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『きみの心臓を、僕の胸に』

掲載日:2026/11/01

『きみの心臓を、僕の胸に』


五月の放課後の図書室は、埃の粒子までが西日に透けて金色に爆ぜていた。

紙と糊の褪せた匂いと、開け放たれた窓から流れ込む生温い草の匂い。僕は貸出カウンターの隅で、返却された文庫本の背表紙を指先でなぞりながら、静寂の重量を確かめていた。


ガラリ、と引き戸が鳴った。


「見ぃつけた。やっぱりここにいた」


空気をまるごと揺らすような声とともに、彼女——瀬名葵(せなあおい)が、ローファーの踵を鳴らして入ってきた。

肩で揺れる黒髪に、西日が絡んで栗色に透けている。手には売店のいちごオレ。いつだって周囲の色彩を二段階ほど鮮やかにしてしまう、僕とはまるで住む世界の違うクラスの人気者。


「瀬名さん。ここ、図書室なんだけど」


「知ってるよ。だから忍び足で入ってきたじゃん」


「どこが。足音で窓ガラスが共振してたよ」


僕が溜め息交じりに言うと、葵は「えへへ」と悪びれもせずに笑って、カウンターの天板にぺたりと両肘をついた。彼女の袖口から、ほのかに甘い柔軟剤と、病院の消毒液を混ぜたような独特の匂いがふっと鼻腔をかすめた。


「ねえ、秋吉(あきよし)くん。今日の放課後、空いてるでしょ」


「空いてるけど、読みたい本がある」


「却下。図書委員の当番はもう終わり! はい、鍵閉めて。デート行こ」


「……人聞きが悪いな。どこに行く気だよ」


「いいからいいから。早くしないと、今日という日が賞味期限切れになっちゃうよ?」


彼女の言う「賞味期限」という言葉の裏に、どれほど冷酷で具体的な数字が張り付いているのかを、クラスの誰も知らない。僕以外は。


*


一ヶ月前、駅前の総合病院の待合室で、僕は床に落ちていた一冊の小さな手帳を拾った。

ビニールカバーのついた文庫本サイズのノート。表紙には丸っこい文字で『余命宣告受けてからの、やりたいこと散財リスト!』と書かれていた。

中を開いて最初の数行を読んだところで、背後からノートをひったくられた。


『あーっ! 読んだな、地味系男子!』


振り返ったそこにいたのが、病気などとは無縁そうな、満開の笑顔を浮かべた葵だった。

彼女は心臓に治らない疾患を抱えていて、医者からは「長くてあと半年、早ければ今年の夏を越せないかもしれない」と宣告されていた。

彼女はそれを、まるで「明日の降水確率は八十パーセント」とでも言うような軽やかさで僕に告げた。秘密を共有してしまったあの日から、僕は彼女の気まぐれな「リスト消化」に付き合わされる共犯者になった。


*


葵に手を引かれて連れてこられたのは、町外れの古い歩道橋の上だった。

眼下には夕方の帰宅ラッシュを迎えた幹線道路が走り、車のヘッドライトの帯が遠くの海へと流れている。海風が吹き抜けて、葵の制服のスカートをふわりと膨らませた。


「ここから見る夕日、町で一番綺麗なんだよ」


葵は手すりに体重を預け、茜色に燃える西の空を指差した。


「わざわざこれを見せるために、僕を連れ出したの?」


「それもあるけど……はい、これ」


葵はいちごオレのストローを咥えたまま、もう片方の手で僕に小さな紙袋を押し付けてきた。中を覗くと、銀色の包み紙に入ったチョコレートが二粒。


「なにこれ」


「今日、五月十四日。イエローデーだよ。黄色い服を着てカレーを食べる日……じゃなくて、韓国ではローズデーって言って、恋人同士が薔薇を贈り合う日なんだって。薔薇は高かったから、薔薇の形したチョコ!」


「僕たち、恋人じゃないだろ」


「知ってる。だからチョコは二粒。一粒は付き合ってくれたお礼。もう一粒は……これからの前払い」


「前払いって」


「私さ、死ぬまでに秋吉くんの『本当の顔』が見たいんだよね」


葵は手すりから身を乗り出すようにして、僕の顔を覗き込んできた。

大きな瞳の中に、沈みゆく夕陽の紅が宿っている。吸い込まれそうなほど綺麗で、同時に、触れれば壊れてしまいそうなほど儚かった。


「本当の顔って何だよ。これが普段の僕だけど」


「嘘ばっかり。秋吉くんはさ、いつも透明なガラスの壁の内側にいるじゃん。『僕に関わらないでください、傷つけないでください、感情を動かさないでください』って顔に書いてある」


痛いところを突かれて、僕は視線を逸らした。

他者と深く関われば、いつか必ず別れが来る。感情を交わせば、失ったときの痛みに耐えられなくなる。だから僕は本の世界に逃げ込み、誰とも深く繋がらないように生きてきたのだ。


