猫の目耳
「猫って雨が嫌いなんですか。」
「雨というか水が嫌いなのよ。こればっかりは習性。人間になっても変えられないわ。」
「なるほど。冬はこたつの中で丸くなっているイメージがあるから、寒いのが苦手ってなんとなく分かるんですが。」
俺は、少しだけ女性から距離を開けた。雨水で傘からはみ出た肩にシャツがべったりと張り付いてくる。まるで身体を侵食されるような感覚に襲われた。
遠くで若者なのか酔っぱらいなのか分からないが、意味の分からない奇声が傘に当たる雨の音に交じって聞こえた。
「そんなのただの童謡に出てくる猫の話じゃないの。本場は違うわ。本場は。」
大きく息を吸い込み、女性は誇らしげに胸を張った。
甘い香りが漂ってくる。もっと近くで嗅ぎたくなるような、好きな匂いだった。
本場が俺には分かりません。
「必ず夏を連想させる何かを持ち歩くようにしてるの。そうやって気を紛らわすようにしているつもり。」
「つもり、なんですか。」
「だって、本当に紛れているかどうかなんて分かんないし。」
それじゃあ1人でバーに居るのはどうなの。
「止まないですね、雨。」
「天気予報見てないの?今日は、明日のお昼までずうっと雨だよ。」
「なるほど。」
こんなに気さくに話しかけてきてくれるので、失恋ではなさそうだ。
本当は一体何から気を紛らわせるようにしているのか。
興味本位で話しかけるには唐突過ぎるし、そこまで掘り下げることでもなさそうだ。変な人と思われてしまう。
「夜になると変な人が多くなるのね。一体何でなんだろう。」
「変な人ですか。」
心の中を見透かされたようで、俺は思わず質問に質問を重ねて話を掘り下げてしまった。
「そう、変な人。」
あっ。そうか。
女性は、上空(に映っているひまわり)を見上げて何かを見つけたようにはっとして含み笑いをする。
「私、耳がいいの。さっきあなたには奇声か怒号かに聞えた声が私には聞きとれるの。内容が分かっちゃって、それで。」
「へぇ、どんな内容なんですか?」
「それに、私夜目が利くの。」
狭い傘の下、女性がこちらを向くのが分かる。甘い香りが折り重なるようにしてふんわりと漂ってくる。
夜目ですか。
「そう。だからもう駅についたってことも分かるの。ほら。」
そう言って女性が指さした先には、よく目にするメトロの看板があった。
「もう着いたんですね。早いですね。」
本音が漏れてしまった。
「早いって、もっと雨に濡れてたかったってこと?君、肩びしょびしょだよ。」
メトロの看板を指さした手をそのままくるりと方向転換させて、女性は俺の肩を指さしてクスクスと笑った。
「はい。びしょびしょになりました。」
「ちゃんと家に帰ったら拭くんだよ。」
「お風呂に入りますよ。」
「そうだったね。私は水が嫌いだからよく分からないけど。」
次に出てくる質問は何とか飲み込んだ。女性に対する質問ではない。
「ありがとうございました。」
「また、カンクンでね。」
「はい。」
またがあるのかどうか分からないが、頼りない返事を残しつつ、俺達はそれぞれの電車に乗った。