い空を抱く海が青く青く染まる水平線に
夢想の柔く妖しい肌のあたたかな乳房に
壮大な祈りの楽団が奏でるホールの一隅に
氷雨流れる川面に沈む巨石の只中に
静寂と沈滞へ
甘やかさと復活へ
昂りとしじまの余韻へ
近しさと悲しみへ
幻想のなかで
日々はくりかえされていく
何度も何度も
景色は重ね塗りされていく
音階は無音のままかき消されていく
美しい言葉は脆弱さに呑み込まれていく
ある昼間の一瞬に
景色が色を留めるとき
ようやく幻想は起き上がり
青白い頬をにやつかせる
信用金庫の看板の下
地下鉄の出口の階段を昇ってくる
ようやくあえたな
どうだなんてことないだろう
こんなもんさ
ある夕暮れのひと時に
山際から降りてきて
使わなくなった養魚池で泳ぎ出し
水掻きの手をひらつかせる
レンコン畑の枯れた茎の傍
畦に手をつきよじ登ってくる
こんばんは
どうだい
いいつきがでそうだ
ある夜更けのしじまに
黒い道路を走ってきて
裏通りのシャッターを鳴らして
冷たい足先をしげしげ眺める
庭の金木犀の根元に座って
猫にエサをやろうとねだってくる
いいだろう
だれだってさむいんだ
くらいよるなんだ
ある夜明けの東雲に
東の空から降りてきて
小さな小川のせせらぎで
顔を洗ってばしゃばしゃはしゃぐ
広場の枯れ葉を頭にのせて
狸みたいに化けられないともがいてる
なんでだろう
ひとつだって
おもいどおりにならないんだ