翡翠1
鳥居をくぐると、翡翠は義雄に手を振って、その背中が遠ざかるのをしばらく見送った。
それから、辺りを見回して、小走りで反対方向に急ぎ始めた。
ちょっと行ったところにある空地に隠してある自転車にカギを差し込み、道路に出してからまたがった。
二十分も自転車をこぐと、マンションが見えてくる。
マンションの駐輪場に自転車を停めると、正面に回った。
さっと周りを見回し、人がいないのを確認すると、集合玄関機にカギを差し込んで回し、オートロックを解錠した。
エントランスに入ると、405の郵便受けのロックを解除して、郵便物を取り出し、またロックして、エレベーターに乗った。
「ただいま」
翡翠がドアを細めに開けると、ワンワンと吠えながら、小さい毛のかたまりが翡翠に体当たりしてきた。
翡翠はしゃがんで受け止めると、ささやき声をかけた。
「ただいま~、ミ~ちゃん、さびしかった~?」
ミルク多めのミルクティーの色をしたチワワが、前足を翡翠にかけながら一心に見上げ、ちぎれそうにしっぽを振っている。
玄関の三和土に男物の靴が無いのをすばやく確認すると、翡翠はやっと普通のモードになった。
顔をなめられた翡翠は、くすぐったそうに首をすくめて、わしわしと思い切りミルクを撫でた。
「ごめん、遅くなって。おなかすいたね。すぐ、ごはんあげるね」
浅い皿に顔を突っ込むようにしてあわてて食べるミルクのために、少しずつフードを皿に足してやりながら、一方でトイレシーツを手早く替える。
「わたしだって、どうしても早く帰って来れないことがあるんだから、そんな時くらいは、ママがミルクにエサをやってくれない?」
何日も逡巡した挙句、かなり勇気を出して頼んだ翡翠に、母親は面倒くさそうに言い放った。
「何言ってんの。あんたが飼いたくて買った犬でしょ?
わたしだって忙しいんだから。押しつけないでよ。
いやなら、どこかに捨てておいで」
そんなこと、できるはずがない。
翡翠は、ミルクの大きな目を見て、涙ぐんだ。
こんなに無邪気に、信じ切っているのに。
ママは、ひどい。




