本文
今から皆さんには、ある小説を読んでいただきます。
しっかり読み込んだ上で、その後に出る問題に答えてください。
制限時間は、ありません。
どこかに帰りたいと思った。
いつかに戻りたい気がした。
場所も日時もわからないが、とにかく帰りたくて戻りたいという漠然たる衝動を、自室のベッドで宵闇を眺めつつ、抑え込んでいた。
明日の天気はどうなるだろう。
曇りの日は嫌いだ。日が出ていないから。
晴れの日は嫌いだ。何となく。
みんな、幸せに生きてくれ。
僕はここで、朽ちているから。
僕はこの屋敷で、終わるから。
みんな頼む。みんなで幸せに……
……待てよ?こんな世の中で、みんな幸せになれるのだろうか?
大丈夫なのか?この世は理不尽だらけだぞ?そうでなくとも、『理不尽ではない』と社会が決め付けていることであっても、生物としての本能からすれば理不尽だということだって、ままありありだ。
……まさか、そういうことなのか?
それが、人生というものなのか?
狂人が主催するオリンピック大会は、そこまで精巧に精密に丁寧に執拗に、まっすぐにひねくれて、上手くいかないように出来ているのか?
嗚呼。
『義憤』などという烏滸がましい表現は用いまいが。
ただ、怒りがある。
僕にはずっと、この世界の人々を苦しめているものへの、この世界の構造そのものへの、怒りがある。
会いたい人はいない。
やりたいことは無い。
帰りたい場所を探したい。
戻りたい時期を探したい。
それは未踏の地点や、未来の時点かも知れない。
だからまずそれを探したい。
未知の故郷を、探したい。
その上で、僕は。
人を、救いたい。
人を、巣食いたい。
◆ ◆ ◆
「どういうつもりだ、お前」
高貴な衣服に身を包んだ男が、奴隷に向かって冷ややかな呵責を浴びせる。
「私の奴隷であるお前が、なぜ私より後に起きるのだ?」
「すみません」
「謝ってどうする?私は今、質問をしたのだが」
「……」
奴隷は……ハイドは、その質問に答えることはできない。なぜなら今朝の寝坊は、ハイドの主人であるところの、今まさに自分を責めているオクスに振るわれた、暴力が原因だからだ。
昨晩は、いつもより多めに蹴られた。
そしてそれを言ってしまうと、彼は『私のせいだと言うのか!』と更に逆上し、また暴力行為に及ぶだろう。
「……夜更かしをしてしまったからです」
「はっ。全く、お前は使えん奴隷だ。働くことだけがお前の生きる意味だというのに、遊んでいたりでもしたのか。お前はカルボ家の恥だ、もはやお前には生きる意味など無いだろう。本当に死んで欲しいと心から思うよ……お前さえいなければ、お前さえいなければ私は……」
「申し訳ありません。善処いたします」
「……ふん。今日の午後2時に、重要な会議がある。お前のような穢らわしい者は、くれぐれも会議室に近寄らないように」
「わかりました」
ようやく部屋から出て行ったオクスに、ハイドはため息の一つも吐かずに立ち上がり、淡々と仕事を始めた。
こんなのは日常茶飯事だ。
ハイドはそもそも、幼少期から生粋の奴隷としてこれまでの人生を過ごしてきたため、こんな貴族階級の人間が自分を引き取ってくれるだけでも有り難いと思っている。
大体、自分に対する接し方から察するに、主人であるオクスは、不本意ながらやむを得ず渋々自分を引き取ったに違いない。
そしてそれとはまた別に、オクスが自分に強く当たるもう一つの理由を、ハイドは理解している。
それもあって、自分の主人に同情し、主人のストレス発散に付き合い、主人の慰み物になることに、抵抗を感じないのだ。
「やあハイド。君は今日も暗い顔だね」
少しして、廊下の掃除をしようかと部屋を出ると、いかにも偉そうな態度の少年がハイドに話しかけてきた。
ハイドと同い年くらいの少年である……どころではない。顔も体格も瓜二つで、声もほぼ同じだ。
衣服は貴族のそれであるし、肌も至って綺麗だが、その後天的な違いが無くなってしまえば殆ど見分けが付かなくなる程に、容姿も体型も声も似ている。
「おはようございます」
「おっと、近寄らないでくれよ?僕はこのあと会議に参加するんだ、汚されちゃ堪らない。君も精々、この晴天の下で掃除に励むと良いよ」
「……」
似ていても、しかし中身は別人だ。