「……瀬名さんみたいに、誰とでも笑い合える人間ばかりじゃないんだよ」


「私だって、怖くて笑ってるだけかもしれないよ?」


不意に、葵の声の温度が下がった。

風が止み、遠くのクラクションの音だけが間抜けに響く。


「ねえ、秋吉くん。私ね、夜ベッドに入ると、たまにすごく息が苦しくなるの。胸が痛いんじゃなくて、怖いの。明日の朝、目が覚めなかったらどうしようって。私の見てるこの世界が、ぷつんって切れて、私だけ真っ暗な箱の中に置き去りにされたらどうしようって」


彼女の華奢な肩が、かすかに震えていた。

いつも太陽みたいに眩しい笑顔を振りまいている少女の、それが剥き出しの裏側だった。


「それでもね、朝が来るとホッとするの。今日も息ができてる、太陽が昇ってるって。そうすると、もったいなくてたまらなくなるの。誰かを嫌ったり、退屈そうにため息ついたりしてる時間がさ。だから私、笑うの。楽しいから笑うんじゃないよ。笑ってないと、心臓が先に止まっちゃいそうだからだよ」


葵は振り向き、僕を見上げた。

その瞳には、夕陽の光に紛れて、今にもこぼれ落ちそうな涙の膜が張っていた。


「なのに、秋吉くんは生きてる時間を余らせてるみたいに見えるんだもん。すっごく贅沢で、すっごく羨ましいよ」


「……贅沢なんかじゃない」


喉の奥が熱くなり、言葉がひりついた。


「羨ましいなら、もっと生きろよ。僕の時間を分けてやれるなら、いくらでもやるよ。半年で終わるなんて勝手に決めるな。僕を巻き込んで、勝手に特別にして、勝手にいなくなるなんて……そんなの、ずるいだろ」


感情を抑えきれずに吐き出した僕の言葉に、自分自身が一番驚いていた。

他人に踏み込まないはずだった。心を動かさないはずだった。

それなのに、目の前のこの少女が消えてしまう未来を想像しただけで、僕の世界の足元がガラガラと崩れ落ちそうになっていた。


葵はぽかんと口を開けて僕を見ていたが、やがて、くしゃりと顔を歪めて笑った。

大粒の涙が、頬を一筋つうと伝い落ちる。


「あはは……なんだ、ちゃんと怒れるんじゃん」


「瀬名さん……」


「ずるくてごめんね。でも、嬉しいな。秋吉くんが、私のためにそんな顔してくれるなんて」


葵は手すりから背を離し、僕の前に一歩歩み寄った。

そして、冷たくなった両手で、僕の右手をぎゅっと包み込んだ。小さな、けれど確かに命の熱を持った掌だった。


「ねえ。昔の人はね、自分の身体の悪いところと同じ動物の部位を食べたんだって。肝臓が悪い人は肝臓を、胃が悪い人は胃を」


「……何の話?」


「もし私が死んだらさ」


葵は僕の目をまっすぐに見つめた。冗談の気配など微塵もない、あまりにも透き通った真剣な眼差しで。


「私の心臓、秋吉くんにあげる。物理的に移植するんじゃなくてね、魂の話」


風が再び吹き抜け、彼女の長い髪が僕の頬をかすめた。


「秋吉くんが私のこと、ずっと覚えててくれたら、私の心臓は秋吉くんの胸の中でずっと動き続けられるでしょ? 君の心臓の中で、私がドクンって脈打つの。そしたら私、死なないで済むじゃん」


「そんなの……」


「だからね、覚えてて。私がここにいたこと。秋吉くんの手を握って、一緒に夕日を見たこと。……私の心を、秋吉くんが全部たべて」


夕闇が、足元から静かに這い上がってくる。

町の灯りがぽつぽつと灯り始め、僕たちの影を長く引き伸ばした。

握られた葵の手の温もりが、痛いほど僕の皮膚を通して伝わってくる。

その心臓が刻むリズムを、僕はこの時、確かに手のひらで感じていた。


「……食べるよ」


僕は、自分でも驚くほど静かな声で答えた。


「忘れない。君がどれだけわがままで、身勝手で、僕の平穏をめちゃくちゃにしたか、一生かけて呪いみたいに覚えててやる」


「ふふ、なにそれ。最高の愛の告白じゃん」


葵は涙を拭い、今日一番の、とびきり眩しい笑顔を咲かせた。


その笑顔が、僕の胸の奥深くに深く深く突き刺さる。

彼女の残り時間がどれほど短くても、この痛みを、この光を、僕は一生手放さないだろう。

西の空から太陽が完全に消え去り、群青色の夜が訪れる。

歩道橋の上で、僕たちは手を繋いだまま、世界で一番美しくて残酷な夜の始まりを見つめていた。





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― 新着の感想 ―
5月14日.大久保利通が暗殺された日でもあるんです、確か 良いなぁ、ラブラブ
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