翡翠9
逃げ出したい。
だれも知らないところへ。
しかし、まだその時ではない。
まだ、翡翠は、飛べない。
やっとつばさに羽根が生え始めたばかりだ。
今、大空に飛び立てば、あっという間に猛禽や獣の餌食になるだろう。
それは、今よりもずっとつらいことかもしれない。
でも、この嫌な時間を、いつまで我慢せねばならないのだろう。
肩や髪や手をさわっているうちは、まだ耐えられるが、明らかに性的な場所に触手を伸ばしてきたなら。
それでも、我慢すべきなのだろうか?
翡翠は、ポケットのシャーペンを握りしめる。
どこに突き立てようか。
まだ翡翠は迷っている。
「身体がほぐれたから、きっと勉強がはかどるぞ」
男は上機嫌で、おどけながら部屋を出て行った。
翡翠は、すぐさまかんぬきをかけた。
そして、窓を開け放って、あいつの匂いを追い出した。
冷たい風が吹き込んだ。
翡翠は音を立てないようにベランダに出た。
身体が冷え切ってしまうまで、風の中に立ち尽くしていた。
大切な場所には触ってこなかった。
そんなことにほっとする自分が哀れで、涙がにじんでくる。
よしおは、いいよね。
男だから。
冷たい父親だけど、変態の父親よりはましでしょ。
自分の腹違いの弟を探したのは、知りたかったから。
どんなに幸せな暮らしなのだろう。
あちらでは、あいつがどんなにいい父親を演じているのだろう。
あいつは、どっちの家でも、クズに変わりはなかった。
でも、よしおには、甲斐甲斐しい母親がいた。
うっとうしいほど世話を焼いて、全てから守ってくれる、母親がいた。
翡翠はといえば、横暴な母親にののしられながら自分とミルクの世話を全部して、その上、あいつのおもちゃになっているのに。
何にも知らないくせに。
勝手に翡翠のことを、自分に惚れて会いに来る中学生と思って。
顔を赤くしたり、そわそわしたりしている。
能天気なやつ。
翡翠は憎みながら、半分血がつながった弟を憐れんだ。
二人とも、父親らしい愛情に飢えていたから。
あいつしか、与えることができないなんて。
どうしたって、あいつからはもらえっこないのに。