そもそも地位が違う。
ハイドは奴隷であって、この少年はこの家の令息だ。奴隷と貴族との、圧倒的な立場の格差があるのだった。
「……あの、ハイン様」
「おいおいハイド、いつ僕の名前を呼んで良いと言った?前に、僕のことは令息様とでも呼べって言ったろう?」
「令息さ…」
「もう良い。それ以上喋らなくて良い。今ので気分が悪くなった。これ以上気分を悪くして、朝食を美味しく食べられなくなったらいけない。それじゃ」
「……」
いつも通りの朝だ。
周囲の人間が自分にだけ悪態をつくということ自体は、それはもう予定調和だ。受動的なモーニングルーティンと言っても過言ではない。
だから今朝は、いつもと何ら変わりない、普通の朝だ。
この時までは、そう思っていた。
◆ ◆ ◆
庭の掃除をするハイドは、ふと想う。
今日は確か、あのナイトロ伯爵がこの家にお越しになる予定らしい。さっき言われた『会議』というのも、そのナイトロ伯爵と共に行われるとのことだ。
自分には関係の無いことだが、しかしそんな改まった会議の場に、自分とほぼ同じような存在である、ハインが参加するのか———と。
そんなことを想って、何かぼんやりとした憧憬のようなものが、ハイドの胸の裡に浮かんだ。
あるいはそれは、もっと薄暗くて、後ろ向きな感情だったのかも知れない。
晴天の下、庭の乾いた地面に、何滴かの雨が降った。
『カルボ家』。
それは、この国において子爵の地位にある、カルボという男が住む家であり、またその家の住人全体を意味する言葉でもある。
住人は、当主たるカルボと、その令息のハインと、カルボの妻(兼、秘書)であるオーガンと、カルボの使用人であるオクス、そしてオクスの奴隷のハイドだけだ。
そんな中で、オクスはカルボに認められようと、これまで必死の努力を積み重ねてきた。カルボのためなら、どんなに困難で領分の外にあるような仕事であっても、引き受けた。
カルボもオクスに対して、『信頼しているぞ』などとは言う。
しかし……それでも本当は、オクスはカルボから、『ただの他人でただの使用人』という程度にしか思われていないということには、オクス本人も、その奴隷たるハイドも、とうに気付いているのだった。
カルボの興味はいつも、自慢の令息たるハインや、秘書のオーガンに向くばかり。
それでもオクスは、カルボに認められたい、カルボを振り向かせたいという気持ちを、ずっと捨て切れずにいるのだった。
「おい、ハイド」
一仕事終えたハイドのもとに、オクスがやって来た。
まずい、怠けていると思われたのだろうか、早く次の仕事に向かわねば……などと焦るハイドだったが、しかしオクスは、いつになく穏やかな表情で———強いて言えば、出会ったばかりの頃のような穏やかな表情で、告げるのだった。
「じきに雨が降るそうだ。その時には、出て行け。お前はもう用無しだ」
◆ ◆ ◆
雨が降った。
ハイドは、カルボ家を追い出された。
身体が濡れて、冷たい。寒い。
「……………………」
食べ物もお金も無く、家族も仲間も無く、身寄りなどたった今失って、その上で雨に濡れた身体を、とぼとぼと移動させる。
自分が、どこに向かっているのかもわからず。
自分が、どこに向かえば良いのかもわからず。
この世界では、雨というものには大きな意味合いがある。
曰く、『雨が降っている時には、その場所に居る全ての人間は、ある一定の契約を結んでいてはならない。雨が降っていない時には、ある一定の契約を何か結んでいなければならない』、と。
昔からの伝承に由来する、言ってしまえば迷信のようなものだが、然るに、この世界ではそれがルールだ。
降水を合図にハイドが追い出されたのも、それが理由である。主人と奴隷という一方的とも言える関係ではあったが、それでもあれは一種の契約関係だったのだから、雨が降っていない時にハイドをクビにする訳にはいかなかった。
このルール、冷静になってみればとんでもないことを言っているが、しかし皆冷静ではないのだ。
この世に冷静な者など一人もいない。
人々は常に動き回り、拡散し、混濁する。
この世界では滅多に雨が降らないということも相まって、だからこのルールを疑う者は、誰もいないのだった。
「…………」
