『きみの心臓を、僕の胸に』
『きみの心臓を、僕の胸に』
五月の放課後の図書室は、埃の粒子までが西日に透けて金色に爆ぜていた。
紙と糊の褪せた匂いと、開け放たれた窓から流れ込む生温い草の匂い。僕は貸出カウンターの隅で、返却された文庫本の背表紙を指先でなぞりながら、静寂の重量を確かめていた。
ガラリ、と引き戸が鳴った。
「見ぃつけた。やっぱりここにいた」
空気をまるごと揺らすような声とともに、彼女——瀬名葵が、ローファーの踵を鳴らして入ってきた。
肩で揺れる黒髪に、西日が絡んで栗色に透けている。手には売店のいちごオレ。いつだって周囲の色彩を二段階ほど鮮やかにしてしまう、僕とはまるで住む世界の違うクラスの人気者。
「瀬名さん。ここ、図書室なんだけど」
「知ってるよ。だから忍び足で入ってきたじゃん」
「どこが。足音で窓ガラスが共振してたよ」
僕が溜め息交じりに言うと、葵は「えへへ」と悪びれもせずに笑って、カウンターの天板にぺたりと両肘をついた。彼女の袖口から、ほのかに甘い柔軟剤と、病院の消毒液を混ぜたような独特の匂いがふっと鼻腔をかすめた。
「ねえ、秋吉くん。今日の放課後、空いてるでしょ」
「空いてるけど、読みたい本がある」
「却下。図書委員の当番はもう終わり! はい、鍵閉めて。デート行こ」
「……人聞きが悪いな。どこに行く気だよ」
「いいからいいから。早くしないと、今日という日が賞味期限切れになっちゃうよ?」
彼女の言う「賞味期限」という言葉の裏に、どれほど冷酷で具体的な数字が張り付いているのかを、クラスの誰も知らない。僕以外は。
*
一ヶ月前、駅前の総合病院の待合室で、僕は床に落ちていた一冊の小さな手帳を拾った。
ビニールカバーのついた文庫本サイズのノート。表紙には丸っこい文字で『余命宣告受けてからの、やりたいこと散財リスト!』と書かれていた。
中を開いて最初の数行を読んだところで、背後からノートをひったくられた。
『あーっ! 読んだな、地味系男子!』
振り返ったそこにいたのが、病気などとは無縁そうな、満開の笑顔を浮かべた葵だった。
彼女は心臓に治らない疾患を抱えていて、医者からは「長くてあと半年、早ければ今年の夏を越せないかもしれない」と宣告されていた。
彼女はそれを、まるで「明日の降水確率は八十パーセント」とでも言うような軽やかさで僕に告げた。秘密を共有してしまったあの日から、僕は彼女の気まぐれな「リスト消化」に付き合わされる共犯者になった。
*
葵に手を引かれて連れてこられたのは、町外れの古い歩道橋の上だった。
眼下には夕方の帰宅ラッシュを迎えた幹線道路が走り、車のヘッドライトの帯が遠くの海へと流れている。海風が吹き抜けて、葵の制服のスカートをふわりと膨らませた。
「ここから見る夕日、町で一番綺麗なんだよ」
葵は手すりに体重を預け、茜色に燃える西の空を指差した。
「わざわざこれを見せるために、僕を連れ出したの?」
「それもあるけど……はい、これ」
葵はいちごオレのストローを咥えたまま、もう片方の手で僕に小さな紙袋を押し付けてきた。中を覗くと、銀色の包み紙に入ったチョコレートが二粒。
「なにこれ」
「今日、五月十四日。イエローデーだよ。黄色い服を着てカレーを食べる日……じゃなくて、韓国ではローズデーって言って、恋人同士が薔薇を贈り合う日なんだって。薔薇は高かったから、薔薇の形したチョコ!」
「僕たち、恋人じゃないだろ」
「知ってる。だからチョコは二粒。一粒は付き合ってくれたお礼。もう一粒は……これからの前払い」
「前払いって」
「私さ、死ぬまでに秋吉くんの『本当の顔』が見たいんだよね」
葵は手すりから身を乗り出すようにして、僕の顔を覗き込んできた。
大きな瞳の中に、沈みゆく夕陽の紅が宿っている。吸い込まれそうなほど綺麗で、同時に、触れれば壊れてしまいそうなほど儚かった。
「本当の顔って何だよ。これが普段の僕だけど」
「嘘ばっかり。秋吉くんはさ、いつも透明なガラスの壁の内側にいるじゃん。『僕に関わらないでください、傷つけないでください、感情を動かさないでください』って顔に書いてある」
痛いところを突かれて、僕は視線を逸らした。
