海はない
海はありませんでしたという主張おおい多いにしてあるのかもしれませんがこの期に及んでそういった主張をなさる向きは風が少し強かった冬の季節の出来事である。砂丘の砂が少し舞っていたが目に入ると痛いのではあるまいかと万全の対策を期して防護服を着た白い集団の果てにあるのは犬か猫であるかという主張ももっともなことである。さて、二人の少年と少女がいたとする。さて、その後の物語は読者に委ねるとしよう。さて、それでけで物語は成り立つものであろうか。想像は読者に丸投げする。それがテクストだとポストモダンの文脈の中で著者/読者の関係は瓦解し、テクスト/読者の関係が残るのみであるとすると、本来著者の想定していた物語というものをテクストの内部に埋め込んだものであるという主張を延々と繰り広げた上で、物語は一切提示せずとも読者とテクストの相互作用的に編み込まれていく生成し滅していく過程の中でもう2015年ですね。新年明けましたがめでたいかどうかはやはりテクストを読む読者に判断を委ねるしかないというのが文化人類学的に妥当と言えなくもない熱帯魚は綺麗なのだろうか綺麗でなくてはならないのだろうか観賞魚は鑑賞に耐えるものでは無くてはならないうという狂気に果てに少年と少女は旅にでるのであるからして、やはりそれは海を求めるものであろう。それでも海などないというからには非存在性に対する探求という文脈で読まれるべきかそれとも幻想性というファンタジーの中で読み解かれていくべきかはテクストであるこの文章にとっては皆目検討のつかぬところでありましたから観測問題という問題の問題はシュレディンガーが猫の死体を箱のなかに突っ込んでさあお立会い、寄ってらっしゃいみてらっしゃいこの箱のなかの中の仲の那珂の猫は生きているのか死んでいるのかそれとも海の中で溺れているのかと思いませんでしたか。そうですか。そうではないのですか。少年と少女は海で出会ったのでしたが、そもそも海はありませんでした。では出会いはなかったのかというとそれは確率の問題であると蛙は申すわけであります。蛙の主張をよくよく聞いてみればそれは統計学的問題であって近似曲線や最小二乗法とかそう言った手法の乱用が問題であってベイズの定理とか、そもそも蛙は大海を知るはずもないのである原子とある原子が衝突するその出会いの確率をマクロ的に表記するのは甚だ難しいことではないでしょうか。少女と少年が恋に落ちた確率と憎しみ合った確率は今年の干支の賭けをすることよりも難しいものだからはてさて困ったぞと思案気な顔を浮かべた大工は釘を一つ取るとエイヤとばかりに砂に打ち付ける。砂は舞っていませんでしたがやはり海もありませんでした。そもそも海がなければ少年も少女も出会わないのではなかろうかと議論を始めるのはあまり得策とは思えませんね旦那、なんてたってそう書いてあるじゃありませんか。少年と少女は出会ったって。いやこの語り部はそもそも信用できるほどのものじゃないって? 叙述トリックかも知れないって? いやそもそもそんな記述は見当たらないって? いやはやこりゃ参ったね。メタじゃありませんかメタじゃ。だったら描きましょう。「少年と少女は海でであったのであった。2015年問題とはそもそも何であろうか。コンピューターの桁数が三桁であったのがそもそもの発端であったとも聞きますが詳しい解説をお伺いしてみましょう。いかがですかノストラダムスさん。え、あー、あれ? ノストラダムスさん? とまあ、こんな具合に人は突然消えるものだとばかり思っていましたが少年と少女の物語はまだ終わらない。例えば剣と魔法。少年は魔法。少女は剣。それを携えて何をする魂胆か。魚屋でも開こうっていうのかい?精神分析的に見れば少年少女は幻想の青春時代に対する憧れか望郷かとも考えられ考察され推論され言語相対性の彼方に導かれてゆきながらも絶対的なプロト言語をチョムスキーと一緒に探しに旅に出るのか? はてさて物語はどこで完結すべきかという問題にもそろそろ直面しなくちゃならないが幽玄的な舞を舞った魚。魚は海にはいない。そもそも海はない。でも少年と少女がいて、海は関係している。干上がっている海は海であるのであって、干上がってない海もまた海であるから、出会わない少年少女もまた少年少女である。ボーイドントミーツガール。