歩き続ける。
足は止めない。
何の意味があるのか、わからないけれど。
全身ずぶ濡れで、身体はどんどん冷えてきているが、もうその感覚にも慣れてしまった。
体温が、雨粒の温度に近づいていく。
雨粒の温度は、ハイドの体温に近づいていく。
お互いにその存在を近づけ合い、溶かし合っていく。
———身体が汚れていたからだろうか。
さながら水浴びのように、この雨に打たれることで、清められているかのような……
身も心も清められているかのような、もはや自分という存在そのものが清められているかのような……
救われるような、気がしてきて。
いっそ、この雨になりたい。
自分が、この雨になってしまいたい。
そんなことを、ハイドは願った。
◆ ◆ ◆
「それではオクス、誓いの言葉を」
「……っ」
オクスには、穏やかでない内心を悟られないように取り繕うのが精一杯だった。
元々、あのハイドを拾ったのは成り行きだった。道端に転がっていた死にかけの餓鬼に、ちょっとした施しを与えるだけのつもりだった。
しかし、オクスはすぐに後悔する。
カルボ子爵と出会い、彼に仕える日々を送るにつれて、あんな小汚い奴隷を持ってしまったことを何度も後悔し、手離したいと切望した。
しかしこの世界では、雨が降らなければ奴隷を捨てることはできない。
そして中々雨が降らず、ハイドとの付き合いは、なんだかんだと長くなってしまっていた。
そう。今までカルボ子爵がオクスに振り向かなかったのは、カルボ子爵がオクスのことを、卑しい奴隷を持っているような程度の低い男だと看做していたからだ。
自分は、あんな穢らわしい奴隷とではなく、カルボ様と密接な関係を築きたいのに。
それなのに、あの奴隷のせいで、ハイドのせいで台無しだ……という、そんなオクスにとっての悩みの種も、しかし既に無くなった。
ハイドとの付き合いは終わったのだ。
ようやく小汚い奴隷を手離し、自らの唯一の汚点を綺麗さっぱり捨て去って、これで自分も胸を張ってカルボ子爵に仕えることができる……と、思っていたのに。
「オクス、やってくれますね?」
「はい、オーガン殿……」
「よろしくお願いしますね、オクス様!」
「よろしくお願いします」
オクスは秘書からの確認の言葉を肯定して、はつらつとした少年の言葉に事務的な返事をするのだった。
ハイドを手離したオクスは、その代わりに、別の人物との契約を結ぶことになった。
そもそも、この契約をするためにハイドを捨てたというような部分が大きい。
秘書のオーガンもそうだが、オクスは一度に2人までの相手としか契約できないのだ。
カルボと二重契約をしているオーガンはさておき、カルボと契約をしているオクスは、あと1人の相手としか契約できない。だからハイドと契約したままでは、別の人物との契約ができなかった。
ちなみに、カルボ子爵は一度に4人の相手と契約できる。ナイトロ伯爵は、一度に3人の相手と契約できる筈だ。また、ハイドやハインは、一度に1人の相手としか契約できない。
今回の契約の相手は、ナイトロ伯爵を代表とする『安眠館』という家。正確には、その家に仕える使用人の一人である、ヒュームという少年だ。
この少年と———ハイドとよく似ていて、ハインともよく似た顔を持つこの少年と、オクスは契約を結ぶことになったのだった。
「……これで、契約は完了しました」
「よくやったオクス。改めて、誠にありがとうございます、ナイトロ伯爵」
「こちらこそありがとう、カルボ子爵」
『安眠館』とは、肉体のあらゆるトレーニングをサポートするサービス業を家業とする、企業の一家である。家が、そのもの企業なのだ。
繰り返して言うが、これは企業の名前であるのと同時に、まず家の名前だ。例えば『カルボ家』のように、『安眠館』は家の名前であり、その家の住人全体を意味する言葉でもあるのだ。
ただし、名前に反して、睡眠に関するサービスは行わない。パーソナルトレーナーのように、騎士から兵士から、格闘技の闘士から、運動不足の貴族まで、様々な人間を対象としてトレーニングをサポートしてきたこの家だが、睡眠に関するサポートは、特にしたことがない。
ならば、普通に『ナイトロ家』と名乗っても良さそうだが……なぜ、『安眠館』と名乗っているのだろうか?
