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タイトル未定2026/09/09 19:06

『花束を抱いて、海へ』


その町では、春になると海が青くなる。


冬のあいだ鉛色だった水面に光が戻り

岬には菜の花が咲き

坂道を下る風には

まだ少し冷たい潮の匂いが混じった。


老人は毎年

春の最初の日曜日になると花屋へ行った。


「今年も、いつものを」


白いカスミソウ。

薄桃色のラナンキュラス。

それから一本だけ、赤い薔薇。


花屋の娘は

もう何年も同じ花束を作っていた。


「奥さまに?」


そう聞くと老人は、


「まあ、そんなところです」


と笑った。


照れたような

少年みたいな笑顔だった。


老人は花束を抱えて

海沿いの道を歩いた。


途中、小さな公園がある。


桜は満開だった。


子どもたちが走り

若い母親が笑い

ベンチでは恋人たちが肩を寄せていた。


風が吹くたび

花びらが何百枚も舞い上がった。


老人の肩にも一枚

桜が落ちた。


彼はそれを摘ままず

そのまま歩いた。


坂を上り

古い教会を過ぎ

岬へ向かう。


そこから見る海は

世界の終わりみたいに広かった。


水平線の向こうで

太陽がゆっくり傾きはじめていた。


老人は崖の手前にある

古びたベンチに腰を下ろした。


隣に花束を置く。


「今年も咲いたよ」


誰もいない場所へ言った。


「君の好きな桜」


波の音だけが返事をした。


老人は長いあいだ

海を見ていた。


やがてポケットから

小さな写真を取り出した。


若い女が笑っていた。


麦わら帽子。

白いワンピース。

その隣には

今よりずっと若い老人がいる。


二人とも

眩しそうに目を細めていた。


写真の裏には、


「昭和四十三年四月二日 初めての海」


と書いてあった。


老人は写真を撫でた。


「もう五十八年か」


風が吹いた。


桜の花びらが一枚

どこからか飛んできて

写真の上に落ちた。


老人は笑った。


「相変わらずだな」


そして

しばらく黙ったあと


「じゃあ、また来年」


と言った。


立ち上がり

花束を抱えた。


そのときだった。


「お父さん」


背後から女の声がした。


老人が振り返る。


五十歳くらいの女性が立っていた。


息を切らし

泣きそうな顔をしている。


「こんなところまで一人で来たらダメって言ったでしょう」


老人は困ったように笑った。


「大丈夫だよ。まだ歩ける」


「そういう問題じゃないの」


娘は老人の手から

そっと花束を受け取った。


そして写真を見た。


「……また、お母さんに?」


「ああ」


老人は海を見た。


「春だからな」


娘は何も言わなかった。


ただ、父の腕を取った。


二人はゆっくり坂を下り始めた。


老人は何度も振り返った。


海が夕日に染まり

桜が風に舞っていた。


あまりにも美しい春だった。


だから娘は

最後まで言えなかった。


父が毎年会いに来ている母は、


死んでなどいない。


坂を下った町の

小さな老人ホームで


今も生きている。


ただ、


父のことを

もう覚えていない。


去年も。


一昨年も。


その前の年も。


父は花束を持って

妻を訪ねた。


妻はそのたび

丁寧に頭を下げた。


「まあ、きれいなお花。

どちらさまでしょう」


父は毎回


「通りすがりの者です」


と答えた。


そして笑って帰った。


ある年

帰り道で娘に言った。


「死んだ人を想うなら、

墓へ行けばいい。


でもな。


生きているのに

もう自分のことを知らない人を想うには


どこへ行けばいいんだろうな」


それから父は

春になると海へ来るようになった。


二人が初めて恋をした海へ。


妻の記憶にはもう存在しない、


二人だけの五十八年前へ。


その日の帰りも

娘は老人ホームへ寄るのかと思った。


けれど父は首を振った。


「今日はいい」


「どうして?」


老人は少し考えた。


そして

花束から赤い薔薇を一本だけ抜いた。


「今日はもう、会えたから」


娘には

その意味が分からなかった。


翌朝。


父は自宅のベッドで

静かに息を引き取っていた。


枕元には

昨日の写真。


その裏に

震える字が一行だけ増えていた。


「令和八年四月五日 最後も、君と海。」


葬儀の日。


娘は一本の赤い薔薇を持って

母のいる老人ホームを訪ねた。


窓辺に母はいた。


春の光のなかで

ぼんやり桜を眺めていた。


「お母さん」


「はい?」


「これ、お父さんから」


母は不思議そうに薔薇を受け取った。


「お父さん?」


やっぱり

分からない。


娘は笑った。


「ううん。なんでもない」


母は薔薇を鼻先へ寄せた。


その瞬間だった。


老いた指が

ほんの少し震えた。


そして窓の向こうの桜を見ながら


少女のように笑った。


「……海に、行かなくちゃ」


娘は息を止めた。


「え?」


母はもう答えなかった。


ただ

赤い薔薇を胸に抱いていた。


窓の外では

風が吹いていた。


桜の花びらが空いっぱいに舞い


遠く

建物の隙間に


春の海が光っていた。


記憶は消える。


名前も、

顔も、

約束も。


人間は

いつか大切だったものから順番に

手放していくのかもしれない。


それでも。


愛されたことまで

すべて消えてしまうとは限らない。


頭が忘れても


身体のどこかに。


理由のない懐かしさとして。


一本の薔薇に震える指として。


海へ行きたいという

たった一言として。


愛はときどき


記憶よりも深いところで


まだ


春を覚えている。

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