他者と深く関われば、いつか必ず別れが来る。感情を交わせば、失ったときの痛みに耐えられなくなる。だから僕は本の世界に逃げ込み、誰とも深く繋がらないように生きてきたのだ。
「……瀬名さんみたいに、誰とでも笑い合える人間ばかりじゃないんだよ」
「私だって、怖くて笑ってるだけかもしれないよ?」
不意に、葵の声の温度が下がった。
風が止み、遠くのクラクションの音だけが間抜けに響く。
「ねえ、秋吉くん。私ね、夜ベッドに入ると、たまにすごく息が苦しくなるの。胸が痛いんじゃなくて、怖いの。明日の朝、目が覚めなかったらどうしようって。私の見てるこの世界が、ぷつんって切れて、私だけ真っ暗な箱の中に置き去りにされたらどうしようって」
彼女の華奢な肩が、かすかに震えていた。
いつも太陽みたいに眩しい笑顔を振りまいている少女の、それが剥き出しの裏側だった。
「それでもね、朝が来るとホッとするの。今日も息ができてる、太陽が昇ってるって。そうすると、もったいなくてたまらなくなるの。誰かを嫌ったり、退屈そうにため息ついたりしてる時間がさ。だから私、笑うの。楽しいから笑うんじゃないよ。笑ってないと、心臓が先に止まっちゃいそうだからだよ」
葵は振り向き、僕を見上げた。
その瞳には、夕陽の光に紛れて、今にもこぼれ落ちそうな涙の膜が張っていた。
「なのに、秋吉くんは生きてる時間を余らせてるみたいに見えるんだもん。すっごく贅沢で、すっごく羨ましいよ」
「……贅沢なんかじゃない」
喉の奥が熱くなり、言葉がひりついた。
「羨ましいなら、もっと生きろよ。僕の時間を分けてやれるなら、いくらでもやるよ。半年で終わるなんて勝手に決めるな。僕を巻き込んで、勝手に特別にして、勝手にいなくなるなんて……そんなの、ずるいだろ」
感情を抑えきれずに吐き出した僕の言葉に、自分自身が一番驚いていた。
他人に踏み込まないはずだった。心を動かさないはずだった。
それなのに、目の前のこの少女が消えてしまう未来を想像しただけで、僕の世界の足元がガラガラと崩れ落ちそうになっていた。
葵はぽかんと口を開けて僕を見ていたが、やがて、くしゃりと顔を歪めて笑った。
大粒の涙が、頬を一筋つうと伝い落ちる。
「あはは……なんだ、ちゃんと怒れるんじゃん」
「瀬名さん……」
「ずるくてごめんね。でも、嬉しいな。秋吉くんが、私のためにそんな顔してくれるなんて」
葵は手すりから背を離し、僕の前に一歩歩み寄った。
そして、冷たくなった両手で、僕の右手をぎゅっと包み込んだ。小さな、けれど確かに命の熱を持った掌だった。
「ねえ。昔の人はね、自分の身体の悪いところと同じ動物の部位を食べたんだって。肝臓が悪い人は肝臓を、胃が悪い人は胃を」
「……何の話?」
「もし私が死んだらさ」
葵は僕の目をまっすぐに見つめた。冗談の気配など微塵もない、あまりにも透き通った真剣な眼差しで。
「私の心臓、秋吉くんにあげる。物理的に移植するんじゃなくてね、魂の話」
風が再び吹き抜け、彼女の長い髪が僕の頬をかすめた。
「秋吉くんが私のこと、ずっと覚えててくれたら、私の心臓は秋吉くんの胸の中でずっと動き続けられるでしょ? 君の心臓の中で、私がドクンって脈打つの。そしたら私、死なないで済むじゃん」
「そんなの……」
「だからね、覚えてて。私がここにいたこと。秋吉くんの手を握って、一緒に夕日を見たこと。……私の心を、秋吉くんが全部たべて」
夕闇が、足元から静かに這い上がってくる。
町の灯りがぽつぽつと灯り始め、僕たちの影を長く引き伸ばした。
握られた葵の手の温もりが、痛いほど僕の皮膚を通して伝わってくる。
その心臓が刻むリズムを、僕はこの時、確かに手のひらで感じていた。
「……食べるよ」
僕は、自分でも驚くほど静かな声で答えた。
「忘れない。君がどれだけわがままで、身勝手で、僕の平穏をめちゃくちゃにしたか、一生かけて呪いみたいに覚えててやる」
「ふふ、なにそれ。最高の愛の告白じゃん」
葵は涙を拭い、今日一番の、とびきり眩しい笑顔を咲かせた。
その笑顔が、僕の胸の奥深くに深く深く突き刺さる。
彼女の残り時間がどれほど短くても、この痛みを、この光を、僕は一生手放さないだろう。
西の空から太陽が完全に消え去り、群青色の夜が訪れる。
歩道橋の上で、僕たちは手を繋いだまま、世界で一番美しくて残酷な夜の始まりを見つめていた。




