地下のバー
「いらっしゃい。今日は早いね。」
「そうですね。今日は早いです。」
マスターの言葉を繰り返すようにして、俺は店内に入った。
「準備中」の看板が「営業中」にひっくり返されてからまだ間もないのだろう。客は一人もいない。
階段を数段下がった半地下にあるお店ということもあってか、薄暗く、どこかしら空気もどんよりしていた。
だが、それが俺にとっては居心地の良い空間であることは間違いなかった。
「なんだい、元気無さそうだね。」
「そうですね。」
「まだまだ若いんだから。」
「そうですね。でも、もう29ですから若くもないですよ。」
え、君もうそんな歳なの。人間の歳じゃあ若くもないね。
そうです。若くもないです。
カウンターが4席、2人かけのソファ席が3つ、壁にはマスターが外国で買ってきた骨董品が飾られていて、所狭しと並んでいるその光景が、どこか落ち着くのだ。
――広がり過ぎず、広げられず、広がらず。
時間の感覚さえ忘れられる空間が、ここ「カンクン」にはあったのだった。
★★★
「今日は何にするの?」
「アイスコーヒーもらえますか?」
「バーでアイスコーヒーかい。」
マスターはくつくつと静かに喉を鳴らして笑った。
「喉が渇いてて。まずはそれで。」
「まだまだ若いよ、君も。」
ちょっと待ってね。
マスターはグラスを拭いていた手を止めた。
氷をジャラジャラとカップに入れ、音を立てないようにして器用にアイスコーヒーを注いでいく。
「はい。よく冷えてるよ。」
どうも。
一口のみ、喉を潤した。
梅雨も明け、初夏の始まりを思わせるカラッとした天気だ。少し歩いただけでじっとりと汗ばんでくる。
そんな日の、仕事終わりの一杯はとりあえずビールでもいいのだが、今日はアルコールの気分ではなかった。
「疲れてるのかい。」
「えっ。」
知らぬ間に漏れていたため息に声をかけてくれたのだろう。
大きく裂けた口をキュッと閉じながら、マスターは俺の先を促した。
「そうですね。仕事で。空回りばかりで疲れちゃいましたね。」
「大変だね。」
「大変、ですね。」
クリームとガムシロップを入れ忘れたのを思い出し、俺は一口飲んだ量を補うようにしてたっぷりと入れた。
黒と白が混ざり合うのを宇宙創造主のようにじっと見つめながら、完全に混ざりきる前にまた一口飲む。
その拍子に目に入ってきたのはカウンターの天井近くに飾られていた鰐の骨のオブジェだった。
あれ?この間もあったっけ?
「ああ、あれね。この間死んだんだ。」
「あっ、そうだったんですか。」
俺の視線に察したのか、マスターがそっと教えてくれた。
「大変だったよ。火葬するにしても受け入れてくれるとこが無くてさ。」
「鰐ですもんね。」
「そうだよ、鰐だもん。しかもペットじゃないっての。爺さんだっての。」
その言葉にはどこかやり切れなさが滲み出ていた。
「何歳だったんですか?」
「86。結構長生きだよ。」
いらっしゃい。
カランと、ドアに括り付けられていたベルが鳴り、客が入ってきた。
マスターは、キュッと結んでいた大口を開け、ギョロリと鋭い眼光を向けて笑顔を作った。
研ぎ澄まされた鋭利な歯が店内の灯を反射し、それはまるで獲物を捉えた恍惚な表情のようにも見えた。
――マスターは、鰐だった。