「それにしても、これは僥倖だったな。うちの使用人は平均的には怠け者なんだ。ホルムも、ヘキスも、ヒドルも、この契約を結ぶことには乗り気でなかったのだが……いつもはこういうことに消極的なヒュームが、今回は自分から契約を申し出てくれて、本当に助かったよ」
「いえいえ!ナイトロ様の仰せであれば、当然ですよ!」
「はっはっは、よく言う」
そんなナイトロ伯爵とヒュームとの会話を聞きながら、オクスは、『安眠館』についての噂話を思い出していた。
曰く———
『安眠館』には、四人の使用人がいる。
この四人は、みんな同じ顔で、同じ声で、同じ体格で、同じ体質なのだが……
しかし、そのうちの一人は偽物だ。
いや、それはもはや本物と区別が付かないくらいに本物同然なのだが、それでもやっぱり偽物だ。
なぜなら……ナイトロ伯爵が契約できる相手の人数は、本当は3人までの筈なのだから。
存在する筈が無いのに、元々いなかった筈なのに、最初からそこにいたかのように、いつの間にか当たり前のように存在している、本物と全く同じ偽物が、紛れ込んでいる筈なのだ———と。
……ただでさえ。
ただでさえ、あのハイドと契約関係にあったせいで、自分にはカルボ子爵を振り向かせることができなかったというのに。
ようやくチャンスを掴んだと思ったら、よもやこんな、にっくきハイドと瓜二つの、そしてカルボ子爵に溺愛されている令息のハインとも瓜二つの少年と、契約を結ばされることになるなんて。
それに———もしもこの少年、ヒュームが。
あの噂話で言うところの、『偽物』なのだとしたら。
そんなの。
そんなの、あのハイドとの契約関係が続いていたほうが、まだ———
「……ん?」
「お、おや?」
「え?」
突然。
突然、雨が降り始めた。
つい先刻、降り止んだのに。
この世界では滅多に降らない雨が、つい先程、止んだところだというのに。
どういう訳か、またしても、雨が降り始めた。
◆ ◆ ◆
———おお。
降るとは、こういうことか。
降るとは、こんな感覚か。
「珍しいこともあるものだね。さっき止んだ雨が、またこんなに……」
「せっかく結んだ契約を、こうも早く解除することになるとは……お互い、災難ですな」
「そうだね。何せ、この契約は必然だ。この世界において、君たちカルボ家は陰影を担当していて、我々『安眠館』は陽射しの担当をしているのだからね。この二者は必ず引かれ合うというのが、この世界の摂理だ」
「そうですな。一時は解除しても、この契約は、最終的には結ばねばなりませんからな」
楽しい。面白い。可笑しい。
なんだ、楽しいじゃないか。
なんだ、良かったじゃないか、これで。
良かったじゃないか。
良かったじゃないか。
「大変恐縮ですが、カルボ様、お手洗いをお借りしても宜しいでしょうか?」
「ああ構わないよ、オクスに案内させると良い。オクス、ヒューム殿に案内を」
「わかりました」
良かったのか。
良かった訳が、ないじゃないか———
「こんなに風通しの良い廊下を歩いて行くんですね!わあ凄い、ほんの一歩横にずれただけで、もう外ですね!」
「ごめんね、屋根があるだけで壁は無いというのは、少し不便な廊下かも知れないね」
「いえいえ、ぼくはすっごく楽しいですよ!毎日でもこの廊下を歩きたいくらいです!」
あ。
オクス様。
見たことのある顔だと思ったら、オクス様じゃないか。
おや、その隣にいるのは……
———ああ。
「広い中庭ですねー!ぼく、この家と関わりを待てて幸せです!オクス様と契約できて嬉しいですよ!」
「ははは、気が早いよ。雨が降って契約を一旦解除したのだから、このあと再び結ばないと」
今ならわかる。
僕にはわかる。
あれは、偽物だ。
そういうものとして、そういう風に振る舞っているだけの、あざとく無邪気な愛想を振り撒くことでその存在を許されようとしているだけの、元は余所者だった、偽物だ。
僕にはわかる。
僕だからわかる。
「こんなに広いと、はしゃぎたくなっちゃいますね!ぼく、もうこの雨を思いきり浴びちゃいたいです!わーい!うわー!冷たい!あはははは!」
「こらこら、そんな滅多やたらに服を濡らすものではないよ」
なぜならば。
今度は僕が、そうなる番だからだ。
「———!」
「ん…?どうしたんだ、ヒューム殿?」
「———」
「あの……ヒューム殿?急に立ち止まって、一体どうしたのかな?早くこちらへ戻ったほうが良いと思うのだが……、そんなに濡れると風邪を引いてしまうよ」
「———すみませんオクス様、今そっちに戻りますね」
「何だったのだ一体……まったく、変な子だね君は」
「あはは、失礼しましたオクス様。ただ……やっぱり今、すごく幸せです」
「そうか、良かったね」
「僕は今、救われたんです」




